佐藤龍太郎 編 明治30年 大八洲館 発行
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史談の圓珠尼の疑問 肥後 佐々豊永
女鑑第百四十三號史談に圓珠尼と聞ゆるは上野國利根郡沼田邑に住ける河
田四郎といふあやしきものヽ女ときヽしのみにて(中略)敷島の大和歌など好むままに(中略)百敷の大宮にさへ聞えてやがて天聴にも達し上野の沼田の里に圓なる珠ありとさへ時の帝にわたらせ給ひし正親町天皇の御製さへありしと聞くかしこさにやがては圓珠と改めて冥加としたりと聞くもありがたき事なり(中略)尼老て後瀧川左近将監一益此等の事を聞き及び床しう思ひて呼び出し云々とあり豊永曰熊本藩主細川侯爵家に仕へし沼田勘解由(知行五千石)が傳來の系圖を見るに左のごとし藤原姓沼田氏(初代)秀郷(二代)千常(三代)公光(従五位下相模守)(四代)公俊(右馬允)(五代)經秀(左衛門尉)(六代)秀達(従四位下刑部大輔)(七代)達義(筑後守)(八代)家通(沼田七郎領上野國住沼田庄依改氏稱沼田)(九代)家将(沼田太郎仕右大将頼朝公上野國建久元年十一月御入洛同四年五年御狩文治五年七月泰衡征伐依台命給供)(十代)家光(沼田七郎法名照心仕源頼家實朝兩主建保元年和田義盛叛逆之項於鎌倉若宮小路五月二日戦死)(十一代)家村(沼田三郎)(十二代)家政(沼田五郎法名妙瑞)(十三代)経家(沼田五郎母河村藤三郎秀基女)妹圓珠姫
いとよわき梅の匂ひの花ころも春よりさきにほころひにけり
龍田山もみちをわけている月はにしきに包むかヽみなりけり
伏見院御製
上野や沼田のさとにまとかなる珠のありとはたれか志らまし
(十四代)胤家(沼田太郎住沼田城建武二年十月足利尊氏征伐之項與小山河村下山加々美等一族蒙宮方之不審被収上野國沼田庄)(十五代)胤元(沼田藤七入道妙蓮仕等持院殿観應二年正月廿日賜若狭國三方郡萩生庄)
下沼田藤七入道妙蓮
可令早領知若狭國萩生庄
下司職事
右所宛行也早守先例可致沙汰之状如件
観應二年正月廿日 花押(足利尊氏)
(十六代)胤光(沼田三郎左衛門尉上野介仕将軍家依軍功賜山城國西七條右京寮津村彦五郎跀)
下沼田三郎左衛門尉胤光
可令早領知山城國西七條右京寮津村彦五郎趾
下司職在名田事
右為勲功之賞所宛行也早守先例可致沙汰之状如件
文和三年九月十三日 花押(足利尊氏)
(十七代)光政(沼田上野介)(十八代)有光(沼田三郎左衛門尉上野介)(十九代)光建(沼田上野介)(二十代)光延(沼田三郎左衛門尉上野介)(廿一代)光兼(沼田新左衛門尉上野介仕将軍義晴居若狭國熊川城)(二十二代)清延(沼田勘解由左衛門尉仕将軍義昭居熊川城)妹麝香姫(細川兵部大輔源藤孝室細川越中守忠興母天文十三年出生元和四年七月廿六日卒)(二十三代)延元(沼田小兵衛改長岡勘解由左衛門文禄元年三月属細川忠興賜長岡氏及知行五千石寛永元年八月十三日卒享年五十三歳)
以後連綿して熊本縣の士族たり沼田系圖の圓珠姫は九十代伏見天皇の正應元年より永仁六年まで十一年間にて鎌倉将軍宮久明親王在職の時の人なり女鑑史談の圓珠尼は百七代正親町天皇の永禄元年より天正十四年まで廿九年間にて将軍足利義輝義栄義昭内大臣織田信長関白豊臣秀吉等在職の時の人とす正應元年戌子より永禄元年戌午は二百七十年の後なりいづれの御代の圓珠を正とすべきか識者に問ふあきらかに教えたまへ明治三十年十一月三日天長節の佳辰に志るす