加沢記 巻之二③ 武山合戦齋藤越前太郎並城虎丸兄弟最期之事

加沢記 武山合戦齋藤越前太郎並城虎丸兄弟最期之事
加沢記 武山合戦齋藤越前太郎並城虎丸兄弟最期之事

主な登場人物

齋藤憲宗

 齋藤憲広の長男。越前太郎。

 弟が心配で帰って来てしまったのが悲劇の始まり。

齋藤城虎丸

 齋藤憲広の末子。

 『加沢記』ではセリフもない無垢な存在であるが故にその悲劇が心に残る…。

 ぶっちゃけ何て読むのかよくわからない。

真田幸隆

 『加沢記』ではほぼ最後の見せ場。

 調略に戦闘に大活躍。

池田重安

 この章でついに真田のそそのかしに屈する…。

早川源蔵

 憲宗が魚沼から連れてきたキラーマシン。

 野戦でも局地戦でも多くのネームドキャラを葬る。

内容

 さて、前章の最後で武山城の池田が「城虎丸の命は助ける」という条件で真田に降伏し、吾妻には束の間の平和が訪れたように見えましたが…

…章のタイトルで既に結末がバレてますが、この章では『加沢記』でも最大級の悲劇が展開されます…。

 

 齋藤越前太郎憲宗は岩櫃を奪われ北国へ落ち、長尾伊賀守を頼って魚沼郡早川の郷に居住していましたが…

 

憲宗「…ああ城虎丸のことが心配だ……一度古郷に帰りたい…」(原文:一度古郷に本意せん)

 

…と、長尾と栗林の両家からの少々の援軍と浪人たち…500余騎を集めます…。

 

 永禄8(1565)年10月下旬、武山に着いた憲宗は弟の城虎丸と合流し、一井齋(白井長尾)に加勢を求め、中山、尻高や、小川の赤松可遊齋らの協力も得て、2,000余騎で同年〇〇月に旗を揚げました…!

 

 岩櫃城のほうでは、齋藤兄弟の思いも寄らない挙兵に対し、上を下への大騒ぎになりましたが…幸隆や信綱たち兄弟は武略に長けた人物だったので…

 

幸隆「う…うろたえるんじゃあないッ!…真田武人はうろたえないッ!」

 

…と、城を堅く守らせました…。

 そのうえで真田父子は、富沢但馬入道、唐沢杢之助、植栗安芸守を武山城へ使いに出しました…。

 

憲宗「…お前らは……!?……富沢に…唐沢に…植栗ッ!…弥三郎や海野どもと一緒に父上を裏切った連中が…一体何の用だッ…!?」

 

富沢ら「…憲宗さま……その節は…ご迷惑をおかけしました。……が…我々の立場もご理解ください…。……今日は真田の大将からの伝言を持ってきました…」

 

その内容は…

(※本来は富沢たちによる伝言ですがココは直接話法で書きます)

 

幸隆「太郎(憲宗)どの~…聞くところによると北国のほうにいたそうで…大変だったね~。

 ところでさ…実はアンタのことは晴信(信玄)公とも相談しててさ~……一度アンタの望みどおり、ココへ帰らせてやろうって話になってんだよね~。

 アンタが帰ってくるってことはさぁ~、この城(岩櫃)に残ってるアンタの元家来のヤツらにもウマイこと言っておくからよ~…安心してくれよな~。……そいつら――富沢、唐沢、植栗――をメッセンジャーに使ったことからも察してくれや……」(原文:太郎殿近年北国にましゝゝの由内々晴信公へ申なし一度御本意を遂させ申上、当城に残る御一族にも申候を…)

 

幸隆「…オレも昔さ~…村上義清のヤロウと戦って負け…本国を追われてさぁ~……この国の長野の庄に浪人してたコトがあるんだよ…。

…だから太郎どの!…アンタの苦労は…オレにもスゲーよくわかるぜ…!」(原文:自去年村上と相戦本国を没落し当国長野の庄に浪人して吾身を不顧候也…)

 

幸隆「今回の和談が調ったらさ~…甲州に報告して、アンタを矢沢殿のムコとして迎えたうえで吾妻に帰ってきてもらう段取りになってるからよ~。…よろしく頼むぜ…。」(原文:此度和談相調甲州へ申成し矢沢殿聟取結、本所に返し申さん)

 

…さて、伝言を伝えて帰ってきた3人に…

 

幸隆「…おう、ご苦労さん!…どうだった?」

 

富沢「…し、信じてくれたみたいですけど…」

 

幸隆「そうか~…アイツたぶん…オレのこと“いい人”だと思ったんじゃね…ククク…」

 

富沢たち「(…ゾォー…)」

 

…そんなワケで憲宗は真田と和談し、援軍を帰して人質交換に応じます。

 

白井長尾ほかの援軍「…た…太郎(憲宗)さん?……あのさぁ…マジでウチら帰っちゃって大丈夫?」

 

憲宗「ああ。真田もオレのために色々と動いてくれたみたいだし…こちらも誠意を見せなければな…。」

 

………

 

 さて、真田が仕掛けるワナは、まだまだこんなものではありません…。

 真田幸隆は武山から城虎丸の守役である池田佐渡守重安を招きます…。

 

幸隆「…おう池田~…オマエは本当にマジメでイイ奴だよな~…」

 

池田「…!?」

 

幸隆「齋藤の家来や一族郎党…重い恩義を受けてる奴らまでがみーんなヤツ(齋藤憲広)を裏切ったっていうのによ~……オマエら父子だけは、今年までずっとヤツの末子(城虎丸)を守ってるもんな~…これこそ「武士の本意」ってやつだよな…」(原文:齋藤の家の子郎等重恩の面々不残心変り有けるに貴方父子今年に至まで彼末子をもり立けるこそ武士の本意也…)

 

池田「………」

 

幸隆「…でもな~…池田……齋藤の逆心については晴信(信玄)公がスゲー怒っててな……残念ながらヤツの子(憲宗と城虎丸)も誅罰することは間違いねーんだよ…。」(原文:然共齋藤逆心に付晴信公御憤深ければ子孫終に御誅罰あらん事疑なし…)

 

池田「…ううッ…」

 

幸隆「オマエはもともと楠木正成の子孫だっつーじゃね?…世の習いで齋藤に仕えてたんだろーけどさ…」(原文:貴方は元来楠正成の末孫たり、随世の習成ければ齋藤の下に住給事也…)

 

池田「………」

 

幸隆「…なあ…池田…オマエは立派だ…でもな……もはや城虎丸を救うことはできねーよ…もう十分に義理は果たしただろう?…

…後はオレに任せてよォ~…甲府へ忠信するべーじゃね?…そしたら領地安堵の証文は信玄公からもらっておくからさ…」(原文:我に同心有て甲府へ忠信の臣に成給へかし、然は領地永く無相違の旨信玄公御証文を申下し参せん)

 

――ゴゴゴゴゴ――

 

幸隆「……」

 

池田「……」

 

……

 

池田「……(コクッ)」

 

幸隆「(ニタァ~…)池田~ッ…オマエはホントに立派だよ…立派な武士だぜ~ッ…!」

 

 このことは甲府へ注進され、池田には領地安堵の証文が下されました…。

―――――

其方至今日武山城に籠り齋藤守立之旨最無比類心底感入候、然者此度以真田当家可有忠信之旨神妙之至り彼地本意に付は本領山田郷百五拾貫、右如此可被宛行猶依戦功可有御重恩之旨被仰出者也仍如件

  甘利左衛門奉之

  永禄八年乙丑十一月十日 信玄御判

  池田佐渡守殿

―――――

 これは甘利を通して渡された手紙ですかね。内容…

「池田~…オマエ今までずーっと武山城に籠って齋藤家を守ってきたんだってな~…感動したぜ~!……それで…真田から聞いたんだけど…オマエ今度はウチに仕えてくれるんだって?…いい心掛けじゃね~かオイ(笑)

…まあ吾妻がオレの望みどおりになった日にゃあ、オマエの本領の山田郷150貫は保証するからよ……あ、この戦いでの戦功によっちゃあ、この後々も目をかけてやるからな!…がんばれよ…」

―――――

 池田重安…前章では城虎丸の命だけは救おうとがんばってたのになー…。

 げに恐ろしきは人の心の弱さに付け込む真田の調略ですね。

 

 そんなワケで池田父子は武山を引き払って岩櫃へ参上しました。

 このことを知った齋藤兄弟は……

 

憲宗「…い、池田…?……ば、バカなッ!!…何故だッ!?…(あれから真田からも沙汰がないし)……し、しまった……ハメられた…?…」

 

――信頼していた池田の裏切り――齋藤兄弟はがっくりと力を落とします…。

 

憲宗「…こうなったらもう一度…白井と沼田に加勢を頼んで……生死をかけた合戦を仕掛けるしかねぇ…!!」(原文:白井、沼田の加勢を請い有無の合戦可遂)

 

 そう決意した齋藤兄弟ですが…

 これを聞いた一徳齋入道(幸隆)は…

 

幸隆「…バ~カッ!…もう遅ーよwwアイツら父子そろってチョロすぎ(笑)」

 

…と、間髪入れずに武山攻めを開始します…!

 

 武山攻めの先鋒は…鎌原、湯本、西窪、横谷、植栗、大戸、浦野、池田、富沢、唐沢、蜂須賀といった面子です…。

 

 先鋒のメンバーに池田を入れるあたりがまたエグイですね~……ほかのメンバーもみんなかつての吾妻の仲間たちです……せつない光景ですよね…。

 

 そして幸隆は、自ら300余騎を率いて先掛かりを務めます。その姿は、黒糸威の鎧に鍬形を打ったかぶとを着け、三尺五寸の太刀をはき、十文字の槍を下げ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置くといった具合でした…!

 幸隆の前後を囲むのは……丸山、春原、川原、矢野、小草野新三郎、上原、座村の、宮下、山越、深井、原、石田、高井、塩野、川合、山岡、富沢、一場、高山、桑原、中沢らといったメンバーです…!

 幸隆は“みの原”のこちら側である仙蔵の用害に駆け上がり、軍に下知をくだします…!

 

 対する齋藤兄弟も城から出陣…!…600余騎が五反田の台に押寄せ、戦闘が始まります…!

 

 調略により白井ほかの援軍を撤退させ、池田父子をも寝返らせた真田でしたが、武山にはまだ恐ろしい敵が残っていました…。

 

………

 

 真田方からは西窪治部左衛門が先陣を切って駆け出し、齋藤の先陣である秋間備前、大野新三との戦闘が始まります…!

 西窪は秋間を討ち取り、彼の首をかき斬りますが…

『早川源蔵』なる人物の率いる100余人に取り囲まれ、討たれてしまいます…。

 

西窪「…チッ!…ドジったぜ……真田の大将…約束は守れよ…!……蔵千世…元気でな……」

 

――西窪治部左衛門――討死――

 

………

 

蜂須賀「…西窪ォ!?……おのれ早川ッ…!」

 

…と後に続いた蜂須賀伊賀も、同様に討たれてしまいます…。

 

蜂須賀「…グフッ……舎人…後は頼んだぞ……」

 

――蜂須賀伊賀――討死――

 

………

 

幸隆「…西窪…!…蜂須賀…!……オマエらの忠信…確かに見届けたぜッ!……領地は約束どおり保証するから安心しな……そのためには…まずあの城を落とさなくちゃあなッ…!!」

 

…と、幸隆は自ら槍を引っ提げ、齋藤の軍に攻め掛かっていきます…!

 

 大将自ら突っ込んでくる幸隆の気迫に押され、齋藤方の士気が揺らいだのが分かりました…。

 好機を逃すまいと、真田の家来――春原、川原、矢野、丸山、山越、鎌原、湯本たち――は、抜き連れ、叫び声を上げながら一斉に齋藤に襲いかかります…!

 

 激戦でした…!

 午の刻から未の刻下り(3~4時間?)までの間に7度のせり合いとなり、齋藤方は200余騎が討たれ、真田方も150余が討たれました…!

…そして日が夕陽に傾く頃、齋藤方は貝を吹いて城山へ引き上げていきました…。

 

幸隆「…チッ…城内に逃げられたか…!……だがこのまま明日になっちまったら…オレたちは絶対的に不利だぜ…!」(原文:明日を遅し)

 

…と、真田の軍は夜中の間から武山を取り巻き、竹束で山上からの攻撃を防ぎつつ、叫び声を上げながら城攻めを開始します…!

 

 さて、城内の一ノ木戸では、唐沢杢之助と湯本善太夫と富沢十兵衛が、先の戦いで西窪治部と蜂須賀伊賀を討った早川源蔵と対決します…!

(この部分では書かれてないけど、この章の最後に書かれている信玄の手紙で明らかになります)

 

早川「………」

 

――ゴゴゴゴゴ――

 

十兵衛「…こ、コイツ…強いッ…!」

 

――ドバアァァッ!!――

 

十兵衛「…うッ…!…ここまでか…親父…すまねぇ…」

 

唐沢「…十兵衛ッ!?…くッ…!」

 

―――💥💥――

――💥💥―――

 

早川「…ぬう…なかなか面白いワザを使うヤツだ……がッ!…」

 

――ブシャァアアッ!!――

 

唐沢「…!!……かはッ…!…」

 

湯本「…あ!?…ああぁッ!…か、唐沢ーッ!?…ば…馬鹿な…」

 

早川「…ハァ…ハァ……どうした?…テメェもかかってこいよッ…!」

 

湯本「(こ…ここでコイツを討ち漏らすワケにはいかねえッ…!)」(原文:あませじ)

 

―――🔥🔥――

――💥💥―――

 

早川「…グブッ…!?」

 

………

 

 早川源蔵なる人物のことはよく知りませんが強キャラっぷりがスゴイですね。

 つーか『加沢記』ジャンプで読みて~…ぜってー面白いだろコレ。

 

 湯本は数か所の傷を負いながらも、ようやく早川を討ち取りました…。

 

湯本「…ハァハァ……唐沢ッ!…やったぞ!!…おい…しっかりしろ…」

 

唐沢「…やったな湯本!……オレはもう…あーあ…齋藤家に背いてまで武田に付いたってのに……うまくいかねーなぁ……お猿……強く生きろよ……」

 

――唐沢杢之助・富沢十兵衛――死亡――

 

………

 

…そして、もはや勝ち目がないことを悟った齋藤越前太郎憲宗は……

 

憲宗「…これまでか……父上……城虎丸…………すまない……」(原文:是迄也)

 

と、腹を十文字に掻き切ります……

 

――齋藤越前太郎憲宗(38歳)――齋藤憲広の嫡子――自害――

 

…この武山城は岩石がそびえ立ち、北国の倶利伽羅城でさえこれほど険しくはないだろうと言われていましたが……この要害の険岨に頼り、昨日軍兵を残さず城に入れ籠城したことが、かえって齋藤の命運が尽きる要因となってしまったのでした…。

 城虎丸は、城の北、天狗の峯に駆け登りますが……真田の軍は隙間なく彼を追い詰めます……。

 

幸隆「…!?…あれが城虎丸…?……まだ本当にガキじゃねーか……お、オイッ!!…そっちはアブねーぞッ!!」

 

……

 

幸隆「…あっ……」

 

 城虎丸は天狗岩から飛び落ちて、その体は岩石に当たり、微塵となって失せました……。

 

幸隆「……!!」

 

池田「(……城虎丸さま……ああ…)」

 

 付き従っていた女達も1人残らず岩の下へと飛び降り…その骸は今もその場所に残っているということです…。

 

 こうして戦いは終わりました…。

 武山の城には池田佐渡守、川原左京、鎌原、湯本を置き、戦果を甲府へ報告して、幸隆自らは岩櫃に住みました。

 

 翌年…武山にて討死した面々の家族宛に御感状と領地安堵の証文が下されました…。

 西窪蔵千世には…

―――――

 信玄公御判此処也

父治部於嶽山戦死寔忠信之至感入候、然者知行等之事無異議可相談者也仍如件

 永禄九丙寅年三月晦日

 西窪蔵千世殿

―――――

内容…

「蔵千世~…オマエの親父の治部(西窪治部左衛門)な…嶽山で戦死しちまったのは残念だが…ヤツの忠信にはマジで感動してるぜ!……オマエん家の知行については安心しな…!……何かあったらオレに相談しろよ!」

―――――

 

 唐沢お猿(のちの玄蕃)には…

―――――

 信玄公御判在此処也

父杢之助於嶽山一ノ木戸ロ討死忠節之程感入侯、然者知行事無相違可被相談者也仍如件

 同

 唐沢お猿殿

―――――

内容…

「お猿~…親父の杢之助が…嶽山の一ノ木戸ロで戦死したって話は聞いたぜ!……ヤツの忠信にはマジで感動しているッ!…オマエん家の知行については安心しな…!…何かあったらオレに相談しろよ!」

―――――

 西窪への手紙と同じですが、このお猿(唐沢玄蕃)は後に直接信玄のお目にかかることになります…。

 

 討死した蜂須賀伊賀の息子である舎人へも、前の2人宛のものと同じ証文が下されました…。

 次は湯本善太夫への手紙ですね。

―――――

去年十一月於嶽山一ノ戸口木辺強敵早川源蔵討捕其身も数ケ所手負晴之勝負則真田処より令注進候無比類次第に候、依之羽尾領内之林村において弐拾貫文之処令加増候、猶仍戦功可加重恩者也仍如件

 永禄九年丙寅三月晦日

  信玄 在判

  湯本善太夫殿

―――――

内容…

「湯本~…去年の11月、嶽山の一ノ木戸口で強敵の早川源蔵を討ったんだってな~!…オメー自身も数か所負傷しながらの晴れの勝負……話は真田から聞いてるぜ~!…マジでスゲエなオマエ!!…羽尾領内の林村で20貫文加増してやるからな…もちろん今回の戦功でますます目を掛けてやるぜ!」

―――――

 

 富沢六郎三郎にも湯沢と同様の手紙が下されました。六郎三郎は十兵衛の父です。

 

 

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原文

   武山合戦齋藤越前太郎並城虎丸兄弟最期之事

齋藤越前太郎憲宗は去ル年北国え落て長尾伊賀守を相頼、魚沼郡早川の郷に居住し給けるが、一度古郷に本意せんと企長尾、栗林両家少々加勢賜り諸浪人を招集て五百余騎引率、永禄八年十月下旬武山に着て舎弟一所に成て一井齋の加勢を請い中山、尻高、小川、赤松可遊齋合力して其勢弐千余騎にて同年〇〇月旗を揚たり、岩櫃には不思召寄事也ければ上を下へと返しけるが、幸隆公、信綱公兄弟武略の武兵也ければ物ともし不給、城を堅く守らせて富沢但馬入道、唐沢杢之助、植栗安芸守を以武山へ被申けるは、太郎殿近年北国にましゝゝ之由内々晴信公へ申なし、一度御本意を遂させ申上、当城に残る御一族にも申候を自去年村上と相戦本国を没落し当国長野の庄に浪人して吾身を不顧候也、此度和談相調甲州へ申なし矢沢殿聟取結、本所に返し申さんと細々と申されければ、太郎誠と心得て無左右和談を遂加勢の武士帰し給て互に人質取かわしければ、池田佐渡守重安を招ゐて幸隆公被仰けるは、齋藤の家の子郎等重恩の面々不残心変り有けるに貴方父子今年に至まで彼末子をもり立けるこそ武士の本意也、然共齋藤逆心に付晴信公御憤深ければ子孫終に御誅罰あらん事疑なし、貴方は元来楠正成の末孫たり、随世の習成ければ齋藤の下に住給事也、我に同心有て甲府へ忠信の臣に成給へかし、然は領地永く無相違の旨信玄公御証文を申下し参せんと被申ければ池田同心也、則甲府へ此旨注進有ければ池田に安堵の御証文を被下ける。

 其方至今日武山城に籠り齋藤守立之旨最無比類心底感入候、然者此度以真田当家可有忠信之旨神妙之至り彼地本意に付は本領山田郷百五拾貫、右如此可被宛行猶依戦功可有御重恩之旨被仰出者也仍如件

  甘利左衛門 奉之

  永禄八年乙丑十一月十日  信玄御判

  池田佐渡守殿

去程に池田父子武山を引払岩櫃に参りければ、齋藤兄弟無力、白井、沼田の加勢を請い有無の合戦可遂とて思立給ける、此由一徳齋入道聞給て不移時日鎌原、湯本、西窪、横谷、植栗、大戸、浦野、池田、富沢、唐沢、蜂須賀を先陣に先掛として自ら三百余騎引率して黒糸威の鎧鍬形うつたる甲を着、三尺五寸の太刀をはき十文字の鑓提け荒井黒と名付たる名馬に白覆輪の鞍を置丸山、春原、川原、矢野、小草野新三郎、上原、座村の、宮下、山越、深井、原、石田、高井、塩野、川合、山岡、富沢、一場、高山、桑原、中沢等前後を是か囲てみの原のこなた成仙蔵の用害に懸け上り、軍の下知をし給けり、齋藤兄弟も城を払て六百余騎五反田の台に押寄相戦かゝりける処に、西窪治部左衛門先陣に移欠出し齋藤の先陣秋間備前、大野新三と相戦秋間を討取をさへて首をかきければ、早川源蔵百余人にて西窪を取籠終に西窪被討にけり、蜂須賀伊賀此由を見てかゝりければ是も同被討にけり、真田此由を見給て自ら身鑓提ケ齋藤を目に懸ケ給て掛給ければ、齋藤此勢に僻易して前後しとろに見えければ、真田の家の子春原、川原、矢野、丸山、山越、鎌原、湯本の人々抜連ておめゐて懸りければ午の刻より未の刻下り迄七度のせり合、齋藤が郎党弐百余騎被討ければ身方も百五拾余被討にけり、日も夕陽に傾ければ齋藤貝吹て城山へ引入ける、寄手の人々は明日を遅しと夜中より武山を取巻竹たばを付て山上とも不言おめひて責たりける程に、唐沢杢之助一ノ木戸にて討死す、湯本善太夫此由を見てあませじと討取ければ憲宗不叶して是迄也とて腹十文字に掻切て三十八を最期として終に失せ給ひける、抑此城と申は岩石岨立て険岨なる事北国倶利伽羅か城と申共是には勝るべしや、齋藤が運命尽る瑞相には用害の険岨なるを頼て昨日軍兵不残城に入れ籠城したりし故なりけり、城虎丸は本城北の天狗の峯に駆登り給ければ敵隙間なく懸りければ天狗岩より飛落給て終に岩石に当り微塵に成て失給ひける、其外属随たる女房達こゝかしこの岩の下に落重て壱人も不残失にける、其骸骨今に有となり、かくて武山の城には池田佐渡守、川原左京、鎌原、湯本を籠置此由甲府へ注進あつて其の身は岩櫃に住給ふ也、翌年武山にて打死の人々に御感状領地安堵の御証文を被下ける、

  信玄公御判此処也

 父治部於嶽山戦死寔忠信之至感入候、然者知行等之事無異儀可相談者也仍如件

  永禄九丙寅年三月晦日

  西窪蔵千世殿

  信玄公御判在此処也

 父杢之助於嶽山一ノ木戸ロ討死忠節之程感入侯、然者知行事無相違可被相談者也、仍如件

  同  唐沢お猿殿

蜂須賀伊賀討死付息舎人へ同前之証文被下ける、

 去年十一月於嶽山一ノ戸口木辺強敵早川源蔵討捕其身も数ケ所手負晴之勝負則真田処より令注進候無比類次第に候、依之羽尾領内之林村において弐拾貫文之処令加増候、猶仍戦功可加重恩者也仍如件

  永禄九年丙寅三月晦日

  信玄 在判

  湯本善太夫殿

富沢六郎三郎、同前此者十兵衛父也。