加沢記 巻之一③ 真田弾正忠幸隆公並祢津美濃守信直法躰之事

加沢記 真田弾正忠幸隆公並祢津美濃守信直法躰之事
加沢記 真田弾正忠幸隆公並祢津美濃守信直法躰之事

主な登場人物

真田幸隆

 良心(笑)

内容

 続く章は、時間が前後しますが登場人物の出家や官途名などの話です。

 天文20(1551)年2月12日、甲府で武田信濃守源晴信は御法躰となり「法性院大僧正機山信玄」と改名したので、幸隆も御相伴で法躰となり「一徳斉良心」と名を改めました。

 

 前章であれだけの謀略をかました人間が「良心」と名乗るとか…それをこのタイミングで紹介するとか…イヤミでやってるのでしょうかね。

 

 幸隆の嫡子、源五郎信綱は信玄の近臣となり「源太左衛門尉」の名をもらいました。

 

 弟の矢澤右馬介は「薩摩守」の官途を受け、勝頼から諱の字をもらって「頼綱」と名乗ました。 

 

 祢津美濃守(信直=常安?)は村上合戦の時、幸隆と一緒に上州へ落ちたので、甲府へも一緒に呼ばれ、法躰も一緒にして「松鶴軒入道」と号しました。甲州没落(武田氏滅亡)の後は、徳川に仕えて、甲州駿州にて350貫文の領地をもらったということです。

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原文

天文二十年辛亥二月十二日、於甲府武田信濃守源晴信公御法躰、法性院大僧正機山信玄と御改名ならせ給ひしに依て、幸隆公も其節為御相伴法躰し給て一徳斉良心と御名を改め入道し給けり。嫡子源五郎信綱は信玄公近臣に属せられけるが源太左衛門尉と名を替給けり、舎弟矢澤右馬介は薩摩守と官途し給ひ、勝頼公より諱の字を賜り頼綱と名乗給ふ。祢津美濃守は村上合戦の時、幸隆公と一所に上州へ落給けるに依て甲府へも一所に被召出けるが法躰の時も松鶴軒入道と號しけり。甲州没落の後、徳川殿へ被召出、甲州駿州にて三百五十貫文の領地拝領也と云。