円珠姫関連

円珠姫は、永禄3(1560)年、三浦沼田氏の氏族、川田城主の川田四郎光清の一人娘として生まれ、幼名を小柳(こやなぎ)といいました。生まれた年代は『川田村誌』のものですが、もう少し前の天文年間とする説もあり、結婚した年代等を考えるとそちらのほうがしっくりきます。また「子持山」を「立田山」に改めるくだりは、『利根郡誌』以前の資料には見当たりません…。
円珠姫とは
円珠は、信濃村上の浪士である陶田弥兵衛(ようだやへい、当時は長野業政の家人)を夫に迎え、楽しい家庭をつくりました。ところが、弥兵衛は自分の老母を大切にせず窮状を訴える手紙が届いても無視をする有様でした。円珠はこのことをとても悲しみ、夫に母を孝養するよう言いましたが、弥兵衛はこれを聞き入れないどころか、逆にひねくれて乱行狼藉、飲酒遊蕩にふける始末でした。そこで円珠は意を決して、髪を剃り尼となって、宮塚の薬師堂に入りました。これを見た弥兵衛はようやく反省し、信濃に帰郷して老母に孝養を尽くしました。
結婚と出家
仏門に入った円珠は、ますます歌道に精進しました。天正10(1582)年3月、関東管領として、厩橋に入城した滝川一益は、沼田城代である滝川儀太夫の手引きで円珠を迎え、歌の師としました。同年6月、本能寺の変が起こり、滝川一益が上洛すると、代わりに北条氏邦が厩橋に入城しました。この時氏邦は1人の若い尼が風邪で床に伏しているのを見つけ、問いただすと、その尼は「円珠である」と答えました。氏邦は「円珠」という高名な歌人がいることは知っていましたが、目の前の病人がその人物本人かどうか疑い、本当の円珠なら「二つ三つ四つ」
滝川一益の歌の師として厩橋城へ そして北条氏邦を感動させる