加沢記 巻之三④ 昌幸公東上州御働之事戸鹿野八幡宮之事

加沢記 昌幸公東上州御働之事戸鹿野八幡宮之事
加沢記 昌幸公東上州御働之事戸鹿野八幡宮之事

主な登場人物

真田昌幸

東上州を攻めちゃうぜイェイ!!…栂野(戸鹿野)八幡宮で奇跡を起こす。

昌幸軍団

先陣、前備、脇備、旗本、御馬廻、武者奉行、後備、殿、小荷駄奉行、沼田御留主居、御使番…都合3,000余騎のみんな。

加藤丹波

鎌田(森下)城主。この戦いで真田の仲間に。

牧和泉守

杢和泉守。不動山(見立)城を守る。

海野幸貞

昌幸の挑発じみた鼓舞にムカついて、不動山城に徒歩で突っ込む。

唐沢玄蕃

昌幸の言葉を幸貞に伝える。まさか伝言盛ってないよね?

内容

 今回の章は…真田昌幸が前橋を攻めちゃうぞ~…って章ですが…

 でもその前の登場人物紹介が膨大な下書き状態で、さらに安倍惟任の話と戸鹿野八幡宮の伝説と続いて、それが終わったころには「あれ?何の話だっけ」ってなるいつもの“加沢記あるある”満載の章ですね。

 

 天正8(1580)年8月中旬…

 

昌幸「オイみんな~!…東上州のほうでひと暴れすべーじゃねぇ!!(原文:東上州御働可有)

 

…と、昌幸は藤田、海野、渡辺、金子、北、発知、下沼田、久屋、山名、恩田、西山、鈴木等を集めて集会を行いました…。

 その頃、前橋の城は由良信濃守と多目周防守の8,000余騎により守られていました…。

 

昌幸「おーしッ!!…フルメンバーで出撃だ!!…まずは田北ノ原(瀧棚の原)に“集合”すッゾ!?(原文:備を定以計可討)

 

 昌幸はこの年37歳(?)でイケイケでした…。

 

…まず、先陣の700余騎はッ!

 赤四方の旗を持った旗奉行…あれはッ!?…宮下喜内と加沢助左衛門だーッ…!

 舎弟の隠岐守昌若ッ!…コイツは信尹のことかァッ!?

 海野中務太輔ッ…!

 金子美濃守ッ…!

 久屋三河守ッ!!

 そして…渡辺左近允は白旗に三星石畳の紋を掲げて参上ッ!…馬印は赤熊だーッ!!

 西山市之丞は白旗に左巴…馬印は丸に橘だァッ!!

 湯本三郎左衛門もいるぞッ!!

 

…続く前備500余騎のメンバーはッ…

 中山安芸守だァーッ!!…白旗に違い鷹の羽は伊達じゃないッ!!…馬印は蝶(?)だッ!…おっと!…鼓がヘタなのは内緒だッ!

 鎌原宮内に…和田主水もいるぞッ!!

 おおッと…あれは!?…下沼田豊前守だぁーッ!!…白旗に赤左巴が輝いてるぞッ!…馬印は短冊だーッ!!

 

 そして…脇備の左と右が来たーッツ!!

 太鼓役は…野ナントカ二郎左衛門、ナンチャラ、藤井嘉右衛門が務めるぞッ!!

 

 左300余騎は…

 海野七左衛門尉ッ!!…白旗に二つ輪違いの紋がきらめくッ!!…馬印は立波だーッ!!

 続くは湯本左京進だッ!!――白地に月――これはッ…先祖が頼朝に褒められた“あの日の三日月”だーッ!!……馬印は…なんと“鎌”ーッ!?……この男…まだまだ温泉を見つける気マンマンかッ!?

 加茂大膳もいるぞッ!!

 

 右200余騎は…

 春原勘左衛門ッ…!

 横谷掃部介ッ…!!

 富沢伊予守ッ…!!!

 そして…津久井刑部左衛門だーッ!!

 もう引出線のネタがないぞッ!!

 

…あ、あれはッ!?…軍旗を守る旗本衆…150騎だァーッ!!

 あの茗荷の纏(まとい)は?…矢野半左衛門尉だーッ!!

 白倉武兵衛ッ!

 赤沢常陸介ッ!!

 佐藤豊後守ッ!!

 塚本舎人助ッ!!

 そして…三橋甚太郎だーッ!!

 

 続いて御馬廻衆の500余騎だーッ!!

 丸山土佐守、深井三弥、木村戸右衛門、長野舎人、大熊五郎右衛門、志賀又兵衛、川原左京、平賀右衛門、高梨兵庫助、塩野井善八、富沢豊前守、小熊九兵衛、横谷左近、高野九太夫、蜂須賀舎人、同じく但馬守、徳蔵院の面々が頼もしいぞッ!!

 

『合戦の指揮は任せろ!』…武者奉行だァーッ!!

 出浦上総介にッ!!…

 そして…佐藤備中守だーッ!!

 足軽を100人を引き連れての登場だッ!!

 

 後備を固める500余騎が来たぞーッ!!

 植栗河内守、久屋左馬允、ナンチャラ伊賀守、塩野井又市郎、尻高左馬介、塩原源太左衛門、山口式部、原沢大蔵、中沢越後守、川合杢十郎、高橋右馬允、同じく右近、林太郎左衛門の面々だァーッ!!

 

 殿(しんがり)の700余騎だァーッ!!

 藤田能登守信吉、前後我見修理、吉田惣助、木内甚五左衛門、戸田左馬允、岡本右京、小野大膳、石野大膳、戸田大膳…

…ココに来てまさかの“大膳”3連発だーッ!!

…中村式部、大淵勘介、山ナントカ、上原藤介、梅沢孫右衛門、林ナントカ、田村平介…

 これで背後は安心だーッ!!

 

『兵糧を戦線に送り届けるッ!!』…小荷駄奉行だァーッ!!

 山越左内、割田下総、上原浅右衛門、一場太郎左衛門ッ!!…足軽を100人連れて重要任務を遂行するぞッ!!

 

『留守はオレたちに任せろッ!!』…沼田御留主居だァーッ!!

 海野能州、下沼田道虎入道、小草野新三郎、岡谷平内左衛門、山田文右衛門、

石墨又八の面々ッ!!

 大安心のメンバーだッ!!

 

…あ…アイツらは?…昌幸公の目となり耳となる御使番だァーッ!!

 宮下藤左衛門、唐沢玄蕃允、山田与惣兵衛、富沢七郎兵衛、神保佐左衛門、二宮勘解由、荒牧宮内左衛門…!!

 足軽50人と共に戦場を走り廻るぞッ!!

 

…都合3,000余騎!!

 田北ノ原(瀧棚の原)に大集結だァーッ!!

 

――ワァッ――

 

「まッさゆき!」🙌

 

「まッさゆき!」🙌

 

…さて、田北ノ原に来なかったメンバーが何をしていたかというと……

 

 北能登守は越後勢を押さえるため小川に在城していました…。

 山名信濃守父子、発知図書、中山左衛門も、長尾衆を押さえるため在城していました…。

 川田、境沢、高勢戸、大竹の要害には深津二郎兵衛、生方兵部、同勘解由、同半左衛門、深津和泉、平井兵庫、小林出羽が当番制で置かれました…。

 

昌幸「よし!…隊は整ったようだな!…そしたら“出ッ発(でっぱつ)”する前によォー…栂野(戸鹿野)八幡宮に参拝すッぞ!!」

 

 こうして昌幸は戸鹿野八幡宮に参拝し、別当により社檀に幣帛が捧げられました…。

 

矢野「ぬううっ…あれが世に聞く栂野(戸鹿野)八幡宮!!……ま、まさかあの伝説が本当だったとは…!!」

 

昌幸「知っているのか半左…!?」

 

―――――

栂野八幡宮…

…平康(康平)年間(1058~65年)のこと、奥州の安部貞任と宗任が帝都に反逆したため、かの国に派遣された源頼義により誅罰されるという事件が起こった…。

…平康(康平)7(1064)年、貞任の家の子であった安部惟任は、この国(上野)の片品の奥山――尾瀬谷――に立てこもり、国中を押領して国民を困らせていた…。

(この後の十数文字は写本できなかったらしいですが……このエピソードは万鬼齋と景義の戸倉越えの章で出てきた丹花石の部分でも語られましたね。増田頼興もこの記事をどこに入れるべきか悩んだのでしょうか…。)

…惟任という男は…とても人間とは思えないような風体をしており――その身の丈は壱丈(約3.03m)あり、全身は毛で覆われ――さながら鬼神の如しであった。

…惟任はなおも逆心を企てていた…。

――反逆者、惟任を誅伐せよ!!――

…その勅命を受けた義家朝臣(源義家)は、沼田庄に下向し、八幡宮を勧請して庄田の庄の北――後閑郷――において惟任調伏の祈祷をおこなった…。

…するとッ!!

…不思議なことに惟任はその神通力を失い、ついに義家が勧請した八幡宮の北の嶽の岩窟の中で餓死したという…。

…今も岩窟の内には惟任の骸骨があり、その脛の長さが八束あったことから、世人はこの岩窟を“八束脛明神”“口あきの明神”などと呼んでいるという…。

――民明書房刊『デカアァァァァァいッ説明不用!!――安倍惟任と八束脛洞窟だ!!!――』より――

 

昌幸「…ふ~ん……で、その八幡太郎(義家)が勧請した八幡さまがココの前身つーコト…?」

 

矢野「まーそーなるんですかね?……そんでまた、こんな話もあります…」

 

―――――

…文明年中(1469~87年)の頃、由良信濃守源国繁(※)がこの地域に出張(デバ)ってきて、沼田の先主である沼田上野介長忠公(※)を〇そうと、多勢を以て倉内城を稲麻竹葦のごとき軍勢で攻めたという…。

(※まあ、由良国繁は文明年中に生まれてないだろう…とか、沼田長忠ってのは泰輝のこと?…でもその頃倉内が居城だったの?…とか、現地の案内板だと万鬼齋顕泰の話だよな…とか、色々と気になる記述ですが、まあ加沢記のことなんで…あまり気にしないようにしましょう。)

――このわずかな軍勢では、とても戦うことはできない――そう感じた城主の長忠は、ひそかに玉泉寺へと使者を送り、八幡宮の神カをもって凶賊を調伏して追い払う事を祈願させた…。

 そして住寺が神殿に三日間座禅して祈った結果…!!

…なんとッ!…不思議なことに社頭が鳴動し、暁の空に山鳩が数万羽集まると、凶徒の陣へと飛んで行った!……その鳴き声が地を震わせると、敵(由良)は沼田勢に援軍が加勢したのだと思い、ひるんだ…!

 長忠はこの機を逃さず、城から軍を出撃させると、敵軍を戸鹿野の神応寺の辺で討ち取って負かすことができた…。

 奇異の思いをなした長忠はここに社頭を建立して倉内の守護神としたという…。

――民明書房刊『数万発のはとビーム>うるせえ<』より――

 

八幡宮の別当「長忠の先祖、上野介景康が長禄2(1458)年に当城を築きました(?)が、永禄元(1558)年8月15日、神応寺の旧跡があったこの場所に後閑の八幡宮を移して、それが今でも当城の守護神なんでございますよ」

 

昌幸「へーえ」

 

八幡宮の別当「もっと詳しいことはこの『神託の記』に書かれてますんでぜひご覧くださいね(原文:委しくは神託の記に有し)

 

昌幸「…ふむ…」

 

…と、その時!!

 

――!?――

――バサバサァアァッ!!――

 

八幡宮の別当「!?…な、なんとッ?…これは…?」

 

 不思議なことに、社頭の上から山鳩が二羽飛んで来て、南方へと飛んで行きましたッ!!

 昌幸は謹み礼拝し…

 

昌幸「…ククッ…あんな話を聞いた直後に山鳩が南方に飛んで行くとは――なんだかイイ予感がしてきたぜ!!」

 

八幡宮の別当「(…なんたる偶然…この男…『運命』に愛されておる!!)」

 

 こうして昌幸は倉内に帰っていきました…。

 

 さて、翌日の辰の一天(朝の7~9時ごろ)、いよいよ昌幸たちは東上州へと出張(デバ)ります…!

 先陣として海野中務太輔が“すはま”の旗を先立て、佐藤軍兵衛が八角の棒を打かたげて進みました…!

 鎌田の城主、加藤丹波は…

 

加藤「ぬう~!…あんなバケモノみちょーなのと戦えるワケねっぺや!」

 

…と、降参して先手に加わりました…。(海野幸貞と佐藤軍兵衛(折田)って言ったら地上最強コンビみたいなもんだからね。仕方ないね。)

 

 阿曽の要害に籠もっていた関口右近右衛門、桐生、阿久沢たちも…

 

関口たち「くそ~…ダメだ、とても敵わねえ!!」

 

…と、要害を明け渡して退いていきました…!

 

 長井坂の城には牧弥六郎、須田加賀守、須田新左衛門、狩野左近介、石田平左衛門、原沢惣左衛門、須田久次郎と新治郎、狩野玄蕃、石田主計、狩野主水、持木藤左衛門、持木主膳介、狩野甚ナントカが籠もっていましたが…

 

牧弥六郎「…ぬう…真田のヤツら調子に乗りやがって…!……しかしッ!!…ココは一旦あきらめて前橋の加勢に向かおうッ!!…(原文:御味方申ん)

 

…と、白井へ退出し、要害は明け渡していきました…。

 

 真田の進撃を止めるべく、前橋からは茂手木内記、阿久沢左馬介、大胡常陸介、善隼人、齋藤加賀守、鳥山十兵衛、山上豊後守たちが5,000余騎を率いて米野の原へと向かいます…!

 そして…不動山の城は牧和泉守(※)が守っていました…!

(※:不動山の城(見立城)を守る牧和泉守は、原文では「杢和泉守」って書かれてますね。…つーことは、やっぱり「牧」は「もく」って読むんですね~!)

 

 昌幸からは「先手のオメーらで攻めて、牧の野郎をとっ捕まえろ(原文:先手を以責捕へし)との命令がありましたが、海野たちは…

 

海野「…つったってよ~…オレらも700余騎で攻めてるけど、あの城郭は山城だから容易に攻めようがねーよな~」

 

…と躊躇していました…。

…すると、昌幸から使いに出された唐沢玄蕃から…

 

唐沢「海野の中務~…昌幸さまがさぁ、『オメーら…あれっぽっちの小城を攻めあぐんでるようだけどよォ~…ナニ?…加勢が欲しいってコト?🤔(原文:ケ程の小城責あくんで見えけるは加勢を給んとの事也か)って言ってんだけど

 

…と伝言がありました。

 これを聞いた海野、金子、渡辺、湯本、西山たちは

 

幸貞「…あぁコラ!?💢大将のヤツ、オレらをナメてんのか?『余計なお世話だあんな城すぐ落としてやるから黙って見とけ』って伝えとけ!(原文:不及御返事)

 

…と、みな徒歩で城中へ突っ込んで行きました…!

 城主として不動山の城を守っていた牧和泉守は…

 

牧「…くぅッ!?…急に敵の士気が上がった?…ココはもうダメだッ…!」

 

…と、樽の郷へと落ち下り、白井へと退却していきました…。

 こうして城に乗り込んだ海野たちは…

 

幸貞「ヒャッハーッ!…燃やせ燃やせー!…汚物は消毒だ~!!」

 

…と城中に放火し、勝ちどきをあげて貝を吹き鳴らしながら引き上げてきました。

 

昌幸「…フンッ!🙂オメーらやればできるじゃねえか!」

 

 昌幸は喜んで、そのあと“かつほ沢”へと押しかけました…!

…と、そこへ…吾妻の海野長門守幸光からの伝言を持った飛脚がやってきました…。

 

飛脚「…昌幸さまッ!……た、大変ですッ!…氏邦のヤツが出勢して大戸口から攻めてきますッ…!!(原文:氏邦出勢して大戸口より寄来)

 

昌幸「ンだとォ~?…チッ!…いいトコだったのによぉ💢……仕方ねえッ!十分暴れたし沼田に帰るぜ!」

 

…と、昌幸たちは沼田へと引き返していきました…。

 いっぽう北条のほうでも…

 

氏邦「…あ!?…前橋口へ真田昌幸が出張(デバ)ってきただとォ?…クソ💢こうなったらもう吾妻口に構ってる場合じゃねーな

 

…と、進軍をやめたので、その年の戦いはありませんでした…。

 

 沼田に帰った昌幸は、沼田城を城代の藤田に任せて、9月中旬に甲府へと帰って行きました…。

 

 甲府では昌幸から勝頼に、沼田での出来事について細かく報告が行われ、真下但馬守に恩賞が与えられました…。

 その時の証文が…

―――――

   定

藤田能登守忠勤之節凌難渋致為飛脚往還神妙被思召、仍為忠賞信州河北之内反町分五拾貫文之処被宛行旨被仰出者也、仍如件

  真田安房守奉之

  天正八年庚辰十二月廿九日 御朱印

  真下但馬

―――――

内容…

「真下~…藤田能登守をウチの味方に付けた時にはよ~…オメーにはメッセンジャーとして苦労をかけたよな~!…けなげなヤツだぜオメーは🥲だから信州の河北から反町分の50貫文をやるぜッ!👍

 

 さらに…

―――――

   定

其方知行信州奥郡そり町分之事従当辛巳丁亥七ヶ年之間郷々之諸役一切有御免許之旨被仰出者也、仍如件

  真田安房守奉之

  天正九年二月廿日 御朱印

  真下但馬

―――――

内容…

「オッス真下!…オメーの知行の信州奥郡そり町の事だけどよ~…今年――えーと辛巳の年――から、丁亥の年までの7年間(?)、郷々の諸役は全部免除してやるぜ~!…大サービスだっぺ?😉

 

 

…と、こんな具合の恩賞があったので、上下ともに安堵の思いをなしたのでした…。

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原文

天正八年八月中旬に東上州御働可有とて藤田、海野、渡辺、金子、北、発知、下沼田、久屋、山名、恩田、西山、鈴木等に御評定有り、其頃前橋の城には由良信濃守、多目周防守八千余騎にて在城也ければ昌幸公備を定以計可討とて田北ノ原に打出給て勢揃をぞし給ける、昌幸公此年三拾七歳之御時也、

先陣 七百余騎

 旗とり赤四方

 旗奉行 宮下喜内 加沢助左衛門

 御舎弟 隠岐守昌若

 海野中務太輔

 金子美濃守

 久屋三河守

 渡辺左近允

  白旗 三星 石畳 紋

  馬印しやくま

 西山市之丞

  白旗 左巴

  馬印丸ニタチハナ 

 湯本三郎左衛門

 

前備 五百余騎

 中山安芸守

  白旗違タカノ葉

  馬印てう

 鎌原宮内

 和田主水

 下沼田豊前守

  白旗赤左巴

  馬印タンサク

 

脇備

 をし太鼓役

 野二郎左衛門、

 □□□□

 藤井嘉右衛門

 

左三百余騎

 海野七左衛門尉

  白旗二つ輪違い馬印立波

 湯本左京進

  白地月馬印かま

 加茂大膳

 

右二百余騎

 春原勘左衛門

 横谷掃部介

 富沢伊予守

 津久井刑部左衛門

 

旗本 百五十騎

 矢野半左衛門尉

  茗荷の御まとゐ

 白倉武兵衛

 赤沢常陸介

 佐藤豊後守

 塚本舎人助

 三橋甚太郎

 

御馬廻 五百余騎

 丸山土佐守

 深井三弥

 木村戸右衛門

 長野舎人

 大熊五郎右衛門

 志賀又兵衛

 川原左京

 平賀右衛門

 高梨兵庫助

 塩野井善八

 富沢豊前守

 小熊九兵衛

 横谷左近

 高野九太夫

 蜂須賀舎人

 同 但馬守

 徳蔵院

 

武者奉行

 出浦上総介

 佐藤備中守

 足軽百人

 

後備 五百余騎

 植栗河内守

 久屋左馬允

 □□伊賀守

 塩野井又市郎

 尻高左馬介

 塩原源太左衛門

 山口式部

 原沢大蔵

 中沢越後守

 川合杢十郎

 高橋右馬允

 同 右近

 林太郎左衛門

 

殿 七百余騎

 藤田能登守信吉

 前後我見修理

 吉田惣助

 木内甚五左衛門

 戸田左馬允

 岡本右京

 小野大膳

 石野大膳

 戸田大膳

 中村式部

 大淵勘介

 山□□□

 上原藤介

 梅沢孫右衛門

 林□□□

 田村平介

 

小荷駄奉行

 山越左内

 割田下総

 上原浅右衛門

 一場太郎左衛門

 足軽百人

 

沼田御留主居

 海野能州

 下沼田道虎入道

 小草野新三郎

 岡谷平内左衛門

 山田文右衛門

 石墨又八

 

御使番

 宮下藤左衛門

 唐沢玄蕃允

 山田与惣兵衛

 富沢七郎兵衛

 神保佐左衛門

 二宮勘解由

 荒牧宮内左衛門

 足軽五十人

 都合 三千余騎

 

北能登守は越後口為押小川在城也、山名信濃守父子、発知図書、中山左衛門は長尾衆為押在城す、川田、境沢、高勢戸、大竹の用害ニは深津二郎兵衛、生方兵部、同勘解由、同半左衛門、深津和泉、平井兵庫、小林出羽を番々に被差置ける也、其日御馬揃備立御終有て戸鹿野其頃は栂野と云八幡宮え御参詣有、別当立出於社檀幣帛を捧、抑当社八幡宮と申奉るは平康(康平)年間奥州の安部貞任宗任背帝都、為御誅罰源頼義公彼国え発向し給て御珠罰也、貞任が家の子安部惟任平康七年当国の片品の奥山尾瀬谷に籠居して国中を押領し国民を悩したり、□□□□□□□□□□□□惟任人には有ずや、其丈壱丈有惣身に毛生さながら鬼神の如也、猶も企逆心条重義家朝臣蒙勅沼田庄に御下向有て八幡宮を勧請し給て庄田の庄の北後閑郷におゐて惟任御調伏也けり、不思議也惟任失通力八幡宮の北の嶽岩窟に入りて餓死す、今彼岩窟の内に骸骨あり、脛の長さ八束有けるに依て世人八束脛明神と祝又口あきの明神とも申也、猶又文明年中由良信濃守源国繁当庄へ発向して沼田先主沼田上野介長忠公を以、多勢倉内城を稲麻竹囲に取巻責けるに、勢微にして不軍成、城主密に以使者玉泉寺に凶賊調伏、八幡宮の以神カ退ん事を被願ければ、住寺神殿に三日安禅して被祈ければ、不思議也社頭鳴動して暁天に山鳩数万飛跳凶徒ノ陣ノ上其声動地ければ敵有加勢と見て辟易しければ城中より長忠勢を被出ければ皆敗北して戸鹿野神応寺の辺にて悉被討にけり、長忠奇異の思をなして社頭を御建立有て専倉内の守護神と崇め給ふ、長忠の先祖上野介景康長禄二戊寅年当城を築給ひて此処神応寺の旧跡とて永禄元年八月十五日此処に移し奉りける、猶以当城の守護神也、委しくは神託の記に有しとて差出しければ不思議なり社頭の上より山鳩二羽飛来て南方へ飛行けり、昌幸公謹て礼拝し給て目出度門出也と御祝有て倉内に御帰有り、翌日辰ノ一天に出張被成ける、先陣海野中務太輔すはまの旗真先に進ませ佐藤軍兵衛八角の棒を打かたげ乗出しければ、鎌田の城主加藤丹波降参して御先手に加る、阿曽の用害に龍たる関口右近右衛門、桐生、阿久沢用害を明退たり、長井坂の城には牧弥六郎、須田加賀守、須田新左衛門、狩野左近介、石田平左衛門、原沢惣左衛門、須田久次郎、同新治郎、狩野玄蕃、石田主計、狩野主水、持木藤左衛門、持木主膳介、狩野甚□□籠けるが御味方申んとて白井へ退出して用害を渡しける、かくて前橋にて此由を聞て茂手木内記、阿久沢左馬介、大胡常陸介、善隼人、齋藤加賀守、鳥山十兵衛、山上豊後守其勢五千余騎米野の原へ出向て控たり、不動山の城には杢和泉守楯龍ける、先手を以責捕べしと下知有ければ海野七百余騎を以責けるに城郭山城にして容易く可寄様なく猶予して見へければ、昌幸公より唐沢を以被申けるは、ケ程の小城責あくんで見えけるは加勢を給んとの事也かと被申ければ海野、金子、渡辺、湯本、西山不及御返事とて歩行立に成て城中へ推入ければ、城主こらへ兼て樽の郷に落下り白井をさして引退く、則城中に放火して勝時を作り貝吹て人数を引上ければ昌幸不斜御喜悦有て夫よりかつほ沢に押懸給ければ、氏邦出勢して大戸口より寄来と海野長門守より飛脚到来しければ各沼田へ引返されける、氏邦は前橋口へ昌幸公出張し給と聞給ひて吾妻口の働を止給ければ、其年の軍はなかりければ、沼田の城は藤田城代にて昌幸公は九月中旬に甲府へ御帰陣也、沼田之儀一々御披露被成真下但馬守に御恩賞あり、

   定

 藤田能登守忠勤之節凌難渋致為飛脚往還神妙被思召、仍為忠賞信州河北之内反町分五拾貫文之処被宛行旨被仰出者也、仍如件

  真田安房守奉之

  天正八年庚辰十二月廿九日  御朱印

  真下但馬

   定

 其方知行信州奥郡そり町分之事従当辛巳丁亥七ヶ年之間郷々之諸役一切有御免許之旨被仰出者也、仍如件

  真田安房守奉之

  天正九年二月廿日 御朱印

  真下但馬

 

如此御恩賞有ければ上下安堵の思をなしたりけり。