『古今沼田記』追神湯の事并詠歌付圓珠姫の事

   古今沼田記 上

   追神湯の事并詠歌付圓珠姫の事

此追神の湯は神代に赤城大明神と日光大権現に神軍ありし時明

神流矢に當らせ玉い引退せ給いし故此の所を追神と云也扨明神

御弓の筈にて地を掘せ給えは妙湯忽涌出たり此湯にて御疵を

洗わせ給えば即ち平癒ましましける永禄の春の頃顕恭の御

内室お曲輪の御前入湯ましましける折節追神と云名を老が身に

準て読める

 谷ふかみたへぬ松風浪の音唯さびしきは老が身ぞかし

と詠し給ひ御供の女房達にもつれつれを訪ひたまへと仰ければ

発知薩摩守の女方

 わかからは又見んことも片品の老が身の湯は今ばかりこそ

河田四郎娘圓珠も

 なからへて又見ん事も片品の淵の汀の老が身の湯を

と詠し歌の様にも候わすと申しける此圓珠と云し女房は歌人の

名世上に知られたり或時龍田の紅葉を詠る

 龍田山紅葉をわけて入る月は錦に包む鏡なりけり

されは此歌達天聞忝も一首の御製を宣る

上野や沼田の奥に円なる珠の有とは誰か知るべき

此御製に依て圓珠と名付其外<破れ>又あり

 鳥もなく鏡もなからん里もがな二<破れ>夜のかくれ家にせん

  喜陳按にこの歌は古歌にあり疑は傳写の誤ならんか

  暫らく記し置後の君子正し玉へ

 月影は木の下ごとに村きえて踏に跡なき庭の白雪

 いとよわき梅の匂ひの花ころも春よりさきにほころひにけり

 石墨に硯田そへて筆もかな戸かみに書て君に見せはや

                          石墨硯田戸神

 立よりて影も移さん

       流れては浮世に出る谷川の水  谷川山裾

又座當物語と云事を作られける

 或山に児達三人御座つて四十からをかわせ給ふ春雪降りて

 殊外さへかへりたるに彼小鳥むなしくなりぬ児達惜ませ給い

 悲に絶す手つから雪仏を作りとむらわせ給う

 雪仏造りもあへす罪消えて落るしつくはアノクタラタラ

 作る人みな極楽へ雪仏罪もむくいも消て跡なし

 氷をば座像になすや雪仏あられや玉のかざりなるらん

又猿物語を

 天竺の猿唐土猿日本の猿三疋寄合ていさや熊野へ参らん

 尤とて物語の出立仕熊野へ参り本宮清浄殿の御前に

 七日通夜仕り満ずる暁空より物がづつしりとうと落る猿共

 驚き何しやらんと思うてかいさぐり見てあればまはり七かい

 斗あるくりにてぞ候る猿共せんきしけるは此栗わってとっ

 ても差なし歌をよみ歌の増する方へ一所につけん然る

 べしとて先天竺の猿の歌は

 西方の弥陀を念するその人も数珠くりからにて仏とはなる

 唐つちの猿の歌に

 西の海千尋の底に引く綱も縄からくりて魚ぞ入ます

 日本の猿の歌に

 武士のうはやにさせるかふら矢も中くりからにて音ぞなります

 歌に於ては増劣なしいざ年くらべして年の増したる

 その方へ一所に付んとて先天竺<破れ>須弥山ケシ程有りし時

 生まれりと申す唐土の猿は大海<破れ>程有りし時生まれり

 と申す日本の云へき事があらされはあなたへむいてもの

 不云こなたへ向くももの不云目しはたたき口あくあくと打

 はかみてぞ居たりける天竺の猿唐土の猿いかに日本の猿

 どのは此一句にはつれ兼おくしたる色見えぬ其儀ならは

 熊野権現諏訪八幡のがすましとて太刀の柄に手をかけたり

 日本の猿是をみてあらけうけうしの有様や此一句はおけ千

 句にもはつれかね申さず我れは須弥山ケシ程有し時大海

 硯水程有し時八百八十六ツ半になる彦猿一ツ失ひしか

 只今の様に思ひ出されてものも申されずと云けれは扨は

 日本の猿殿は我らが中の古老にてましますとて此くりを

 日本の猿とのへ奉る日本の猿悦ひ此くり請取まさかり八挺に

 てとのめうち三百六十五尋ありける大縄引付山の猿共呼下し

 おのれ木やりして山て引くは大い持海て引くは縄て

 里て引けは横雲えいさらやさらと七日七夜に比叡山坂元

 まて引付山王へ奉る山王不斜御感有て天の菩提酒を

 三々九度ぞ被下ける其時の九盃の酒に猿面まっかに

 成りたる物語り猶又一処に赤き所も有けに候と

作られける此圓珠若かりし時陶田弥兵衛<信州浪人>と云し人に嫁し

三年を送りけるに彼弥兵衛古郷に老母有けれども便りも

せす案したる気色もなく只ゝうかうかと打過ぬ圓珠うと

ましき事におもひ御身不孝の人也我をいか程思ひ玉う

ともたのもしからす三綱の中にも第一は親子の道也諸罪

の中にも不孝より大ひなる罪はなし然るに御母公の御事

思召出されす事の天命に背給わん事浅ましとかく申さば

とて我二心なし當摩の後を追候へし是偽にあらずと

誓紙を書一巻の書を作り見せたり後に其の書を圓珠

集と名付たり寛永の頃まで世に流布したり当時尋しに

なし扨弥兵衛は妻女の諫言にて古郷へ行老母に孝行を

盡しけるか一年程過きて老母果たり<破れ>念頃に取置沼田へ立

帰り旧宅へ入て見ければ古に住し<破れ>がわり床には釋迦三

尊十方三世の諸仏名号かけ並へ圓珠は髪喝食の如くにして

墨の衣に掛蘿をかけたり香の煙り薫して中中貴ぞ覚

弥兵衛此様を見て女人さへ此の如し男の身として争か思ひ

切さるべきとて剃髪染衣の姿となり諸国修行したりける其頃

関八州の管領として瀧川左近将監勝益厩橋に居城したりける瀧

川儀太夫<勝益甥也>沼田城代たるに依て勝益圓珠の事を聞及ひ厩橋

へ呼取りけるが天正十年六月六日信長公為惟任日向守に弑せ玉ふに

依て滝川北条と一戦に打負け直に上洛したりけれは忽国乱

となりにける圓珠其折から大病を請歩行不叶城中に打伏す北条

とのいかなる者ぞ尋給へは圓珠と答えけれは扨は聞及ひし歌人也

誠の圓珠なれば歌詠候らへ命を助んと有けれは此大病にて詠

歌の事おもひよらず候へども何にても題を給り候へと云けれは

二三四と望玉ふ圓珠とりあへず

 いかにせん恋しき方の章に詠れぬもじの二ツ三ツ四ツ

と息絶え絶えに聞へけれはふびんなりし事也思ふ方へ送り給わんとの

給へけれは沼田古郷に候へばなつかしく思ひ候と有けれはさらは沼田へ

送れとて付ゝの者共懇ろにして送けるが重病なれは道にて絶に

空く成にける女性なれとも智文才覚世の人に勝れたり愚かなる

物語書記事後代に云失へるにより爰に書集る也

金子家文書(群馬県立文書館収蔵)

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『古今沼田記』追神湯の事并詠歌付圓珠姫の事【原本と釈文対照】
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