円珠姫とは

※ 円珠姫伝説は諸説ありますが、本説明文は『川田村誌』の内容に基づいたものです。

 円珠姫(えんじゅひめ)は、永禄3(1560)年、三浦沼田氏の氏族、川田城主の川田四郎光清の一人娘として生まれ、幼名を小柳(こやなぎ)といいました。

 小柳は沼田城主である沼田万鬼斎顕泰の夫人、曲輪御前の侍女となり寵愛されました。幼少の頃から読み書きに堪能で、特に和歌に優れていました。

 

 小柳は、18歳の秋、子持山の紅葉を観て、

 

   子持山 紅葉をわけて 入る月は

    錦に包む 鏡なりけり

 

 という和歌をつくりました。

 

 この和歌が当時の帝、正親町(おおぎまち)天皇に伝わると、天皇は興味を示し、「上野(こうずけ)の 沼田の里に 円かなる 珠のありとは 誰か知らまじ」という和歌と、「『子持山』を『立田山』に改めよ」との言葉を賜ったそうです。

 

 「円珠」という名は、この光栄を記念して付けた号であるそうです。

エピソード

宮中からの難題を軽くあしらう

 宮中公卿諸侯のなかには、円珠が正親町天皇に褒められたことを快く思わないものもあったようで、「天皇が感心した和歌は本当に円珠がつくったものなのか、試しに『石の衣』という題で歌をつくってみろ。」との難題を突きつけてきました。

 ところが円珠は、困った様子もなく、

 

   仰せなら 石の衣も 縫うて見む

    真砂(まさご)の糸を よりて給われ

 

   (石の着物を作ってやるから砂の糸をよこせ)

 

 

 と返したので、名声はますます高くなったそうです。

結婚と出家

 円珠は19歳の春、信濃村上の浪士である陶田弥兵衛(当時は長野業政の家人)を夫に迎え、楽しい家庭をつくりました。

 ところが、弥兵衛は自分の老母を大切にせず、窮状を訴える手紙が届いても無視をする有様でした。円珠はこのことをとても悲しみ、夫に母を孝養するよう言いましたが、弥兵衛はこれを聞き入れないどころか、逆にひねくれて乱行狼藉、飲酒遊蕩にふける始末でした。

 そこで円珠は意を決して、髪を剃り尼となって、宮塚の薬師堂に入りました。これを見た弥兵衛は、ようやく反省し、信濃に帰郷して老母に孝養を尽くしました。

 弥兵衛もまた老母の死後、髪を剃り雲水の身となり、諸国行脚を行ったそうです。

滝川一益の歌の師となり厩橋城へ

 仏門に入った円珠は、ますます歌道に精進しました。時は戦国時代のさなか、関東管領として、厩橋に入城した滝川一益は、円珠を迎えて歌の師としました。

北条氏邦を感動させる

 天正10(1582)年、本能寺の変が起こり、滝川一益が上洛すると、代わりに北条氏邦が厩橋に入城しました。

 この時氏邦は1人の若い尼が風邪で床に伏しているのを見つけ、問いただすと、その尼は「円珠である」と答えました。

 しかし氏邦はこれを疑い、本当の円珠なら「二つ三つ四つ」という題で詠じてみよと命じました。

 円珠は案ずる様子もなく、

 

   いかにせん 恋しき人の 玉章に

    読まれぬ文字の 二つ三つ四つ

 

と書いて氏邦に渡しました。氏邦はこれで本当の円珠であると信じましたが、そばの部下の1人が「桜を加えてみよ」と言うと、また速やかに

 

   奥山の 青葉交りの 遅桜

    梢に花の 二つ三つ四つ

 

と書いて渡しました。

 更にもう1人の部下が「橋にしてみろ」と言うと、また直ちに

 

   板橋の 短き程ぞ 知られける

    駒の足おと 二つ三つ四つ

 

と書いて渡しました。

 

 これを見た氏邦と部下は大いに感動し、円珠を大切に川田村宮塚の薬師堂に送り届けたそうです。

円珠姫の墓所

 薬師堂に戻った円珠は

 

   南無薬師 あわれみ給へ 世の中の

    有りわづらうも おなじ病ひぞ

 

と本尊薬師如来を念じました。

 その後、円珠は付近の郷士、深津富左衛門等の世話になり、静養しましたが、風邪が元で肺炎を病み、天正10(1582)年の暮れ、亡くなったそうです。

 

 円珠の遺骸は、薬師堂の境内の北方に埋葬され、円珠古墳御宝塔と刻まれた碑を立てられましたが、その後遷流寺が建立されてから、その四方に龍泉院殿月錦円珠大法尼と謚号(しごう)して刻まれた碑が建てられました。

関連書籍の紹介

 このホームページの文章は『川田村誌』を参考に作成したものであり、エピソードを列挙しただけですから味気ないかもしれません。

 これらのエピソードが物語化されたものとして、おの・ちゅうこう著、崙書房刊の『利根の哀史と秘話』という本のなかに「戦国の薄命歌人・円珠姫」という話があります。興味があるかたはぜひ読んでみてください。