加沢記 巻之四⑨ 祢津助右衛門尉川田在城並信幸公大戸の城責捕給ふ事附一場茂右衛門手柄之事

加沢記 祢津助右衛門尉川田在城並信幸公大戸の城責捕給ふ事附一場茂右衛門手柄之事
加沢記 祢津助右衛門尉川田在城並信幸公大戸の城責捕給ふ事附一場茂右衛門手柄之事

主な登場人物

祢津幸直

ヨメのジイサマであるYAZAWAの要請により沼田へやってくる。

多目周防守と富永主膳

北条氏邦の命により吾妻に攻め入るが…

真田信幸

手古丸城奪還のため、奇策に次ぐ奇策で多目と富永を翻弄する。わりとイケイケ。

唐沢玄蕃

信幸のフリして敵をおびき寄せたり、敵の弁当を盗み食いしたり、火を着けたりと大活躍。

一場茂右衛門

敵の弁当を盗み食いしたり、木戸口で逃げる敵にライトニングプラズマをかましたりと大活躍。

内容

『加沢記』、今度の章はっていうか、タイトルも本文も長すぎぃ。

 

 前章、猫城を巡る戦いで中山右衛門が討死したことにより、白井長尾の配下である赤見山城守は、北条氏直の指示により中山城を占領しました…!

 中山右衛門の弟、九兵衛尉は中山城を守り戦っていましたが…

 

九兵衛「ちッ…兄貴がいねえからってナメやがって…ン?…矢沢さまからの指示だと?」

 

――下知によれば――

 

頼綱「九兵衛~…ガンバってんのはわかるけどよ~…もう中山城のヤツラみんな北条に心が傾いてるぜ~(原文:家人共皆敵方へ心を寄けると承る間)

 

………

 

頼綱「…悔しいだろうがよ~…オメーはとっとと城を明け渡して逃げちまいな(原文:早々城を明、退き候へ)

 

九兵衛「…!!…(チクショウ~…他人事だと思いやがって…見てろ…オレはどんな手を使ってでも中山城を取り戻してやるぜ~!)」

 

 こうして九兵衛は中山城を明渡し、名胡桃の城主である鈴木主水――彼は九兵衛の姉婿に当たる――のところへと、落ちていきました…。

 

 そして、まさに北条氏直が前橋に着陣しようとするその時期のこと…沼田地衆50余人の連判をもって氏直の幕下に参上する旨の申入れが、赤見泰拠により行われました…!

 その時に氏直から赤見へ宛てた証文が…

 

―――――

各可有忠信由被申合交名書立披見感悦候、走廻り次第任望知行可宛行旨、被仰出者也

 天正十年壬午七月十五日

 氏直在判 安房守奉之

 赤見殿

―――――

内容…

「赤見~!…オメーらが相談してウチらに忠信してくれるっつー書面を見て感動したぜー!…オレのために走り廻ってガンバってくれよ!…活躍次第で望む知行をあてがうからよー。安房守(氏邦)を介してでワリーけどヨロシクな~!」

―――――

 

――いっぽう、沼田の矢沢頼綱の周りでは…――

 

頼綱「…白井長尾の家ってよ~…鎌倉権五郎景正の後裔の長尾弾正から右衛門尉昌賢と続いてよ~、当代の憲景一井齋入道まで11代続いてるっつー話だけどよ~」

 

………

 

頼綱「そもそも中山も尻高も白井長尾の領地だっつーのに、一井齋入道みたいなアホのせいで領知も取り損ねて、幕下にも疎まれてんべ(笑)

…今回の件でも中山城にいる本来家臣のハズの赤見に…

(´`)ぷぷッ」

 

………

 

頼綱「…ゴホン…氏直からの証文が白井長尾をスルーして直に赤見に渡されたワケよ…って…

m9。゚(^Д^)゚。ぷぎゃーwww

…ダメだ!…笑い止まんね~ww…こりゃ長尾家も11代にしてついに滅亡かね~」

 

 さて、矢沢頼綱は北条氏直に寝返りの連判をした54騎の者たちを詮索していました…。

 

部下「薩摩守さま…これを…」

 

頼綱「…!!…こ、コレはーッ!?」

 

 なんと、北条への寝返りを企てた54騎の過半数は矢沢頼綱のお膝元…沼田地衆と川田地衆の者たちだったのです…!

 

部下「…彼らの多くは在所を退去し、中山城の赤見に従っているとか…」

 

頼綱「……!!」

 

………

 

頼綱「…くそッ!…山名主水や発知図書の家人どもの動きもアヤシイって時によ~!…もはや川田衆はアテにならねーぜ…(原文:山名主水、発知図書家人等の行跡不宜期なりければ、川田衆も無覚束)

 

 頼綱は急いで上田へ注進しました…!

 

昌幸「…なんと!…利根川の西がそんなコトに…」

 

…昌幸は祢津宮内大輔元直に…

 

昌幸「祢津のオジキ~💧矢沢のオジキからこんな報告が

 

元直「…うむ…二男の(オレのとは言ってない)助右衛門幸直は矢沢の孫聟でもある…沼田へはヤツを向かわせるか…(原文:二男助右衛門幸直は矢沢頼綱の孫聟にて有ければ、幸直を可遣)

 

………

 

元直「『白井と中山との堺に接する川田の城主、山名主水と発知図書は以前からの城主だが、北条氏直が出張ってきた今般、ヤツラじゃ頼りない』と、あの薩州(頼綱)が言うんじゃ…監視役を派遣するっかねーべ(原文:『白井中山の堺、川田の城主、山名主水、発知図書は〇方より彼所の城主なりけるが、今度北條氏直公出張せられ、無覚束候』旨、薩州被申越侯故、御見付賜り候へかし)

 

 こうして同年8月中旬、幸直は(読めない)祢津の庄を出発する運びとなったので、元直は喜んで家来の加沢無任入道の弟である小林文右衛門尉をお供に付けました。

 ほかにも久保田金右衛門尉、別府宇賀之尉、安中勘解由、水野靱負、白石兵庫介たち…都合200余人を引卒し、祢津幸直は倉内に着陣しました…。

 

 沼田に到着した幸直を矢沢頼綱の手下たち…庄村金右衛門尉、大草杢之介、そのほかに恩田、下沼田、山名、発知たちが長ナントカ曲輪の辺で出迎え、それから二の丸北条曲輪へと移りました…。

 

 いっぽうその頃…前橋の城には氏直の伯父(叔父)、北条安房守氏邦が在城していました…。

 

氏邦「おッし、また沼田に行くぜ~!!…小野の邦憲(猪俣)ッ!…先陣はオメーっちにまかせるぜッ!!」

 

………

 

氏邦「それから富永又七助重!…矢部大膳亮!…大胡常陸介郡秀!…膳の隼人!…山上の…誰だっけ、まあいいや…某(なにがし)ッ!…齋藤加賀守!…須田加賀守…って“加賀守”かぶんのかい~!」

 

………

 

氏邦「…ゴホン…それから神庭三河入道…オメーらも行くぞ!…沼田を攻めちゃうぜイェイ!!」

 

…と、氏邦は境目へと出張ってきました…!

 

氏邦「おっしゃ!…そしたら吾妻表にもガンガンいくぜ~!…」

 

………

 

氏邦「多目周防守!…内藤丹波守!…小幡上総介!…半田筑後守!…富永主膳と有馬之助ッ!…オメーらにまかせるぜッ!!…行けッ!…大戸から攻め入って岩櫃をブン獲ってやれッ!!」

 

 こうして同年9月、内藤丹波守と富永主膳を大将に総勢5,000余騎が大戸口へと攻め入りました…!

 大戸真楽齋と但馬守の兄弟は三の倉表に出向き、これに応戦しましたが…

 

真楽齋「くッ…こうも多勢に無勢では…とても敵わんッ…」

 

…と、手子丸の城に籠城しました。

 しかし…大勢で攻められ続け、3日もするとついに力尽きてしまいました…。

 

真楽齋「…もはやこれまで!…腹切って果てるのみ…!」

 

但馬守「…兄者…一緒に逝こう…!」

 

大戸真楽齋・但馬守兄弟――自刃――

 

 この後、すぐに手子丸の城には北条方の多目周防守と富永主膳が入城しました…!…が!!

 

多目「…このまま岩櫃を攻め奪っちまおうか?」

 

富永「…いや~…ちょっと早くね?…兵士も疲れてるしよう~…」

(原文:岩櫃へ可寄と、軍議區々なる)

 

――岩櫃城では…――

 

部下「信幸さま!…多目と富永のヤツら、手古丸を攻め奪ったはいいけど、この後の方針を決める軍議のほうはグダグダなようです!」

 

信幸「…そうか…だったら……」

 

――ゴゴゴゴゴ――

 

信幸「…敵のヤツらが攻めてくる前に…手古丸を攻め落としてしまおう!!(原文:去ば、敵寄来らざる先に、手子丸を可責落)

 

――!!――

 

一同「…な?…なんだってェェエ~!?」

 

………

 

信幸「出浦上総介ッ!…木村戸右衛門ッ!…頼むぞッ!」

 

出浦「はッ!」

 

木村「はッ!…“渡”右衛門ですが…はい!」

 

信幸「…前備は鎌原宮内ッ!…富沢伊賀守ッ!」

 

………

 

信幸「後備は湯本三郎右衛門と浦野七左衛門尉!…殿(しんがり)は大熊五郎左衛門尉と横谷左近ッ!…御馬廻は…丸山土佐守!…池田甚次郎!…春原からは勘右衛門尉に惣左衛門尉に勘次郎!…3人もアリガトウ!」

 

………

 

信幸「それから長野舎人介!…石井長門!…赤沢加兵衛尉!…割田下総!…白倉武兵衛!…それから…おお~!?…オマエは佐藤軍兵衛ッ!!…今度はオレのために暴れてくれよッ!!」

 

………

 

信幸「そして伊熊…じゃなくて(ワリと誤写が多いな💧伊能(いよく)孫五郎と采女ッ!田中越後守!一場太郎左衛門と茂助!富沢ん家は七郎兵衛と主計と大学助と又三郎4人も!そして二宮解勘由ッ!頼んだぜ!!」

 

………

 

信幸「池田佐渡守と塩谷掃部介ッ!…留守居役を頼む!…そして…オレも出るぞッ!!」

 

 大将信幸は…

――卯花威の鎧、星兜、2尺5寸の海野重代備前長光の刀、金作の太刀、十文字の槍――

…という出で立ちでした…!

 

信幸「富沢豊前守と小草野新三郎…オマエたちは馬添としてそばにいてくれ…!

…唐沢玄蕃允!…山越左内!…上原浅右衛門尉!…馬場角蔵!…オマエらの役は“アレ”だ…頼んだぞッ!」

(※“アレ”の部分は本当に読めなかったらしい。加沢平次左衛門の演出だったらスゴイ)

 

…こうして信幸が率いる岩櫃勢――彼らは各自が思い思いの鎧を着ていました――は、都合800余騎で仙人が岩に着陣し、先手から元丸へ降り、攻撃をしかけました…!

 

 手古丸城の多目と富永は…

 

多目「なにィ?…真田のガキがちっとんべえの兵で攻めてきただとォ~?…ナメやがって……おい、兵ども!…すぐに出ろッ!…そしてヤツらを1人残らず討ち取るのだッ!!(原文:出勢して一人も不残討取れ)

 

多目・富永の兵「ヒャッハー!!…我ら3,000余騎が一度にかかれば、真田の兵などイチコロよ!!」

 

――ドドドドド…――

 

信幸「…フッ…来たな…!…おい湯本と浦野!」

 

湯本「はいッ!」

 

 信幸は、前備の湯本と浦野たち200余人に命じて“ぬる川”を下って退却するように命じました…。

 

多目・富永の兵「ギャハハハッ…見ろ!…ヤツら逃げよるぜ~!…追え追え~ッ!!」

 

信幸「(…ニヤリ)」

 

………

 

信幸「フッ…かかったなアホが!…よ~しッ…出浦と木村ッ!…オメーらは今のうちに手子丸城を襲えッ!…オレは300余騎を連れて元丸の森の蔭に潜むぜッ!(原文:出浦、木村は手子丸へ押寄べし)

 

…すると、仙人が岩を攻めようとしていた富永は…

 

富永「…ぬう!?…アレは…手古丸の城が攻められているだと~?…どうして…!」

 

 富永は仙人が岩から引返し、出浦、木村との戦いに向かいました…!

 

信幸「…ククク…さ~て次は…大熊ッ!」

 

大熊「はッ!」

 

信幸「…オマエは100余人を連れて…浄土寺に乗り込み…火ィつけてこい!」

 

大熊「えッ!?…て、寺に放火ぁ?…💦💦~~ッ!!……は、ハイッ!!」

 

信幸「バチなんか当たらしァしねえよ…その代わり毎日ドゥンドゥンやろうじゃねぇか!」

 

大熊「(あぁ~!…いけない!…こんなことしてたんじゃいけない!…あぁ~!)」

 

信幸「そして…横谷左近!…唐沢玄蕃允!…オメーらも50人ほど連れて手子丸の方へ向かいなッ!……玄蕃、“アレ”を忘れずにな…」

 

玄蕃「…ヒヒヒッ!…ああ…“アレ”ですね……分かりましたぜ、ダンナッ!」

 

多目「ううッ💧なんかアチコチから攻められてねえ?奴ら小勢のハズなのになぜか寺は燃えてるしよぉ

 

 信幸の奇策により手古丸城の多目と富永は混乱しています……と、そこへ…

 

富永「あ…アレはー?」

 

 多目たちは“金の馬鎧”の馬に乗った唐沢玄蕃を見て…

 

富永「アレは真田の大将!(あんな金ピカの馬鎧で出てくるのは大将に違いねえ)…色々と惑わされたがよ~…ヤツさえブッ○せば…オレたちの勝ちだぜ~!!(原文:すわや大将真田)

 

 富永は一陣に進み、500余騎を率いてまっしぐらに信幸(実は玄蕃)を目掛けて襲いかかります…!

 多目も1,000余を率いてこれに続きます…!

 

富永「ヒャハー!…真田~…テメエもコレでおしまいだ~!」

 

信幸「…オレを探してるのか?……ココだよッ!」

 

富永「あ?」

 

――💥💥――ドゴォオオッ!

 

 森に潜んでいた信幸は、玄蕃を追う富永たちを、不意に横合から襲いました…!

 

富永の兵たち「おぅわぁあああ!?」

 

💥――ズバッ!

 ――💥ドバッ!

 

多目「ぎゃああ!」

 

富永「こ…これでは軍が持たねえ!…撤退だッ!」

 

 信幸の軍に斬り散らされ多目、富永の兵は四方へバラけ、ついに手子丸城へ引き籠もってしまいました…!

 

 そして、当初の戦闘で浦野と湯本の軍を追いかけていった1,000余騎の兵は、その後も深追いしてナントカ戸の平で合戦していましたが、この状況で籠城もできずに椿名山(榛名山)へと引き上げていきました…。

 

 信幸は仙人が岩の上、浄土寺の境内に旗を立て手古丸城を攻めます…!

 

信幸「上総!…戸右衛門!…大手からガンガン攻めろッ!」

 

――ドドドドド――

 

出浦「ヒャッハハ!」

 

木村「“渡”右衛門だけどホホホ~!!」

 

 さて、敵の城の様子を観察した信幸は…

 

信幸「…フム…椿名山辺に旗が見える…さてはヤツら裏門から落ちて行く気だな…クク…よしッ…旗本の若者たち!…オマエたちは裏門に廻れ…そして落人を討つのだッ!!(原文:椿名山の辺に旗色見へけるは、裏門より落行と覚へたり、旗本の若者共、裏門に廻り落人を可討)

 

………

 

信幸「…ヤツらきっと城が難所であることを過信して北の丸には警備を置いてないだろうぜ…しかし…下馬して人間の足で登って行けば攻めることは可能だ!…行け行けッ!…敵をブッ○せ!!(原文:敵は難所を頼み、北の丸には人なし、歩行立にて掛れゝゝ)

 

…と命令しました!

 

 信幸の命を受け、一場茂右衛門、富沢豊前、佐藤軍兵衛、唐沢玄蕃允、鹿野和泉、小草野新左衛門、青(春?)原勘次郎以下の50余人は、静かに岩をつたって北の丸へと近づきました…!

 

一場「信幸さまの言ったとおりだ…こちらには番人がひとりもいねえぜ……どうやら敵のヤツら、みんな大手の木戸口のほうに集まって防戦にあたってるようだな…(原文:按にたがはず番人は一人もなし、皆大手の木戸口へ集り防戦す)

 

玄蕃「しめしめ…(原文:究竟の処也)

 

 一場たち50余人は木戸を開け、北の丸へ押し入ると…

 

富沢「どの小屋も、火の始末をしねえで留守にして…だらしねえな~」

 

一場「おッ…飯が割籠(弁当箱)で用意してあんじゃん!…せっかくだからいただいちまおうぜ…(原文:能時分)

 

 一場たちは敵の弁当を残らず食べてしまいました…。

 

玄蕃「ふ~…食った…ごちそうさま!…せっかく付けっぱなしの火もあることだしよ~、この辺の小屋も焼いてこうぜ~!」

 

一場「◠‿◠

 

  🔥🛖🔥

 🔥🔥🔥🛖🔥

 

富永「な?…北の丸から火が!?…飯も残らず食われているだと…?」

 

多目「あんな場所に敵が入ってくるハズはねえ!…まさか…味方が裏切りを…?(原文:味方に心替りの者有)

 

――ゴゴゴゴゴ…――

 

多目「…ハァ…ハァ…💧

 

富永「(ううッ…💧ココにいる兵も既に心変わりしてるのでは?)」

 

 一度生じた疑心暗鬼は、もはや拭うことはできません…彼らは裏門、表門から崩れるように逃げて行きました…!

 信幸の命で潜入した50余人の者たちは、混乱する敵中に混ざり、それぞれが5人、3人と敵を討ち取って名を上げました…!

 

 なかでも一場茂右衛門(17歳)は…

 

玄蕃「あれ?…一場のヤツ、ドコに行った?(原文:是は如何したりけん)

 

 一場は北の丸ではなく、木戸口のほうに廻り込んでいました…。

 

 そして玄蕃たち50余人の潜入者に斬り立てられた北条兵が…

 

北条兵「ひえ~!…木戸口を開いてズラかれ~!!」

 

…と逃げだそうとするその時…

 

北条兵「…ん?…なんだガキ、そこをどけッ!」

 

一場「フ…ココは通さねえよ…オメーらはオレの『手柄首』…いや、こんなに大勢の首持って帰れねえから…『手柄“鼻”』になってもらうぜ~!」

 

北条兵「!?」

 

北条兵A「ンだと、このクソガキャアッ!…この人数を相手に勝てると思ってんのかッ!?」

 

 

北条兵B「さあ、そこをどけッ!!」

 

一場「………」

 

――クワッ!――

 

 ーーー💥

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    ーーー💥ー 💥

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北条兵「うぎゃああーーーーッ!」

 

 ――ドシャッ!――

  ――ガシャッ!!――

 

一場「…フッ…」

 

…こうして敵17人を斬り倒した一場は…

 その場で彼らの鼻を削ぎ取ると、それを敵の旗に包んで持ち帰り、信幸の前で披露しました…!

 

信幸「うわッ、マジかよ一場~…オメーひとりで17人も?…この手柄はちゃんとオヤジ(昌幸)に伝えとくからな!」

 

――真田信幸が多目・富永の5,000の兵をわずか800余騎で攻め崩した――

…この無双の手柄は、父である昌幸の耳にも入りました…!

 

昌幸「…うおお…信幸スゲエな!…これは岩櫃に行ってホメてやらねば!」

 

 昌幸は同年10月上旬に岩櫃に出張ってきて、手子丸での次第を細かく聞くと…

 

昌幸「😭信幸リッパになりやがって~」

 

…と喜び、ナントカの長刀と先年藤田から進上された高木貞宗の脇指を信幸に与えました。

 また、この戦いで名を上げた面々に盃(さかづき)と感状を与えました。

 特に…

 

昌幸「一場茂右衛門!…その若さで敵の首(鼻)を数多く討ち捕った武勇…この100余年の兵乱のなかでも聞いたことがないぜ~(原文:一場茂右衛門、若年にて敵の首数多討捕条、百余年の兵乱の中に其類を不聞)

 

………

 

昌幸「…猛勇の兵(つわもの)よ!…今年までは池田の同心として働いてもらっていたが…これからは信幸の馬廻を任せるぜ~!(原文:猛勇の兵也、今年迄は池田が同心に被預けるが、向後は信幸公の御馬廻)

 

…と出世した一場は、平川戸で10貫文の加増と感状を賜りました…!

 やったネ!

 

 ところで、中山城には赤見が籠城し、さらに氏邦からの援軍も加わっていました…。

 真田方では…

 

昌幸「ぬう~…やっぱし川田表のほうが心配だな~…(原文:猶も川田表無覚束)

 

…と、祢津助右衛門尉を川田打出の城へと移し、山名を北曲輪へと異動させました。

 堺沢には久保田金右衛門、林太郎左衛門、吉野太郎衛門、高橋右馬允を勤番させました。

 竹(高)瀬戸の要害には小保方兵部、同半左衛門、同勘解由、同治介、深津次郎兵衛を…

 大竹には塩野下野、同三郎左衛門、田中甚之丞、小保方大学、同雅楽之介を…

 横子には見城文右衛門、小池織部、田中ナントカ右衛門、伊与久市之丞、永井五郎右衛門、ナントカ浅右衛門を配置し、雨乞山の要害には師大助と七五三木佐渡が在番しました…。

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原文

中山右衛門討死しければ白井長尾の幕下赤見山城守を始め氏直公下知に相移けり、右衛門弟九兵衛尉相戦けるが家人共皆敵方へ心を寄けると承る間早々城を明退き候へと矢澤下知せられければ城を明渡し、名呉桃の城主鈴木主水は姉聟也ければ彼方へこそ落行ける。其頃氏直公は前橋に御着陣ありける折柄なれば五十餘人連判を以て氏直公幕下に可参由、赤見を以て申入たりければ氏直公より赤見方へ御證文を被遣ける。

 

各可有忠信由被申合交名書立披見感悦候、走廻り次第任望知行可宛行旨、被仰出者也

 天正十年壬午七月十五日 氏直在判

 安房守奉之

 赤見殿

白井長尾の家は鎌倉権五郎景正の後裔長尾弾正より右衛門尉昌賢相続て当代憲景一井齋入道まで十一代相伝て中山尻高は領地なりけるが一井齋入道故連に領知をも取をくれ幕下にも疎まれ、今度中山城へ家臣赤見を被居けるにも氏直公の證文赤見直に頂戴しければ長尾家も十一代にして滅亡無疑と矢澤方の人々は被申たり。五十四騎の連判の者をせんさく有之処に過半沼田地衆川田地衆多く在所退去中山へ隨身の旨申來りければ山名主水発知図書家人等の行跡不宜期なりければ川田衆も無覚束とて急ぎ上田へ御注進有ければ祢津宮内太輔元直に御軍評議有ければ二男助右衛門幸直は矢澤頼綱の孫聟にて有ければ幸直を可遣とて打立給ふ、白井中山の堺川田の城主山名主水発知図書は〇方より彼所の城主なりけるが今度北條氏直公出張せられ無覚束候旨、薩州被申越侯故御見付賜り候へかしと□し故なりけり同年八月中旬に□□根津を打立給ひければ元直公御喜悦あつて家の子加澤無任入道が弟小林文右衛門尉、差添久保田金右衛門尉、別府宇賀之尉、安中勘解由、水野靱負、白石兵庫介、都合二百餘人を引卒して倉内に着陣ある矢澤の手の者、庄村金右衛門尉、大草杢之介、其外恩田下沼田山名発知長〇曲輪邊迄迎に被立向、夫より二の丸北條曲輪へ被相移けり。其頃前橋の城には氏直公の伯父北條安房守氏邦在城して沼田へは小野の邦憲を先陣として富永又七助重、矢部大膳亮、大胡常陸介郡秀、膳の隼人、山上某、齋藤加賀守、須田加賀守、神庭三河入道等を以て可責とて堺目へ出張す。吾妻表へは多目周防守、内藤丹波守、小幡上総介、半田筑後守、富永主膳、同有馬之助、発向す。斯て同年九月内藤丹波守、富永主膳大将にて其勢五千餘騎、大戸口に責入ければ大戸真楽齋、同但馬守、三の倉表に出向相戦けれども無勢にて不叶手子丸の城へ引籠けるが大勢を以て責ける程に三日の間に被責崩て大戸兄弟腹かき切てぞ失たりける、則手子丸の城へは多目周防守、富永主膳相移けり、岩櫃へ可寄と軍議區々なるの由、信幸公聞召て去は敵寄来らざる先に手子丸を可責落とて出浦上総介、木村戸右衛門、前備は鎌原宮内、富澤伊賀守、後備は湯本三郎右衛門、浦野七左衛門尉、殿りは大熊五郎左衛門尉、横谷左近、御馬廻は丸山土佐守、池田甚次郎、春原勘右衛門尉、同惣左衛門尉、同勘次郎、長野舎人介、石井長門、赤澤加兵衛尉、割田下総、白倉武兵衛、佐藤軍兵衛、伊熊孫五郎、同采女、田中越後守、一場太郎左衛門、同茂助、富澤七郎兵衛、同主計、同大学助、同又三郎、二宮解勘由。御留主居は池田佐渡守、塩谷掃部介と御定有て、大将は卯花威の鎧に星甲を着、二尺五寸の海野重代備前長光の金作の太刀を佩き、十文字の鑓引提、御馬添に富澤豊前守、小草野新三郎、〇〇〇には唐澤玄蕃允、山越左内、上原浅右衛門尉、馬場角蔵思ひ思ひの鎧着て都合八百餘騎、仙人が岩に御着陣有て先手は元丸へ下り寄たりけり、多目富永出勢して一人も不残討取と下知してければ三千餘騎一度にをめいて掛りければ信幸公前備の湯本浦野か勢二百餘人をぬる川を下りに為引ければ敵勝に乗じ追かけ来りけり。信幸出浦木村は手子丸へ押寄べしと令せられて其身は三百餘騎にて元丸の森の蔭に控給ひければ富永仙人か岩より引返し出浦木村と相戦けり信幸公大熊に百餘人相添、浄土寺へ乗入放火せられ、横谷左近、唐澤玄蕃允に五十餘人相添、手子丸の方へ被遣ければ多目富永諸方より寄来るを見て軍法相違して見へけるが唐澤金の馬鎧を打かけ乗出けるを見てすわや大将真田と見て富永一陣に進て五百餘騎まつしぐらに掛りければ多目も一千餘を引卒し掛りけり、信幸公は森の内より横合に掛り給て切散せは多目富永か勢四方へ打散り終に手子丸へ引籠る、最前浦野湯本か勢を追掛けたる一千餘騎の兵は長追して大戸の平にて合戦しければ籠城すべき様もなく椿名山へぞ引上げり、信幸公は仙人が岩の上、浄土寺の堺内に御旗を被立ければ先手の上総之介、戸右衛門尉大手に掛りをめいて責たりけり信幸公城中を見給に椿名山の邊に旗色見へけるは裏門より落行と覚へたり、旗本の若者共裏門に廻り落人を可討、敵は難所を頼み北の丸には人なし、歩行立にて掛れゝゝと令すれば一場茂右衛門、富澤豊前、佐藤軍兵衛府澤玄蕃允、鹿野和泉、小草野新左衛門、青原勘次郎以下五十餘人静に岩を伝ひ北の丸に寄ければ按にたがはず番人は一人もなし、皆大手の木戸口へ集り防戦すと見へければ、究竟の処也とて木戸を明て五十餘人北の丸へ押入見ければ小屋小屋火を焼すて飯など割籠に入りて有ければ能時分とて不残食、小屋に火を掛ければ富永多目味方に心替りの者有と云程こそあれ、裏門表門より崩て落たりけり、五十餘人の人々は敵に交り各五人三人討取高名仕たりける中にも一場茂右衛門其年十七なりけるが是は如何したりけん北の丸へ入らずして木戸口にありけるが敵五十餘人に切立られ木戸口を開き出けるを待請て討ける程に敵十七人伐臥、即ち其鼻をそぎ敵の旗に包て信幸公の御前に披露す、多目富永が五千の兵を八百餘騎にて責崩したる事無双の御手柄と御父昌幸公聞食て御感不斜、同年十月上旬御出張有て手子丸の次第一々御物語有ければ御喜悦の餘り〇〇御長刀に先年藤田が進上したる高木貞宗の御脇指を被進けると也。其時高名の面々に御盃並に感状をぞ被下ける。一場茂右衛門若年にて敵の首数多討捕條百餘年の兵乱の中に其類を不聞、猛勇の兵也、今年迄は池田が同心に被預けるが向後は信幸公の御馬廻を被仰付、平川戸に於て十貫文の所御加増御感状に相添られ賜りける、斯て中山城に赤見籠城して氏邦より加勢を被籠置ければ猶も川田表無覚束とて祢津助右衛門尉を川田打出の城に移し、山名は北曲輪へ被遷けり、堺澤へは久保田金右衛門、林太郎左衛門、吉野太郎衛門、高橋右馬允勤番す。高瀬戸の要害には小保方兵部、同半左衛門、同勘解由、同治介、深津次郎兵衛。大竹には塩野下野、同三郎左衛門、田中甚之丞、小保方大学、同雅楽之介。横子には見城文右衛門、小池織部、田中〇右衛門、伊與久市之丞、永井五郎右衛門、〇〇浅右衛門、被差置ける。雨乞山の要害には師大助、七五三木佐渡在番す。