戦国時代と川田城③

その頃、信濃方面で戦っていた北条氏直と徳川家康は和睦を結び「天正壬午の乱」と呼ばれていた戦いは終結しました。この時に条件として出されたのが「信濃は徳川、上野は北条」と、それぞれ主権を互いに認め合うというものでした。この頃、上野を占拠していた真田は、形式上は徳川の家臣だったのですが、代替地の関係で揉めていたので、北条に上野を明け渡すことは拒みました。真田昌幸は、上野を明け渡す見返りの一環として、上田城築城の許可と、そのための援助を徳川から取り付けます。
真田が徳川・北条との戦いに至った理由
天正13(1585)年9月21日、北条は沼田城攻略のための動員を行います。大将は北条氏直と氏照、先陣は北条氏邦の50,000騎、殿(しんがり)は松田尾張守らの38,000騎という大軍が厩橋城に着きました。そしてここで、第一軍は北条氏照を大将として中山城へ着陣し、第二軍は北条氏直を大将として鈴が嶽の麓に本陣を構え、氏邦を阿曾城に入れました。上田で徳川と戦っている真田昌幸に代わって沼田を守る矢沢頼綱は「関八州を相手に戦うのは誠に武人の誉れ」と喜び、攻めれている立場なのにも関わらず猿が京の城を落とすという奇策を
北条の沼田攻略作戦
中山城を拠点とした北条氏照は、白井城主の長尾輝景を先陣とした20,000の兵を率いて川田城に押し寄せました。川田城の祢津幸直と山名主水は、女や子供を沼田城に避難させ、川田城はカラにしておいて、自軍は大竹の要害に隠れていました。長尾が率いる北条軍は川田城を取り囲みましたが、城内に1人もいないので、呆れて中山城へ引き返しました。普通なら城を占領してしまうところですが、北条の大軍にとっては小さい川田城を占領しても、軍を養う設備もなく、引き返して次の名胡桃城攻めに備えるしかなかったのです。
川田での戦い①
川田城、大竹の要害周辺
川田城、大竹の要害周辺
北条氏照は川田の兵が300にも満たないことを知り、翌日は長尾輝景が率いる2000騎を子持山方面から、多目周防守が率いる2000騎を権現嶺から、小山、倉賀野、小幡らが率いる2000騎は不動嶺から、それぞれ川田城を攻めさせました。これに対する沼田勢は、不動嶺で名胡桃城の鈴木主水と中山九兵衛、雨乞山で上川田城の発知図書らが戦い、祢津幸直は子持山に向かいました。祢津は薄根原で待ち伏せていましたが、北条軍が峠を下るのを見て、横子の久保に潜んで帰り道を襲うことにしました。
川田での戦い②
天正14(1586)年の春、北条と真田の勢力の境であった川田では、農民は困窮し、餓死するものが多く出ました。真田昌幸は上田から食糧を送り、矢沢頼綱に配分させ川田の民を救いました。しかし、これで根本的な解決にはならず、北条方の赤見山城守がいる中山城の兵隊は、川田附近に侵入して早苗をを踏み散らし、麦を刈るなど、農地を荒らしました。そこで川田城主である祢津幸直は部下の小林文右衛門に命じて、赤見と互いに農地を荒らさない約束をさせ、ようやく農民は安堵しました。
川田農民の救済と中山城との協定
豊臣秀吉が北条氏直の上洛を求め、北条方は交換条件として、真田(当時は豊臣の家臣)に沼田を渡すよう要求しました。天正17(1589)年、秀吉の裁定により、徳川所領である信州伊那が真田に与えられ、沼田城は北条に明け渡されました。沼田城代には猪俣邦憲が入りました。北条は戦闘ではボロ負けしていましたが、ようやく沼田城を手に入れました。しかし、名胡桃城と新治の諸城は真田のものとして残されました。昌幸が「名胡桃には真田の墓地がある」と大ウソを主張したからであるようですが、関白相手に平気でウソを言える度胸はすごいですね
北条征伐まで