川田城は、三浦系沼田氏第6代の沼田景久の子、川田四郎景信によって築かれたと伝えられています。
川田氏が滅んだ年代や理由については、資料によってまちまちで、どれが本当だか定かではありません。
円珠姫は天正10(1582)年に沼田城代の滝川益重の手引きで厩橋城の滝川一益に歌の師として招かれていますので、川田光清が円珠姫の没後に円珠庵を開基したのだとすると、後の年代のほうがしっくりくるような気がします。(あくまで個人の感想です。)
『川田村誌』では、川田氏について、天正9年(1581年)に真田氏によって滅ぼされたとしています。
また、同資料では、川田城が落とされる様子について詳細に書かれた部分がありますが、根拠とした資料が不明であり、信憑性には疑問が残ります。
現地に設置されている看板では、天文12(1552)年に、北条氏の沼田進攻により滅亡したと書かれています。
沼田市のホームページや、沼田市教育委員会が平成30年に発行した『群馬県沼田市文化財ガイド』には、天正7(1579)年に小田原北条氏、同8(1580)年に真田昌幸の進攻で滅亡したと書かれています。