戦国時代と川田城②

天正9(1581)年の夏、北条氏邦が沼田を攻め、真田昌幸はこれを撃退しましたが、その際の恩賞をめぐって、吾妻の将士と海野幸光・輝幸兄弟との間で揉め事がありました。真田昌幸と矢沢頼綱は、海野が北条方に付くことを懸念し、泣く泣く討伐することになってしまいました。討伐の将は真田昌幸の弟である真田信尹でした。信尹はまず岩櫃城にいた海野幸光を襲いました。幸光は盲目であるにも関わらず、刺客を15人も斬り倒すという活躍をしましたが館に火をかけられ、ついに切腹して果てました。
海野一族の討伐
天正10(1582)年、武田勝頼が自害し武田氏が滅亡すると真田昌幸は織田信長に対して降伏しました。信長は武田領地の支配を始め、関東管領として滝川一益を派遣しました。一益は厩橋城に入り、沼田城には甥である滝川儀太夫を城代として入れました。この時、円珠姫が一益の歌の師として派遣されています。同年6月、明智光秀の謀叛により、本能寺で織田信長が自害すると、その配下である滝川も大きな影響を受けました。沼田城では藤田信吉が上杉氏から兵を借りて滝川儀太夫に反乱を起こしましたが、失敗して越後へ逃げて行きました。
武田氏滅亡、信長死後の沼田
天正10年(1582)の秋、滝川が去った後、再び沼田城を制圧した真田家は、北条家の支配下にいた白井長尾家を攻めますが、津久田城と猫城を守る牧和泉と牧弥六郎の反撃にあって敗れてしまいます。ちなみにこの戦いで金子泰清が敵兵に脅されて、軍を乱して逃げるという失態をさらしていますが、これも景義の呪いでしょうか。ここで沼田勢の中山右衛門尉が討死したことで、中山城に残っていた弟の九兵衛は名胡桃城に撤退し、カラになった中山城には北条方の赤見山城守が入城することになります。
真田の白井長尾氏攻め
沼田城周辺の諸城
沼田城周辺の諸城
吾妻で信幸が戦っている頃、北条氏邦は沼田に侵攻するため、恩田越前守が守っていた長井坂城を攻撃し、これを占領しました。更に、北条氏邦は、加藤丹波守が守る鎌田城と、金子泰清が守る阿曾城を攻めました。鎌田城の戦いでは、沼田城代の矢沢頼綱が小松明(こたいまつ)という槍を振るって、攻めてきた猪俣邦憲の軍を壊滅状態まで追い詰めましたが、翌日北条軍の総攻撃を受け、ついに城は陥落し、加藤丹波守は切腹してしまいました。阿曾城では、何と戦いの最中に、金子泰清が「二十三夜講」と称して酒宴を開催していました。
長井坂、鎌田、阿曾での合戦
北条氏邦が沼田城攻撃のため、田北の原に布陣を構えると、矢沢頼綱は早道原に備えを構えました。この時、沼田勢の先陣を務めたのが、後の川田城主となる祢津幸直です。この時、幸直は20歳で血気盛んな頃であり、十文字の槍を持って北条方の武将である上泉主水と戦っているところ、敵に囲まれて窮地に陥りましたが、家来の小林文右衛門らに助けられました。この後、沼田勢は一時城へ退却し籠城戦となりました。北条勢は城を激しく攻めましたが、容易に落城させることができないので、阿曾城へ引き返していきました。
倉内での合戦と矢沢の夜襲