戦国時代と川田城①

天文(1532~1555)の頃、沼田城主である沼田万鬼斎顕泰は、「ゆのみ」という側妾が産んだ平八郎景義を伴って川場の天神城に隠居しました。沼田城は、弥七郎朝憲が継ぎましたが、「ゆのみ」は自分の子である景義を沼田城主にしたくて、兄である金子美濃守泰清と謀略を巡らし、顕泰をそそのかします。永禄12(1569)年、ついに顕泰は朝憲を天神城に招き、謀殺してしまいます。沼田氏家臣団は、朝憲の妻である御曲輪の御前の父である厩橋城の北条高広の兵と共に、顕泰と景義を糾弾するべく天神城に押し寄せます。
川場合戦①
顕泰・景義を追討する軍の先陣を務めたのは、川田城の山名信濃守の嫡子小四郎(山名主水のことか)と上川田城の発知図書介でした。顕泰は彼らに対し「白旗に根笹は山名、赤地にカヤデは発知図書とだな…、惣領の家に向かって弓を引きおって、天罰からのがれられないぞ!」と罵りました。景義も逃亡の途中で「悪い奴らめ…重代の主君に向かって矢を放つとは…南無八幡大菩薩も御知見あれ!」と言って数名を斬り倒しました。追討に参加した沼田家臣団からすれば、裏切者は朝憲を殺害した顕泰たちだったのでしょう。
川場合戦②
沼田氏は永禄はじめの頃から上杉謙信の配下となっていたものの依然として沼田万鬼斎顕泰が沼田を仕切っていたことには変わりなく、重臣や実力者たちは顕泰直属の者ばかりだったので、上杉から沼田城代としてやってきた柴田左衛門尉や、上野中務大輔、川田伯耆守(沼田の川田氏とは関係ありません)、用土邦房・藤田信吉親子といった者たちでは、うまくまとめることができず、病気になったり、ケンカしたりして、最終的には藤田信吉だけが城代として残っていました。
「川場合戦」以降の沼田
天正9(1581)年、川場合戦で会津に逃亡した後、金山城主の由良国繁と親交を深め、女淵城主の任に就いていた沼田平八郎景義は、かつての沼田氏の居城である沼田城を奪還すべく兵を挙げました。由良氏の援助に加え、現地で沼田家の旧臣をも味方に付けた沼田景義の軍は約3,000騎にふくれ上がり、阿曾城に陣を構えました。さらに景義は田北の原(滝棚)では藤田信吉、海野輝幸の軍を破り、そのまま高王山城を占拠し、沼田城を眼下に見下ろして、一挙に攻略する作戦を練っていました。
沼田平八郎景義の旧領奪還作戦
金子泰清を信じた沼田景義は、町田の観音堂で武装を解き、金子の先導で沼田城の水手曲輪から入っていきました。しかし、これはワナだったのです。約束を書いた血書もウズラの血で書いた偽物でした。そこで、景義は出迎えのふりをしたかつての家臣、山名弥惣の不意打ちにあい致命傷を負ってしまいます。ついでに金子泰清にも3回ほど脇腹を刺されました。景義は「金子、金子、金子…」と無念の言葉を残して絶命しました…。
沼田平八郎景義の最期