山口和吉郎 書
出版年等不明
円珠女由来 全
山口和吉郎 書之
川田円珠姫之事
往昔利根郡沼田之城主<其節ハ庄田ト号/今井土上村ナリ>
三浦勘解由左衛門平景泰<迦葉山開基/龍華院殿ナリ>六
世之孫川田次郎景政四代孫川田光清之
娘なり、幼少之内より甚詠歌を好時々
歌吟をいたしける内ニ茂龍田山紅葉之歌
名歌之由世ニ称美せられ後ニ大内御歌所
迄達上聞に御製頂戴有之けるとなり、其歌
龍田山紅葉をわけて入る月の錦に包む鏡也けり
御製
上野の沼田の里に円なる珠の有るとは誰もしらすや
御製之内円珠をもつて名といたしけるとや、
右之歌記録之分や不審有之、是ハ古今集
有之、筆者之誤ならんや、然共任古記書之、
此諺世ニ聞へ当世迄茂円珠姫と申事ハ
浮世の人之耳口に留りし事ふしきならずや
円珠女座頭物語と題し狂歌なり迚
或山寺に小児三人有りて四十雀を飼置けるニ
不計春雪高ふ積りて彼鳥死せり、児共是
惜しミ不便之余り雪仏を造り銘々歌を
よミ弔ひをしけるとなり、
雪仏造りもあへず罪きゑて落るしつくは
あのくたらたら
造る人皆極楽江ゆき仏罪もむくいもきへて跡なし
氷りをハ座像になすや雪仏あられハ玉のかさり成らん
右之外円珠之歌と云有之、略之、
此円珠女壮年之砌りハ<信州浪人>陶田(ヨウダ)弥兵衛と云人に
嫁し年月を送りけるが彼之男故郷に老
母有之つれ共一向音信不仕、更ニ案する体
にも無之唯うかうかと過行事を円珠疎んじ
公ニは甚不孝之人なり、自を如何程思召さるゝ
とも頼母子からず、三綱の内ニ茂第一親子道、
諸之罪の内ニも不孝ゟ大イなるなしと聞、
然ルに御母公之事思召遣つれさるハ天命ニ
背く所なり、斯申せは迚妾ハ二心なし、誓
紙を書一毫の書を作り見せたり、其書
円珠集と銘じ寛永之頃迄ハ有之、当時ハ
不見、云ク斯而弥兵衛ハ故郷江参り老母ニ
孝行を尽しけるか一両年茂過老母死せり、
亡迹懇(ねンコロ)に取置き沼田へ立戻り旧室江入
りて見れは前度之住居とハ事替り床ニ
釈迦三尊十方世界之諸仏名号を掛ケ
円珠ハ髪喝食の姿と成り黒衣ニ掛羅を
掛たり、香の煙り薫して最貴く見へ
たりける、弥兵衛とは是を見て女人さへ如此、男之
身として何迚思ひきりさゝん迚剃髪染衣之
姿となり諸国修行と出ニけり、其頃関八州之
官領として滝川左近将監勝益と申シ
厩橋ニ居住す<滝川義太夫甥ナリ>、沼田城代たるニよつて
勝益円珠事を聞前橋へ召寄らる、天正
十年六月六日信長公為惟住日向守被弑、
仰ニ依而滝川北条と一戦ニ打負ケ直ニ上洛
したりけれは惣国之乱となりニけり、円珠は
此節大病ニ而歩行茂不叶城中に打伏し
居たりけれは北条殿如何成者ぞと尋給ふ、
円珠なりと答けれは偖ハ年及し歌人
なり、実の円珠ならハ歌をよミ候へ、命を助
けんとありけれは、此大病ニ及て詠歌事
思ひ不寄と答けれは達而と申ニぞ、左茂あらは
題を給われかしと、依而左ならハ二ツ三ツ四ツと
望ミ給ふ、
如何にせん恋しき人の玉章によまれぬ文字の二ツ三ツ四ツ
と息茂絶々に聞へけれは、甚た不便ニ思召れ
思ふ所江送すへしと宣ひける、故郷なれは
沼田懐しき旨答ひけれ、然らハ沼田江送るへしと
附々の人を添人々労りけれ共、長病ゆへ道中
にて空く成りしと也、女性なれ共才智文
覚世に勝れ名を後代ニ残しけるとなり、
法名流泉院と号<此外円珠猿物語ト号戯詞等是アリ、略不記、亦此辺所々歌有>、
川場桜川
水かミは吉野の山にあらね共波にも花のさくら川にて
滝棚の原
高平の水の流れや白沢の沼田にかゝる滝棚が原
滝棚の西五六岩
うき思ひ斯とは誰に岩はしらかゝる蔦葉の色替るとも
沼田母公二首
世にあらぬひなの旅路をあわれとは紅葉も思へ□(破レ)
佐保鹿の声に枕をそばだてゝ紅葉のむしろ□(破レ)
玉原平氏母公
照る月の宿かる露の玉原ニ心あるへき女郎花哉
藤原湯之小屋名木
心なき常盤の松もなひくなりつれなき人ニ一目見せはや
硯田母公
波宮によりより見ゆる村かもめ水の庭ニも□□有て
榛名三社
たな引や霞も匂(ニヲ)ふ桜はな常盤と見ゆる三榛名の森
伊香保の沼 三才図
伊香のやいかほの沼のいかにして恋しき人を一目見んとや
利根川
笹わけば袖こそすれねとね川の石ハふむ共いさかわらよ□(破レ)
東路のさのゝ板橋取はなし恋しき妹ニあわん□(破レ)
小野家文書(群馬県立文書館収蔵)