入道で越前守。
今回も鎌原をぶっ〇したくて仕方ない。
宮内少輔。
幸運のステータスが高い。
コイツも入道で道雲。
温泉好き。
うかつ。
鎌原の老臣。
ワナを仕掛けたことにすら気付かれず敗北した可哀想な人。
オインゴ兄さん系。
この章は前章の続きですね。鎌原に対して遺恨を残す齋藤憲広がどんな行動を取るのか楽しみですね~。まぁタイトルでネタバレしてるけど…。
さて、海野の一族で羽尾治部少輔景幸という者がいました。その嫡子は羽尾治部入道道雲、二男は海野長門守幸光、三男は海野能登守輝幸といいました。3人とも無双の勇士でした。
特に三男の能登守は、力が万人に勝れた兵法の達人で「上原能登守」と名乗り、兵法執行の師でもありました。
齋藤入道(憲広)は、この海野輝幸のことをとりわけ気に入って仲良く接していたので、彼の兄弟である羽尾道雲と海野幸光も合わせて無二の臣としていました。
ある時、羽尾が岩櫃へ出仕して来た時に、齋藤はこう言いました…。
齋藤「…なぁ羽尾の~、去年の秋に信玄から討手を差し向けられて、仕方なく降参しちまったけどよ~……あれは鎌原のヤロウが裏切りやがったのが原因だいな~!…あのクソったれが…怒りが収まらねぇぜ!!…羽尾ッ…何か手立てを考えろ…!そして鎌原をぶっ〇せッ!!」(原文:去る秋信玄より討手を被差向けるが、随世習降参とは申つるが、偏に鎌原が表裏故なれば憤り止事なし、羽尾入道のてだてにて鎌原を討にしくあらじ)
これを聞いた羽尾は…
羽尾「奇遇ですな~齋藤の入道……実はオレもちょうど…鎌原のヤロウをぶっ〇そうと思ってたところですよッ!!」(原文:内々某も心掛たる処也)
と答えます…!
そして、永禄3(1560)年10月上旬、羽尾は海野長門守幸光、富沢加賀守庸運、湯本善太夫、浦野下野守、同中務太夫、横谷左近将監ら600余騎と共に鎌原の要害に押寄せました…!
さて、鎌原のほうでも…
鎌原「羽尾のヤロウが攻めてくることは、かねてからわかっていたことだぜッ!」
…と、嫡子の筑前守を赤羽根の台に送り、西窪佐渡守を大将として家来の今井と樋口を鷹川の古城山へ登らせると、自身は要害に籠りました…。
そこへ、羽尾方の一番手として、羽尾治部入道道雲と海野長門守(幸光)が、まずは鎌原の嫡子である筑前守が控えている赤羽根の供養塚へと攻めかかります…!
羽尾兄弟と筑前守は、互いに火花を散らし、仏坂西川の池付近で、追い返し…また戻し…と、散々に戦いましたが、ここは難所であったので大きな戦いにはなりませんでした…。
そういった戦況のなか、鎌原の陣営では…
部下「敵の増援ですッ!…大戸真楽齋が舎弟の但馬守に手勢200余人を添えて、須賀香峠を越え、狩宿へ攻めてきますッ!!」
鎌原「…くそッ!…ダメか……ここはなんとかしてこの軍(いくさ)を逃れるしかねえッ…」(原文:不叶、さらば手立を廻し、先此度の軍を遁ん)
と、仕方なく常林寺の住持に頼んで齋藤に泣きを入れ、今回の件は和談となりました…。
さて、このことを報告された信玄は…
信玄「齋藤と鎌原のヤツら…仲が悪くて、しょっちゅうケンカしてるな~……まぁ…あんなのは、小せえ奴らの小競り合いだけどさぁ…これが大事になるとうんまくねーやなぁ……
結局んトコ、羽尾と鎌原の領地争いが原因で、齋藤まで巻き込んだケンカになってんだよな~…しょうがねぇな~…検使でも送って仲裁してやるべーじゃねぇ」(原文:齋藤と鎌原不和にして度々の兵乱、勿論小身の小せり合とは云ながら小事は大事の本也……此根元を尋るに羽尾入道領知を争ひ齋藤と不和の故也ければ以検使御極有んに如くは無し)
…と、永禄5(1562)年、甲府から三枝松善八郎、曽根七郎兵衛、信州先方の室賀入道を送って、羽尾と鎌原の領地の境界を決めさせました。
甲府から来た検使が決めた境界について、齋藤も羽尾も納得した(どころか「喜悦浅からず」だった)ようですが、検使が帰った後で、羽尾はブツブツと齋藤に対して不満をぶちまけます…。
羽尾「…あ~クソったれ、納得いかねぇ~!…なんでウチが何代も受け継いできた『古森』と『せきや』の両村を、鎌原のヤロウにやらなきゃならねんだよな~…冗談じゃねぇッスよ齋藤の入道~…あ~面白くねぇ…!」(原文:数代相伝の領地古森、せきやの両村を鎌原方へ御附有し事、鬱々難晴)
齋藤「それはな~、確かにそーだいな……さすがにこれは鎌原に言うべえ…」(原文:尤也さらば鎌原に可申)
…というワケで、羽尾にグチられた齋藤は、山遠岡與五右衛門尉と一場左京進を鎌原のところに使いに送って「甲府のヤツらが決めた領地の境界だけどさぁ…やっぱりウチらで見直さねー?」と申し入れました。
さて、齋藤からの申入れを聞いた鎌原は…
鎌原「いやいや…そんなのダメでしょ!?…だって信玄公がわざわざ検使を通じて『赤川と熊川の落合を境界とする』って決めてくれたんだっぺや!!…アンタらも一旦は納得したんじゃねんきゃあ!?…それを今頃になって何言ってんだやオメーら…アホか!……ウチにしたら家が潰れるかどうかの瀬戸際だで!?…悪いけどさ~…もうこんなんに付き合ってらんねえわ…!」(原文:一旦信玄公より御検使を以て赤川熊川両川の落合を限り御極め有ける上にかくのたまふ事は一家浮沈の安否也)
…と、永禄5(1562)年10月に在所を引き払って信州佐久郡ヘ一門ことごとく退去していきました…。
このことはまた甲府へ報告されました。
これを聞いた信玄は、翌年3月に甘利左衛門尉を通して鎌原に手紙を出し、信州での領地をあてがいました。
その手紙の内容は…
―――――――
就貴方進退之儀、齋藤越前入道所へ雖被申届候、無承引之上、退在所信州へ被相越侯上は、於羽尾領相渡候如知行、聊無相違、以浦野領内可出置候、後迄も尚忠不浅候間、不思疎遠之段可有甘利口上侯、恐々謹言
永禄五年壬戊三月廿六日 信玄(判)
鎌原宮内少輔殿
―――――――
日付がちょっと?なんですが…どんなコトが書いてあるかというと、
「おう鎌原、オマエが吾妻で安心してやってけるように、齋藤にウマいコト伝えたつもりだったけど…ダメだったみてえだな~……まあ、信州に来たからには、羽尾の領地と変わらない知行を渡すからさ~…とりあえず浦野の領内でガマンしててくれや!…そんでこれからもウチでがんばってくんねーかい…甘利を通してでワリィけど、今後も疎遠にならないようにすべーじゃねえ…な?」
―――――
こうして、信州に退去してしまった鎌原と入れ替わりに、鎌原(地名)の要害には羽尾入道が入りました。
羽尾入道は風流者で、いつも赤根染の小袖を着て、浅間山の麓のモロジ野で遊猟したり、加沢の湯などへ入湯したりと、安楽に暮していました。
一方、鎌原のほうは、小県郡で領地をもらい安堵していましたが、羽尾の振る舞いを聞くたびに…
鎌原「あの野郎(羽尾)がッ!…調子に乗りやがって!……あ~クソ…帰りてえ!」
…と一日中考えて暮らしていました。
そして、かつて恩儀を与えた古郷の農民たちと内通し、情報を得ていました…。
その年の6月、鎌原のもとに、内通していた本領の農民から「羽尾入道のヤツ万座山へ浴湯に行きやがりましたぜ」との情報が入りました。
鎌原「これはチャンスだぜッ!…あのバカ(羽尾)がいねえスキに本領を取り返してやるッ!!」(原文:幸也)
…と、真田幸隆、祢津覚直、甘利左衛門尉から少々の援軍を得て、本領に帰ってきました…。
情報のとおり羽尾は留守、さらに羽尾の嫡子である源太郎も岩櫃へ行っていたので、留守を守る兵は5、60人ばかりでした。
鎌原は水のドウを越え、堀厩のあたりに進軍しました。
さらに、甘利の援軍が砂塚のふた坂のあたりへ軍を寄せると、留守番の兵は…
留守番の兵「ゲエッ!?…なんだアリャ?…マジかよ…こんなん聞いてないぜ……大将(羽尾)はノンキに温泉つかりに行ってるし……こうなったらオレらもバックレるっきゃねえ!!」
…と、早々に城を捨てて逃げていきました…。
こうして鎌原は、一戦もせず元の城へ入ることができました。
城の中にはところどころに羽尾が貯えておいた米穀や兵具その他のものがたくさんありました。
鎌原「羽尾の奴ら、オレたちの襲撃に備えてこんなに蓄えてやがったww……加勢してくれた甲府のみんな~、コレやるよ!…羽尾のだけど(笑)」
…と、鎌原は甲府の援軍にご馳走して信州へ帰しました…。
羽尾入道はこのことを聞くと、ただ茫然として力なく…
羽尾「やべェ…領地に帰ろうにも道を塞がれちまったじゃねえかよ…このままココにいたら敵が攻めてくるのは明らかだ!…仕方ないが…信州へ落ちるしかねぇ…!」
…と、6月下旬、万座の湯から山を越えて、信州高井の郷に落ちていきました…。
このことを知った齋藤入道は、
齋藤「チッ!…羽尾のヤツ油断しやがって…甲州から加勢がくる前に鎌原のヤロウをぶっ〇したいが、この小勢ではどうしようもねぇ……こうなったら謙信公に頼るしかねえ!」(原文:甲州加勢なき前に鎌原を可討捕、小勢にては難叶、謙信公へ随身せん)
…と、長尾左金吾入道に仲介を頼みました。
この時の使者は善導寺の住僧、甥の(齋藤)弥三郎、唐沢杢之介です。
齋藤から謙信への仲介を頼まれた長尾左金吾(一井齋)は…
長尾「おうッ、齋藤の!…おめぇ謙信公を頼りたいっつーじゃね?…オレもそれがいいと思うぜ~!…任せとけや」(原文:願所の幸也)
…と、すぐに越後へこの話を伝えるよう、中山安芸守に命じました。
中山は家臣の平方丹波を使って越後に申述しました。(このへんは伝言ゲームみたいでややこしいですね。直接話せよって感じですが…)
齋藤の意向を聞いた謙信は喜び、手紙で返事をしました。
これを受けた齋藤は…
齋藤「謙信さま~!…アリガトですッ!…さっそく出仕したいんですけど~…兵乱の最中なんで自分では行かれませんので……代わりに甥の齋藤弥三郎と富沢但馬守を行かせますね~」
…と献上品を持たせて礼を尽くしました。
このとき献上されたのは、権田で作った矢じりが1,000個と、熊の皮2枚でした。使者は褒美として白布20反をもらいました。
さて、羽尾入道は数か月の間、信州の高井野にいましたが…
羽尾「…クソッ!…何とかして領地に帰りてえ!」(原文:何とぞして古郷へ帰ん)
…と作戦を考えていました。…なんか鎌原のときと似たような展開ですね)
そして羽尾は、鎌原の老臣である樋口という者に目を付けます…。
この樋口という者は羽尾にとっても親類でした。
羽尾は樋口に内通して…
羽尾「なあ樋口~…鎌原のヤロウをぶっ〇してくれたらさ~…ヤツの領地をやるからさ~…何とかしてくんねーかな~」(原文:鎌原を誅せんに於ては鎌原一跡を可宛行)
…と、そそのかします…。
齋藤入道からも海野長門守を通じて同様のアプローチがされ、樋口は欲に負けて、鎌原への義理を忘れました…。
樋口は羽尾と齋藤の誘いにのって、羽尾のいる高井野へ、鎌原を討つ策略を伝えます。
その内容は…
樋口「へへッ…羽尾の大将~…よくぞこのオレに声をかけてくれましたね~!…オレもいつかアイツを〇してやろうと思ってたんですよッ!
さて、鎌原をぶっ〇す時期ですが、万座山に大雪が積もってしまってからじゃあ敵わないから、9月の中旬には出馬してくださいよ?
その時、寺場に陣取って先手に門貝を下らせよう…なーんて考えはダメですよ?……西窪のヤツに防がれてしまうでしょうからね…。
ですから、干又通から米無山へ登って大前へ出るとよいでしょうねぇ。あ、でも中城と外城のほうはダメですよ、鎌原の嫡子の筑前守のヤツがいるから、攻めるのは難しいです…。
…それで、羽尾さんが大前へ向かえば、宮内(鎌原のこと)のヤロウが自ら出てくるでしょう。その時にオレもヤツに付いていきます…。
宮内(鎌原)のヤロウはいつも黒毛の馬に乗っています…。オレは芦毛(灰色)の馬で付いていって合図しますから、黒毛の馬に乗ってるあのヤロウを鉄砲で討ち〇してください!…ククク…」(原文:万座山に大雪積れば叶まじ九月中旬に出馬し給へかし、さらんに於ては寺場に陣取、先勢を門貝を下りて向給はゞ是は西窪が可防、干又通に米無山へ打登り大前え出給べし、中城外城両所には嫡子筑前守居て中々可寄便なし、大前へ働給はゞ宮内自身可出向、其時我も供すべし、宮内は常に黒成馬、吾はあしげの馬に乗て可出、黒成馬を目掛て鉄砲にて討給へ)
…という具合に、樋口と羽尾はガッツリ打合せをしました。
さて、樋口と練った計画どおり…羽尾入道は高井野からの援軍を加えた500余人の勢で、9月上旬に万座山を越え、干又を通り、米無山に陣取りました。
対する宮内(鎌原)側は、家臣の樋口を大将にした200余人が、鉄砲の上手な10人を前後に囲んだ部隊で、大前の表へ向かいました。
鎌原は黒成馬に銀幅輪の鞍を置き、黒糸威の鎧を着て、同毛の五枚冑の緒を締め、三尺五寸の熊皮の尻鞘、二尺七寸の討刀、十文字の槍、重藤の弓といった支度です…。
ここまでは樋口の目論みどおりです…!
が…鎌原の悪運はこんなもんじゃ尽きないんですね~…
鎌原が要害を出て鳥居川を渡る時、乗っている馬が前膝を折ってズッコケました…。
鎌原「なんだよ、この馬…ゲンが悪いわぁ~…おい樋口ッ!…オマエの馬と取り換えてくれや!」
樋口「(えー…)」
樋口は渋々、鎌原の黒毛の馬と自分の芦毛の馬と取り替えます…。
樋口「(ちッ!このクソ野郎(鎌原)のこういうところが気にくわねーんだよ!…まあ、この戦いで羽尾がコイツをぶっ〇してくれれば領地はオレのもの…もう少しのガマンだッ!…ククク…羽尾がオレの指示通り黒毛の馬に乗ってるあのクソ野郎を狙撃すれば………『黒毛の馬』を……)」
………
樋口「ん!?」
………
………
樋口「それ(黒毛の馬に乗ったやつ)って今のオレのコトじゃねーかよ!!――Σ(゚Д゚;)ガビーン――」
羽尾の軍は大前の上原で声を上げています…。
このままだと樋口は自分が立てた作戦により狙撃されてしまいます…。
鉄砲の音を聞くたびに生きた心地がしません…。
樋口「(ヤバいよヤバいよ…)」
そんなワケで樋口は全く進む気配を見せません…。
鎌原「ん?…どうした樋口?…顔色が悪いぞ?」
樋口「(やかましィ~ッ!…このクソガキャァァ!…テメェの気紛れのせいなんだよ……しかし、そんな事を口に出したら今この場で〇される…)
…うぅ…ちょっとハラの具合が……」
鎌原「あ?…何言ってんだテメー…もうじき羽尾の陣に着いちまうぞ!?……まーず身ー沁みねーなー…!」
鎌原は(たぶん)真っ青で冷や汗ダラダラの樋口を置いてどんどん先に行ってしまいます…。
樋口はそこかしこで躊躇って立ち止まったので、鎌原と樋口の距離は1町ほど離れてしまいました…。(1町は約109.09m)
いっぽう、羽尾のほうではこの様子を見て…
羽尾「樋口のヤツはこちらと内通してるから、前線には出て来づれーよな……鎌原の乗った黒い馬もなかなか近づいてこねぇ……そうだ、確か高井野の山ん中で獣を撃ってるヤツがいたろ、アイツに頼むべーや」(原文:樋口は内通の者なれば跡に控て不進、高井野山中にて下はりを撃つ猟師有り、渠を頼て来りければ相図の敵を一鉄砲にて討捕ん)
…と腕のいい猟師を呼びます。
羽尾に呼ばれた猟師は…
猟師「了解ッす!(…鎌原ってヒトの顔は知らないけど…)『黒い馬に乗ったヤツ』を撃ち〇せばいいワケっすね!…おやすいご用ッす!」
…と、物陰に隠れて標的に狙いをつけます…。
………
樋口「(…このまま鎌原がどんどん先に行けば…きっと羽尾が異変に気付く…
そうだッ!…いま鎌原が1町も先に行っているのは…オレのほうが『運命』に愛されている証拠だッ…!
『運命』はあんな下品な男より、このオレのほうが領主にふさわしいと言っているッ!
……ククク…そのままどんどん進めッ鎌原!羽尾が気付いた時がオマエの……)」
――ドゴオォォッッ!!――
………
樋口「…え?」
樋口は自分の胸板を貫いた弾丸が、さらに側にいた郎従の頭に当たるのを目の当たりにします…。
樋口が最後に見たのは…犬のように倒れ込む郎従の姿でした…。
樋口「…ゲボッ……『黒毛の馬』………オマエが…鳥居川で……コケたり……しなければ……」
………
――樋口――羽尾と齋藤の甘言に乗せられた鎌原の老臣――死亡――
そして、鎌原は樋口に裏切られたことにさえ気付かず、何事もなかったように羽尾の陣へ軍を進めました…。
さて、羽尾は『黒毛の馬』に乗った男が撃たれたのを見て…
羽尾「よォォッしッ!!…ついに鎌原をぶっ〇したぜ~!…オメーら(部下)ッ!…残ってる樋口は実はこちらの味方だから、もう心配することはねーぜッ!」(原文:大将は討れ郎従の樋口は身方なれば子細は無きぞ者共)
…と、大喜びで弓鉄砲を袋に納め、弁当を取り出し酒盛を始めようとしていました。セリフの最後の「~者共」がイイですね。
部下「マジっすか!?…いつの間にそのような作戦を立ててたんすか~!?…さすがは羽尾の大将!…ハンパねえッス!!」
羽尾「…フフ…覚えとけオマエら……勝敗というのはなあ……『戦う前から既に決まっている』んだぜ?……さあ祝杯だ!…飲めオマエら!」
…とか言ってる様子を想像すると、この後の展開がさらに楽しめます。
羽尾「さて…そろそろ樋口のヤツもこちらに来るかな~?…何つってもアイツがこの勝利の立役者だからな~…たっぷり酒を注いでやらないとな~……お!来た来た…あの『芦毛の馬』に乗ってるのが樋口だ………ん!?…アレ?…何か様子おかしくね?…」
――ドドドドド――
羽尾「…あれは?…ゲェーッ!!…か…鎌原ッ!?…ば…バカなッ!!…テメエなんで生きてやがるッ!?」
鎌原「あ?…何言ってんだテメェ!」
羽尾「(…クソッ…ありえねー…!……樋口のヤツは失敗したのか!?)」
さらに、草津の谷から湯本善太夫と浦野義見齋が、鎌原に合流しようと(途中読めない部分があるけど)石津のほうから攻めてきます…。
なかでも、湯本善太夫の嫡子である湯本三郎右衛門という者は、羽尾入道に属していたのに、日頃から羽尾に恨みが深かったので、心変りして鎌原に味方し羽尾を攻めました…。
樋口が鎌原を裏切って失敗するシーンはあんなに長く書いたのに、この湯本三郎右衛門が羽尾を裏切るシーンはあっさり書くのが、またニクい演出ですね~。やっぱり加沢平次左衛門はスゴイですね~。
羽尾「…クソッ!…もうダメだ…」
羽尾はただ1騎で川に沿ってようやく平川戸へ落ちて行きました。
高井野から羽尾の援軍として参加した兵たちは散々な目にあって、野暮れ山暮れ、知らない山道を迷いながら、7日も10日もかかってやっと古郷に逃げ帰ったということです…。
さて、この件は信玄に報告され…
信玄「鎌原のヤツ…今回は運よく勝ったみてぇだけどさ~、齋藤が謙信についたっつーことは…今後はあの少人数じゃあキビシイよな~……しゃあねー、加勢を送ってやるべー、ついでに兵糧も小県から送っとけや」(原文:齋藤も謙信に属する由なれば小勢にては難叶、加勢を可被差加、兵糧は小県より可給)
…というワケで、甲府から祢津、芦田、甘利の援軍が、鎌原(地名)と長野原に送られました…。
鎌原へ送る兵糧は真田幸隆から賄われましたが、その時に信玄から幸隆へ証文が付けられました。その内容は…
―――――
鎌原宮内少輔俵物一月廿五駄ノ分、無相違可勘慮者也、仍如件
永禄六年癸亥五月三日 信玄(龍の御朱印)
―――――
内容「鎌原にやる俵だけど、1月に25駄(50俵)な…頼んだで~」
―――――
そんなワケで、信玄からこんな感じの評定があった結果、鎌原宮内、同筑前、西窪佐渡守、湯本善太夫は齋藤入道との戦闘態勢に突入しました…!
その頃、横谷は齋藤の味方をしていました…。
爰に海野の末葉に羽尾治部少輔景幸と云者の嫡子羽尾治部入道道雲二男海野長門守幸光、同能登守輝幸とて無双の勇士、殊に三男能登守は力萬人に勝れ兵法の達者也ければ中頃上原能登守と名乗、兵法執行にて師たる士なりければ齋藤入道別而懇切有て情深かりければ兄弟も無二の臣にぞ属せられける。有時羽尾入道岩櫃へ出仕し給ひければ齋藤越前守のたまひけるは去る秋信玄より討手を被差向けるが、随世習降参とは申つるが、偏に鎌原が表裏故なれば憤り止事なし、羽尾入道のてだてにて鎌原を討にしくあらじと被申ければ、内々某も心掛たる処也とて永禄三年十月上旬羽尾入道道雲、海野長門守幸光、富澤加賀守庸運、湯本善太夫、浦野下野守、同中務太夫、横谷左近将監六百餘騎、鎌原が用害にぞ押寄たり。鎌原も兼而用意の事也ければ嫡子筑前守を赤羽根の台に出し西窪佐渡守大将にて家の子今井、樋口を鷹川の古城山え差登せて其身は用害にぞ有りける懸る処に羽尾治部入道々雲、海野長門守一手に成て筑前守が控たる赤羽根の供養塚の邊にぞ寄たりける。互に火花を散し戦ける程に仏坂西川の池邊にて追返し逐戻し散々に戦けるが難所なれば大軍はならざりける。掛る処に大戸真楽齋が加勢して舎弟但馬守に手勢二百餘人相添、須賀香峠を越て狩宿へ寄ると告ければ鎌原も不叶、さらば手立を廻し、先此度の軍を遁んと思ひ常林寺の住持を使僧にて降人に出たりければ無左右和談したりけり。此由信玄公へ注進有ければ齋藤と鎌原不和にして度々の兵乱、勿論小身の小せり合とは云ながら小事は大事の本也、此根元を尋るに羽尾入道領知を争ひ齋藤と不和の故也ければ以検使御極有んに如くは無しとて、頃は永禄五年壬戊三月、甲府より三枝松善八郎、曾根七郎兵衛、信州先方室賀入道を以て境目御極有ければ齋藤も羽尾も喜悦不浅して検使は帰府せられけり。かく御極有ける処に羽尾入道数代相伝の領地古森、せきやの両村を鎌原方へ御附有し事、鬱々難晴とて此旨齋藤に申ければ、尤也さらば鎌原に可申とて山遠岡與五右衛門尉、一場左京進を以て被申たりければ一旦信玄公より御検使を以て赤川熊川両川の落合を限り御極め有ける上にかくのたまふ事は一家浮沈の安否也とて同年十月在所を払て信州佐久郡ヘ一門悉退去す。此由又甲府へ注進したりければ信玄公より翌年三月甘利左衛門尉を以て鎌原が許へ御書を被下、信州にて領地をぞ被宛行ける。其文に曰、
就貴方進退之儀、齋藤越前入道所へ雖被申届候、無承引之上、退在所信州へ被相越侯上は、於羽尾領相渡候如知行、聊無相違、以浦野領内可出置候、後邊も尚忠不浅候間、不思疎遠之段
可有甘利口上侯、恐々謹言
永禄五年壬戊三月廿六日 信玄(判)
鎌原宮内少輔殿
とぞ有けり。かくて鎌原が用害へは羽尾入道入替て居たりけり。羽尾入道風流者にて常々赤根染の小袖を着して浅間山の麓モロジ野に遊猟し、或は加澤の湯などへ入湯し安楽にこそ暮しける。鎌原は小縣郡にて領地賜り安堵したりけるが羽尾が振舞を聞に付ても古郷へ帰らん事を旦暮思ひ暮し、古郷の農民等の恩儀を被せある者方へ内通したりければ羽尾入道同年六月万座山へ浴湯したる由を告来ければ幸也とて幸隆公、祢津覚直、甘利左衛門尉より少々加勢を乞ひ本領へ来給へば羽尾は留守也、嫡子源太郎も岩櫃へ参りければ留守の者五六十人計也ければ鎌原水のドウを越え堀厩の邊、甘利殿加勢は砂塚はふた坂の邊へ来ると聞くより早々城を明て逃去けり。一軍にも不及元城へこそ入たりけり、所々を見るに羽尾入道貯置たる米穀兵具其外澤山ありければ羽尾衆我等待もふけの支度備るとて加勢の軍兵へ馳走して信州へこそ帰されけり。羽尾入道此由を聞き只茫然として力なく、羽尾へ帰んも道を塞がれたり、又此侭にて有ならば敵寄来んは必定也、信州へ落んとて六月下旬万座山の湯を立て山越に信州高井の郷にぞ落たりけり。此由齋藤入道聞給て甲州加勢なき前に鎌原を可討捕、小勢にては難叶、謙信公へ随身せんとて長尾左金吾入道へ善導寺の住僧、同苗弥三郎、唐澤杢之介を以て此由斯との給ひければ一井齋聞て願所の幸也とて則ち越後へ中山安芸守を以て可披露と有ければ中山よりは家臣平方丹波を以て申述たりけり。謙信公も御喜悦有て齋藤方へも御書を被遣ければ齋藤も早速出仕奉願といへども兵乱の中なれば自身不叶して甥の齋藤弥三郎、富澤但馬守を以て権田作り矢根千、熊皮二枚差上御礼相極る也、使も御褒美として白布廿反宛拝領したりけり。かくて羽尾入道は数月信州高井野に居たりけるが何とぞして古郷へ帰んと計を廻し鎌原が老臣樋口と云者有り、かれは羽尾にも親類也ければ渠が許へ内通し鎌原を誅せんに於ては鎌原一跡を可宛行と云遣りけり、齋藤入道も海野長門守を以て此旨を申されければ欲心に義理を忘れしものなるべし、樋口此儀同心して高井野へ申けるは万座山に大雪積れば叶まじ九月中旬に出馬し給へかし、さらんに於ては寺場に陣取、先勢を門貝を下りて向給はゞ是は西窪が可防、干又通に米無山へ打登り大前え出給べし、中城外城両所には嫡子筑前守居て中々可寄便なし。大前へ働給はゞ宮内自身可出向、其時我も供すべし、宮内は常に黒成馬、吾はあしげの馬に乗て可出、黒成馬を目掛て鉄砲にて討給へと堅く約束相図を極めければ案の如く羽尾入道、高井野より加勢有て其勢五百餘人、同年九月上旬、万座山越て干又、米無山に陣取て見えければ宮内家臣樋口大将にて其勢二百餘人、鉄砲の上手十人召連前後に之を囲ませ大前表へ発向す。鎌原は黒成馬に銀幅輪の鞍置せ、黒糸威の鎧着、同毛の五枚冑の緒しめ、三尺五寸の熊皮の尻鞘、二尺七寸の討刀、十文字鎗横たへ、重藤の弓持出けるが鎌原が運の続べき瑞相にや用害を出て鳥居川を渡る時、乗たる馬前膝折て伏ければ此馬は足立悪とて樋口の乗たる芦毛の馬に乗替たり。樋口も流石其時に至ては辞退せんに力なく、乗替てぞ供したり。敵は大前の上原に控ておめきければ樋口兼て相図の事也ければ鉄砲の音しける度毎に今ぞ最後と思ふに依り、さながら進む気色なし。爰かしこにて猶予して控ければ鎌原には一町斗は引下りたり、羽尾此由見るよりも樋口は内通の者なれば跡に控て不進、高井野山中にて下はりを撃つ猟師有り、渠を頼て来りければ相図の敵を一鉄砲にて討捕んとの儀なりければ猟師物蔭に狙ひ寄て撃ける程に無ざん也樋口の胸板打抜て遥に見えたる郎従一人、頭をすと打抜れ犬居にどうと伏たり、羽尾此様を見て大将は討れ郎従の樋口は身方なれば子細は無きぞ者共とて弓鉄砲も袋に納め、弁当を取出させ酒盛せんと悦ける処に、鎌原は無恙ければ一度にどつと押寄ければ案に相違して見えける所に草津の谷より湯本善太夫、浦野義見齋、鎌原に合力せんとヽヽヽ石津の邊より寄来りけり。善太夫が嫡子湯本三郎右衛門と云者は其頃羽尾入道に属しけるが日頃羽尾に恨深ければ心変りして鎌原と一所に成り、羽尾入道不叶して只一騎、川に付て漸く平川戸にぞ落行たりけり。高井野の加勢はほうゝゝの体にて野暮山くれ知ぬ山地を迷ひ出で日数七日十日にて古郷にぞ逃帰けり。此由甲府え注進せられければ齋藤も謙信に属する由なれば小勢にては難叶、加勢を可被差加、兵糧は小縣より可給とて祢津、芦田、甘利衆番也、鎌原、長野原二ヶ所の用害にぞ被籠置けり。兵粮は幸隆公より催合を取て続け賄はれけり、其時幸隆公へ御證文有り、其文に曰、
鎌原宮内少輔俵物一月廿五駄ノ分、無相違可勘慮者也、仍如件
永禄六年癸亥五月三日 信玄(龍の御朱印)
如此御評定有て、鎌原宮内、同筑前、西窪佐渡守、湯本善太夫、齋藤入道と挑合てぞ居りけり。其頃横谷は齋藤が味方也けり。