女坂にて海野父子を弔う…。
この章が巻之三ラストです。クッソ長かった前章のエピローグですね。
ちなみに加沢平次左衛門の草稿は「海野兄弟を迦葉とむらい玉ふ事附迦葉山草創の事」になっており後のほうに迦葉山のウンチクが入ってます。(ここでは紹介しないので沼田の図書館で読んでみよう!)
――海野父子(能登守輝幸と中務大輔幸貞)が“自分たちに罪はない”ことを昌幸に訴えるため、迦葉山を目指したが……女坂に散った…――(原文:海野父子迦葉山へ引退き、罪なき旨昌幸公へ御詫申さん、と打出て、女坂にて討死せし)
…この話を聞いた迦葉山住持は…
迦葉山住持「…そうか…そのようなことが……せめて私がその場所に赴き、彼らを弔おうではないか…」
…と、11月23日に末寺の大徳寺、観音寺、鳳西寺、他宗の龍淵寺、天正寺の僧を伴って、女坂の墓所にて懺法を修し、卒都婆を立てて帰ったということです…。
…この章の最後に、
増田頼興「オレの叔父である増田鞏の写本に絵が付いてたからココに描き写しておくぜ!…海野父子の墓は二基とも石宮で岡谷村と女坂の間の西の方の畑ン中にある……里のやつは『十二の森』って呼んでるぜ!」
…という旨の記述と、海野父子の墓のスケッチが描かれています。(画像は写本だからマゴ模写ですけどね。)
――『加沢記』巻之三 終――
海野父子迦葉山へ引退き罪なき旨、昌幸公へ御詫申さんと打出て、女坂にて討死せしと聞て、十一月二十三日迦葉山住持、末寺大徳寺観音寺鳳西寺、他宗には龍淵寺天正寺の僧を伴ひ、女坂の墓所に至て懺法を修し、卒都婆を立てゝ帰りけり。