安房守。
雲谷寺にて沼田奪取のための取っ掛かりをつかんだ。
安房守。
越後衆が去った後の沼田をゲットした。
三郎景虎に勝って謙信の跡目を継いだ。
しょうがねえから武田とも仲良くしておくか~。
沼田のみんな北条なんかに付くのやめてオレんトコ来ないか。
しょうがねえから上杉とも仲良くしておくか~。
北条氏政を感動させた仁義の人。
巻之二の最後を飾る。
ようやく2巻の最後の章まできました……ちなみにこの辺から真田の沼田支配における最大の宿敵である北条さんが頻繁に出てきます。
天正3(1575)年のこと、真田家ヘ「東上州のことは頼んだで」という命令が下されました…。
昌幸「(――キタ━(゚∀゚)━!――)……よしッ!…さっそく吾妻へ出張(デバ)ッて海野兄弟と打合せだー…」
海野兄弟と相談した昌幸は、利根郡高平村(今の沼田市白沢町高平)の保鷹山雲谷禅寺に潜伏し、沼田に目付を送りこみます…!
昌幸「おい…(目付に)、沼田はどんな感じだったよ?」
目付「…なんか沼田家の中で内乱があって~?…城主が不在になった後、上杉が城代を派遣したみたいですが…上手くいってないみたいですね~…あ、それと奉行に“金子美濃守”ってのがいるんですが……内通するのにヤツならチョロイかと…」
昌幸「(ニヤリ)」
…んな感じで真田が沼田奪取計画を企てていたところ、天正6(1578)年3月13日、謙信入道が逝去します。
謙信は甥の長尾喜平次景勝と、関東から招いた北條氏政の弟の三郎――後に“景虎”と名付ける――の両人を養子としていました…。
…が!
謙信は後継をちゃんと決めず…風のように逝去してしまったので…
…景勝と景虎の相続争いから、春日山の本丸と二の丸(三の丸?)との間で合戦が始まってしまいました…!
いわゆる「御館の乱」ですね。
この事件は三郎景虎の家臣である遠山左衛門と山中民部右衛門により小田原に報告されました!
…これを受けた北条氏政は…
氏政「…ンだとォ!…弟のピンチを放っておくワケにはいかねーぜッ!…氏邦ッ!…行けッ!…景勝をブッ〇せッ!!」(原文:景勝退治有ん)
ちなみに景虎の家臣として記述されている“遠山左衛門”は名奉行として有名な“遠山の金さん”とは無関係であることは言うまでもない…たぶん…
こうして氏政は、舎弟である美濃守氏明(氏照の事?)と氏邦を大将にして、先陣として松田尾張守、これに従う千葉、中山、宇都宮、由良、本庄、高山、倉賀野、太田、???、川村、小幡、長尾、大胡、石野、佐野、清水太郎左衛門、塀賀伯耆守の都合30,000余騎――!?――を送りこみました…!
…が!…
先陣の氏邦が沼田に着き、後陣が武州川越で応戦していたころ…
氏邦「…なにィ!?……三郎(景虎)が……死んだ!?…」
景虎自害の知らせを聞いた軍勢は――彼らがどんな思いだったのかは計り知れませんが――小田原へ引き返していきました…。
…いっぽう沼田に配置されていた越後衆は…
越後衆A「…おい…南方から小田原のヤツらが出張(デバ)ってくるっつーで…」(原文:南方出張の聞え有ける)
越後衆B「…マジで?……ヨソんち(沼田)のために命は張れねーよな…」
…とみんなで越後へ退去していきました…。
こうして沼田城に入った北条氏邦により、本城には猪股能登守邦憲が、二ノ丸には渡辺左近進が、北条曲輪には藤田能登守が置かれました…。
この藤田はもともと謙信により沼田城代として配置されていた(※)のですが…
(※加沢記にはそう書いてある)
氏邦「藤田ァ!…おめえ…越後衆がみんな帰っちまったのに踏みとどまるたぁイイ根性してるじゃねぇか!……今後はオレのために沼田を守れ…な!(…あ…オレも“藤田”か――σ)>ω<*)テヘ)――」(原文:越後衆皆々退去の節踏留りたる心指を感じ…)
藤田「ハイッ!」
――!?――
…加沢記だとこういう話ですね。
三ノ丸には地元の侍である金子美濃守が置かれました…。
このほかに高田、高山、竹内、山室、栃原、白倉、小野、長沼…彼らは足軽大将として配置され、小田原勢200余騎が付けられました…。
さらに沼田地衆のうち北条に降参した180余騎…雑兵を合わせると2,000余人が倉内に籠もることになりました。
また、塀賀伯耆守盛助は関八州の奉行としてたびたび沼田へ来ましたが、馬飼料にと森下と沼須の郷を支配したということです。
その頃、猪股と塀賀は戸鹿野八幡宮へ神領を寄進しました。その時の証文が…
―――――
神領之事
八貫文 春中寄進
拾貫文 此度改而寄進申処荻野対馬守分
右地令寄進候間当座当城堅固相抱子々孫々繁栄之祈念頼入者也、仍如件
寅五月廿日 邦憲 在判
八幡宮 栂野別当坊
神領之事
壱貫五百文 沼巣之内
右之地寄進申候間武運長久子々孫々繁栄之祈念頼入侯、以上
盛助 在判
別当坊参る
―――――
内容は…
猪俣「栂野(戸鹿野)の八幡宮にオレの8貫文と荻野対馬守の分の10貫文を寄進するぜ~…沼田の城が堅固に守れて、子々孫々まで繁栄するよう祈念してくれよ…頼むで~」
塀賀「オレも1貫500文を沼巣(沼須)から寄進するよ…オレは武運長久と…子々孫々までの繁栄の祈念を頼むよ」
―――――
こんな感じで猪俣邦憲は沼田守護代になったので、所々立願をしたということです…。
金子泰清もこの人も信心深いんですよねー…
ちなみに戸鹿野八幡宮の話は終盤でも出てきますが…あるイミ名胡桃城と同じくらい歴史を動かしてますね…。
ところで、沼田にいた川田伯耆守は病気して奉公が叶わなくなってしまい、由良を頼って新田郡へ蟄居しました…。
そん時に家臣の中村新太郎が新田まで付いていきましたが、後に帰ってきて真田家に属しました…。彼は中村何右衛門の祖父です。
――川田伯耆守は沼田に8年いた――と、中村何右衛門が語っていました…。
(……ん?)
なんか前の章でも同じような話聞いたな~…家臣とか孫の名前が若干違うけど……前の方が合ってんじゃね?
…と、豊国覚堂(上毛郷土史研究会主幹)さんもおっしゃています。(原文:覚堂曰、此一段の記事前にも出で玆には重複したれど名前の異同所在年数等、寧ろ前を可と思はる)
さて上杉家では…
景勝「…三郎景虎に勝ったんはイイけどな~……武田と北条の両家を敵に廻すと思うと気が重いぜ~…姉ちゃん(景虎のヨメ)も死んじゃったしよぉ…なんとか作戦を考えねぇとな…」(原文:武田、北条両家敵也ければ計を廻さん)
…と、北条丹後、直江山城、長尾伊賀、栗林肥前、庄田主馬と相談します。
会議の結果…
景勝「しゃあねえ…甲府と和談するしかねぇな…」
…と、武田方の長坂長閑、跡部大炊介に
景勝「…長坂く~ん❤…に、跡部く~ん❤…お願いなんだけどさ~……勝頼に『1万両やるよ!…あと上州でも暴れねーから仲良くしよーぜ❤』って伝えてくんね?…アンタらにも千両やるからさ~」(原文:甲府へ和談せん……貴老殿に頼入候旨被仰遣、勝頼に壱萬両被進、上州口働申間鋪候何とぞ御取置被下候様)
…と相談します。
長坂と跡部が勝頼へこのことを伝えた結果、武田家は小田原の縁者を捨てて上杉景勝と同盟を結ぶこととなりました…。
ちなみにこの後「北条殿へも五千両被進けると也」って書いてあるけど??
『きたじょう』のこと?
よくわからん…
その頃、沼田衆のなかで北条家を背いて甲府へ忠信する意思を示した侍に対しては、残らず大炊介が仲介して、勝頼からの証文が与えられました。
その証文はだいたいこんな感じです。
―――――
定
以忠節在所退出之由に候間、沼田御本意之上於彼庄之内八拾貫文之所可被下置侯、猶依忠信可有御重恩之旨被仰出者也、仍如件
跡部大炊助奉之
天正六年戊寅五月廿三日 朱印
―――――
内容…
「オメーら…在所を退出してまでウチに味方してくれてアリガトな……オレが沼田を手に入れたときにはよぉ、庄内で80貫文やるから楽しみにしといてな!…これからもヨロシク。悪いようにはしねーからよ。」
―――――
天正6年5月23日には原沢大蔵へも朱印が与えられました。
―――――
原沢惣兵衛殿
定
一、五拾貫文 山口孫右衛門
一、弐拾貫文 沢浦隼人
一、三拾貫文 原沢弥三郎
右以忠節在所退出候由侯条、沼田御本意之上如此可ヒ下置候由被仰遣者也、仍如件
跡部大炊介奉之
〃
―――――
内容…
「おう原沢!…オメーら今回はウチに味方してくれるみてーでアリガトな!…オレが沼田を手に入れたら50貫文を山口に、20貫文を沢浦に、30貫文を原沢にやるからな!」
―――――
翌24日には山口孫左衛門を式部丞にして朱印が与えられています。
………
さて、小田原による沼田への采配はまだ続いていました。
氏政「…おい(部下に)、沼田の衆の心を掴むにあたってよ~…なんかグッとくるエピソードねーのかよ」
部下「そっスね~…例えば利根郡石倉村に石倉三河守っつーヤツがいるんですが…」
氏政「石倉三河…?」
部下「ええ、彼は前まで上杉管領の幕下で群馬郡石倉の城主だったんですが……ちょっと色々あったみたいで……在所を没収されて利根郡の秋山兵部を頼って、今泉の郷に蟄居したらしんですがね…」
氏政「ふ~ん…で、ソイツがどうしたの?」
部下「それを説明すンのに、いったん上杉憲政公の話をさせていただきますが…
…憲政公が浪人した時、沼田弥七郎殿を頼って前橋から沼田に来て、高平の雲谷寺にいたそうですが、歓迎されなかったみたいで」
氏政「ま…まぁソリャ厄介者だからな…ムリもねーよな(ウチにも責任あるけど)」
部下「…で、それを見かねた川田の地頭の山名信濃守義季ってのが憲政公を引き取って、笹尾の郷の高瀬戸ってトコの要害に匿ってしばらくそこで接待したそうで…
…で、そん時にみんなが憲政公のことを“屋形様”って呼んでたモンだから、高瀬戸麓の辺を『屋形原』と名付けるようになったとか――まあ余談ですがね――
…その後、何があったか知らないけど憲政公はココにも居づらくなったみたいで…」
氏政「ほうほう…」
部下「…と、ココでようやく石倉が出てくるわけですが……あの石倉三河が憲政公を迎えに来て、自分の館に引き取って色々と面倒みてやったんだとか……その後憲政公は吾妻の四万木ノ根通を抜けて越後へ退去したみてーですがね。」
氏政「へェ~…その石倉ってヤツ…かつての主君がマジ困ってるときに恩返ししたってワケね……ソイツぁエライな…!……感動したぜ~!」
こうして北条氏政は、石倉三河に知行を与えた上に、守護不入の特権まで認めました。
北条氏政は石倉の村に制札を立て、その裏付けの証文も与えました…。
―――――
禁制
右於当郷仮初之狼藉も堅令停止畢、若違犯之輩有之者不恐権門則為郷中搦捕可申上候、並郷中へ申付儀虎の印形無之ば一切不可致許容、仍後日之定如件
天正六年戊寅八月廿三日 虎朱印
塀賀伯耆守 奉之
―――――
内容…
「この郷ではちょっとした“オイタ”も許さないから看板立てとくよ!…もしチョーシこいたヤカラがいたら何者であろうとフン捕まえてブッ〇すって意味だゾ❤……あとこの郷じゃあオレん家の虎の印形のハンコを突いた文書での命令しか通用しないから…ソコんとこヨロシクね。」
―――――
こうして、その「仁義の道」が天の道に相叶った石倉は安堵して、一門はことごとく繁昌したそうな。めでたしめでたし。
――『加沢記』巻之二 終――
天正三年真田家ヘ下知有て東上州の守護にと被仰渡ければ昌幸不斜悦び吾妻へ出張海野兄弟等評定有て利根郡高平村保鷹山雲谷禅寺に宿して目付を被遣、沼田の儀一々御尋有て沼田先方侍金子美濃守を語らゐ内通有て沼田筋御発向也。掛りける処に天正六戊寅年三月十三口謙信入道逝去有ければ、甥の長尾喜平次景勝と北條氏政の末男三郎と申を関東より呼越参らせ景虎と名付両人ながら養子と約束有けれども、譲なく風と逝去成ければ本丸二の丸間にて合戦有り、此由三郎景虎の臣遠山左衛門、山中民部右衛門、小田原に告ければ氏政聞給て景勝退治有んとて舎弟美濃守氏明、氏邦大将にて先陣松田尾張守相隨人々には千葉、中山、宇都宮、由良、本庄、高山、倉賀野、太田□□□川村、小幡、長尾、大胡、石野、佐野、清水太郎左衛門、塀賀伯耆守都合三万余騎、先陣氏邦沼田に着ければ後陣は武州川越にさゝえたり、三郎景虎生涯の由告来りければ如何思召けるか、皆々小田原へ引返れける、沼田に被差置ける越後衆南方出張の聞え有ける、前方、皆々越後へ退去也ければ其節沼田の城には猪股能登守邦憲を本城、二ノ丸に渡辺左近進、北条曲輪に藤田能登守、此藤田は謙信より沼田に被籠けるが、越後衆皆々退去の節踏留りたる心指を感じ氏邦沼田に被差置ける也、三ノ丸に先方侍金子美濃守被置ける、此附勢高田、高山、竹内、山室、栃原、白倉、小野、長沼此人々には足軽大将にて都合小田原勢弐百余騎沼田地衆降参の人々百八拾余騎雑兵共に弐千余人倉内に楯籠る、塀賀伯耆守盛助は関八州の奉行たるにより、沼田仕置として折々沼田へ被参けるが、馬飼料にとて森下、沼須の郷領知せられけると也、其頃猪股、塀賀戸鹿野八幡宮へ神領被寄進ける、
神領之事
八貫文 春中寄進
拾貫文 此度改而寄進申処荻野対馬守分
右地令寄進候間当座当城堅固相抱子々孫々繁栄之祈念頼入者也、仍如件
寅五月廿日 邦憲 在判
八幡宮 栂野別当坊
神領之事
壱貫五百文 沼巣之内
右之地寄進申候間武運長久子々孫々繁栄之祈念頼入侯、以上
盛助 在判
別当坊参る
邦憲沼田守護代に被居けるに依て所々立願し給ける、かくて川田伯耆守も其節迄も沼田に被居けるが、大病故奉公不叶して由良殿を頼て新田郡へ蟄居し給ける、川田の家臣中村新太郎新田迄附隨けるが新田より立帰り真田家に属したり、中村何右衛門祖父也、川田殿沼田に八年被居けると中村何右衛門物語也けり、景勝は武田、北条両家敵也ければ計を廻さんとて北条丹後、直江山城、長尾伊賀、栗林肥前、庄田主馬評定有て甲府へ和談せんとて長坂長閑、跡部大炊介に金子千両宛贈り、貴老殿に頼入候旨被仰遣、勝頼に壱萬両被進、上州口働申間鋪候何とぞ御取置被下候様にと御頼有ける、長坂、跡部様々勝頼へ申成しけるに依て小田原の縁者を捨て景勝と一味被成ける、北条殿へも五千両被進けると也、其頃沼田は北条家を背き甲府へ忠信の侍悉く大炊介取持にて証文被下ける、輙有増記之、
定
以忠節在所退出之由に候間、沼田御本意之上於彼庄之内八拾貫文之所可被下置侯、猶依忠信可有御重恩之旨被仰出者也、仍如件
跡部大炊助奉之
天正六年戊寅五月廿三日 朱印
同日原沢大蔵へも朱印被下 原沢惣兵衛殿
定
一、五拾貫文 山口孫右衛門
一、弐拾貫文 沢浦隼人
一、三拾貫文 原沢弥三郎
右以忠節在所退出候由侯条、沼田御本意之上如此可ヒ下置候由被仰遣者也、仍如件
跡部大炊介奉之
〃
翌廿四日に山口孫左衛門を式部丞にヒ成候朱印ヒ下ける、
猶も小田原より沼田御仕置有り、利根郡石倉村に石倉三河守と云者有、渠は先年上杉管領之幕下群馬郡石倉之城主也けるが、聊の子細有りて在所を被没収利根郡秋山兵部にたより今泉の郷に蟄居たりけるが、一とせ憲政公御浪人有りし時沼田弥七郎殿を頼給て前橋より沼田へ御越有りける、其頃高平雲谷寺に御座有つるが沼田殿さして御取持なくして川田の地頭山名信濃守義季以義在所へ引取奉り笹尾の郷高瀬戸と云所の用害に奉移暫く馳走し泰りけり、其時屋形様と申けるに依り高瀬戸麓を屋形原と名付たり、憲政公此処にも座しがたく彼石倉御迎に参我館に引取奉り様々の御いたわり申上たりけり、其後吾妻四万木ノ根通越後へ退去也ければ、後に石倉志の程北条氏政被聞召彼所に知行賜り其上守護不入と被仰下と也、其頃彼村に制札を被下ける、
禁制
右於当郷仮初之狼藉も堅令停止畢、若違犯之輩有之者不恐権門則為郷中搦捕可申上候、並郷中へ申付儀虎の印形無之ば一切不可致許容、仍後日之定如件
天正六年戊寅八月廿三日 虎朱印
塀賀伯耆守 奉之
証文賜りける、誠に仁義の道天道に相叶故石倉安堵して一門悉繁昌す。