自らをオトリにした作戦で多くの北条兵をドボン💀させる。
川ってコワイ…。
章のタイトルにもなったりとすごくカッコ良く書かれている。
彼の子孫は加沢平次左衛門の同僚だが…。
川ってコワイ…。
白井の長尾一井齋と連携して名胡桃・小川攻めを企むが…。
川ってコワイ…。
戦いの後、家臣の子ども時代を思い出してニヤつくアブナイおっさん。
便所で内緒バナシするのがスキ。
今度の章は小川可遊齋の活躍がメインのお話ですね~
…どこぞから流れてきて、まんまと名門沼田氏の一族である小川家の名跡に成り上がった男が、北条の大軍を相手にどう戦うのか?
楽しみですね~
天正8(1580)年3月、南方(小田原)の北条氏邦は…
氏邦「クソ~…小川と名胡桃が武田方にガッツリ固められてるのが気に入らね~!…明徳寺も奪られたしよォ~…すぐにでも攻め落とすっきゃねー!」(原文:小川、名胡桃の両城堅固に指置候段奇怪……不日に可責落)
…と、3,000余騎で小川城を攻撃しました!
可遊齋「フッ…!…来たか北条…」
小川可遊齋は勇兵をすぐり、200余人を菩提木の台に伏せて置きました…。
そして、自身は50余人ばかりを引き連れ、竹下に出向き、少しの間適当に戦いました…。
北条兵A「見ろアレを!!…小川の大将のお出ましだぜ~!」
北条兵B「へっへへ…この人数を相手に、アレっぽっちの人数で出てきやがって~……ヤツをブッ〇せば氏邦さまから褒美がたんまりと…エへへ~❤(ジュルジュル)」(原文:我先に可遊齋を討捕り恩賞に可預)
…と、こんな具合に、可遊齋の首が欲しくてたまらない北条の兵たちは「オレが先だ!」「いやオレだ!」と走り廻って揉み合いながら竹下に押し寄せました…!(原文:馳廻揉にもんで押寄たり)
可遊齋「…フッ…」
――クルッ――
可遊齋は貝を吹き居城のほうへ逃げ出しました…!
北条兵A「あッ?…あのヤロウ逃げよるぜーッ!」
北条兵B「へッへ~…逃がさないよー❤」
北条軍は優勢に乗じて可遊齋の居城まで押しかけました…。
可遊齋「(…ククク…)」
可遊齋は敵を十分に引き付けたところで…
可遊齋「今だッ!」(原文:時分能)
…と采配を振るいます…!
すると、あらかじめ用意していた伏勢――杉木、青柳、石坂、後閑、広田たち――が、そこかしこから現れ、声を上げながら北条軍を襲います…!
北条軍「!?」
可遊齋も取って返して北条勢を襲います…。
家臣の北能登守も…
北能登守「フフッ…大将の作戦通りだな…」
…と、名胡桃からの加勢を指揮し、小袖林から100余人を二手に分けて北条勢を追いかけます…!
北条軍「!?…ぬあ?…うわああ!!」
――ドドドドド――
北条軍「お…落ち着けッ!!……ココは難所でヤツらにとって有利……河原だッ!…広い河原で戦えば…人数で勝るオレたちが負けるわけがねえぜッ!!」(原文:爰は難所也川原へ引出して可戦)
…と、北条の先手1,000余人は我れ先にと河原へ引いていきました…。
…がッ……!!
北条軍が渡ろうとした橋は狭く…また時期的に川には水が多く、歩いて渡ることなど不可能だったのです……。
北条兵A「…お、おいバカ…こんなに一度に橋を渡ったら…」
北条兵B「…コラ…押すなって…!?……あ……」
――ドボォーンッ!!――
北条兵A「…がぼぼォオ?!…」
北条兵B「…ブクブク…💀💀…」
…と、このように大半が橋から揉み落とされて溺死してしまいました…。
さて、北条勢のなかで、この戦いの様子を見ていた1人の男――塚本仁兵衛――は…
塚本「…ぬう!…この大軍をこうも簡単にあしらうとは…!……小川可遊齋…なかなかやりおるわ…」
塚本仁兵衛は前の章で名胡桃城主の鈴木主水を追いかけて行って高橋右衛門の嫡子を討ちとった男ですね。(ちなみにセリフは妄想です。)
塚本仁兵衛は月夜野の台に登り上がり、溺れていた者を数人助けると…
塚本「しっかりせい…!…今度はあちらから攻めてくるぞ…撤退戦だッ!」
…と、襲い来る可遊齋の軍を藤田と共に殿(しんがり)して防ぎます…!
こうして北条軍は倉内に撤退することができました…。
氏邦「塚本…アイツのおかげで多くの兵の命が救われた…まさに三千騎にも勝れた武者ぶり…言葉で言い表せないツワモノとはヤツのことだぜ…」(原文:三千余騎に勝れたる武者振、言語同断の兵也)
※ココの「言語道断」はイイ意味で使われてますね。)
塚本は氏邦から加増を受け「舎人助」と号しました…。
ちなみにこの塚本の子孫が、後の真田支配下の沼田藩において、両国橋の用材請負任務遅延の責任を取らされるワケですね…ブラック企業コワイ…ってそれはまた別の話…。
このとき氏邦が塚本に書いた手紙…
―――――
知行 北条右近分小中請職之地
拾貫文 薄根之内
以上
右之地出し置候、小川静謐之上、可加恩候間、昼夜共二抽粉骨可走廻候、若無詮打死仕候者、重類迄可為××候、如何様相移小川可取詰者也、仍如件
辰四月十二日
氏邦判
塚本舎人助殿
―――――
内容…
「塚本~…こないだの名胡桃での活躍といい…オメーはマジすげえヤツだな~!
…褒美に薄根から10貫文やるけどさぁ、小川の野郎をブッ〇した日にゃあ、もっと増やしてやるからなッ!
…これからも“粉骨”の意気で活躍してくれよ~!!
…あ…もしホントに“粉骨”して死んじゃった場合はさ(笑)、そん時はオメーの親類一同オレが面倒みてやるから安心しろよな…!
…まぁ何とかして小川の野郎をひでー目に遭わせてやろうぜ!…んなワケで頼んだで~!!」
―――――
さて、小川可遊齋の策略でボロ負けしてしまった北条氏邦は…
氏邦「…クソ~…なんとかして可遊齋と昌幸のヤツらをブッ〇さねーとな…」(原文:可遊齋並昌幸退治有ん)
…と、白井の長尾一井齋と打合せを行います…!
氏邦「よー長尾のオッサン…オレ今度こそ名胡桃をゲットしてーんだわ…手ェ貸してくれや!…アンタは白井から…オレは沼田から…両方向から名胡桃と小川を攻めようぜ~!」(原文:白井、沼田両手に出て可責)
長尾「おーよ!…オレも武田のヤツらにはアワ吹かして―と思ってたとこだぜ!」
氏邦「そんじゃあ今月の25日に決行だッ!!…頼んだぜェ~…長尾のオッサン~ッ!!」
長尾「よしッ!…任せときなッ……オレとオメーが組めば名胡桃も小川もイチコロだぜッ!!」
――そしてッ!…決行前夜の24日ッ…!――
――ザァアアー(大雨の音)――
長尾「………」
………
長尾「…牧ィ~…すげえ雨だなー…」
牧「…すごい雨ですね~……一井齋さま…」
長尾「………」
――ズズズ…ザブーン(解けた雪が川に流れ込む音)――
長尾「…雪解けか~…この雨で一気に進むな~…」
牧「…そうですね~…もう春ですね~…」
長尾「………」
――ドドドドォオ…(川の音)――
長尾「…おー見ろよ牧…川の水量スゲェな~!」
牧「…みなぎってますね~…」
長尾「………」
………
長尾「…あの~…これじゃあ…明日の氏邦との連携作戦は……」
牧「(…無理に決まってんだろ…!)」
いっぽう、沼田の北条勢は…
氏邦「…うわ~ッ…なんじゃこの水量は~ッ!?…雪解け時期の山間部ナメてたぜ~ッ!!…これじゃあ薄根川も利根川も渡りようがねえッ!!…白井の長尾と連絡も取れねーぜ~!!」
…さて、子持峠の辺で名胡桃と小川の両城を見守っていた真田昌幸は…
昌幸「…フンッ!…長尾のヤツら……中山に出張(デバ)ってくるつもりだろーな…」(原文:長尾中山出張すべし)
………
昌幸「川がこんな状況じゃあ沼田勢(北条)は動けねーだろうから…アッチ方面はまぁ心配ねーだろ……ココは白井の長尾どもを逆にコッチから攻めてビビらしてやるかぁ?!……“出ッ発(デッパツ)”だッ!」(原文:沼田勢は心易し……逆寄にせん)
こうして昌幸は、可遊齋と北能登守ら300余騎を先手とし、殿には海野能登守、脇備の左には鎌原、右には植栗、前備には出浦上総之介、中山安芸守、尻高左馬之助、高梨豊後守、馬廻りには海野中務、春原左衛門、川原左京、丸山土佐、矢野ナンチャラ、大熊靭負、白倉武兵衛、深井三弥、木村戸右衛門、富沢豊前…総勢1,000余騎で白井勢討伐に向かいます…!
そして(ココが昌幸の恐ろしいところですが)万が一、沼田の北条勢が渡河を強行した場合に備えて、かじか瀬、滝合の押に湯本左京、唐沢玄蕃、塩原源太左衛門、原沢大蔵、沢浦隼人、山口式部、小池右馬之助たちを配置しました…。
(昌幸心中原文:荒川を渡り参ん事もあらん)
名胡桃の城には鈴木が在城し、山名小四郎、発知図書、同左衛門らを大将とした200余人が薄ツ根の原に着陣して敵の襲来を待ち受けていました…。
さて、白井からは長尾左衛門尉定景が選りすぐりの手勢1,500余騎を率いて出陣し、先陣の吉里、矢野、神谷(…数名読めない)牧和泉、飯塚内記たちが中山安芸守の館に押し寄せて放火し、権現山に陣取りました…!
昌幸「…ククク…テメーら…そう来るコトはわかっていたぜ~ッ!」
白井勢「!?」
昌幸は雨乞山に打ち登り、白井勢を散々に討ち崩します…!
長尾「…クソ~…氏邦とウマイこと連携が取れてさえいれば……いや…悔しいけど真田のヤツのほうが一枚上手だったっつーことか…」
こうして長尾一井齋の軍は和田の坂の辺まで退却していきました…。
昌幸「フン…北条の渡河強行なんぞ心配するまでもなかったな……おッ!…渡右衛門~ッ!…オメーも今回は大活躍だったな!」
…と、ココでまた『加沢記』名物の回想シーンが挿入されます。今回は木村渡右衛門尉行賢のエピソードですね。
昌幸「(…アレは永禄6(1563)年のことだから…もう17年も前か~…まだ信玄さまの時代…確か駿河で合戦したときだったな~…)」
………
昌幸「…あれ?…半左衛門…なんだそのガキは?」
矢野「…ハァ…それがですね~💧…」
…この戦闘で矢野半左衛門尉は1人の子ども――当時7歳の木村渡右衛門尉――を生け捕りにしたのでした…。
矢野「このガキをフン捕まえた…もとい…保護した…のはいいんですが…扱いに困って…まさかブッ〇すワケにもいかんでしょう💧…」(原文:只今にあらず)
昌幸「…おい小僧…オメー父親の名は言えるか…?」
渡右衛門「…“木村”…」
矢野「どうもコイツ…自分の父親が討死したんじゃないか…ってんで、昼の戦場跡を見にノコノコやってきたみたいなんですよ~…」(原文※伝聞だけど:我父も打死し給ふらん昼の軍場へ参見度)
昌幸「…そ~か~…まぁ、その気持ちはわかるな……半左~…オメー一緒に探しに行ってやれよ」
…というワケで、矢野半左衛門は渡右衛門を家来に肩車させて、戦場跡へと向かいました…。
矢野「…うう~…オレが言うのもなんだが…やはり合戦の跡地はムゴイぜ……どうだ小僧…親父は見つかりそうか?」
渡右衛門「…この死体は△△さん……あの死体は◇◇さん……あれは……もう誰だかわからないや……」(原文:是は誰殿渠は何がし殿見覚へもなし)
矢野「………なぁ…もう帰ろうぜ…」
渡右衛門「(…コクッ…しくしく…)」
………
昌幸「…おッ!…どうだ小僧!…親父は見つかったか?」
渡右衛門「(………)」
昌幸「…そうか……」
渡右衛門「…おじちゃんたち…親切にしてくれてアリガトウ…これで気が済んだよ……じゃあね…」
昌幸「…(,,• •,,)キュン♡…」
………
昌幸「…おい小僧ッ!」
渡右衛門「?」
昌幸「…あのさ~…もし行くあてがないんだったらよ~…その…オレんトコに来てもいいんだぜ…!」
渡右衛門「…え?…ボクなんかが…イイの?」
昌幸「(*`Λ´*)」べ…べつにオメーのためじゃなーからな…たまたま小姓が足らねーんだよッ!…」(原文:不便也)
…こうして昌幸は木村渡右衛門を禿(小姓)として召し抱えました…。
――💭💭💭💭💭――
昌幸「…懐かしいなー…アレはまだヤツが7歳の頃だったっけ……そういえばヤツが14歳の時にも思い出深い事件があったな~」
――💭💭💭💭💭――
――それは昌幸がある侍を始末するために白倉武兵衛たちを閑所(静かな場所…便所?)に呼び出したときのこと――
昌幸「…武兵衛よ~……アイツ(標的の侍)やらかしちまいやがって…始末せざるを得ないんだわ…嫌な仕事だけどよ~…やってくれるか?」(原文:罪有侍を可被為討)
この時上意討ちを命じられたのは白倉武兵衛“両人”とありますから、確実に始末するためには2人がかり…標的の侍も腕の立つ相手だったことがわかりますね…。
白倉「…上意討ちですか…仕方ありませんな…」
…と、この時…昌幸と白倉たちとの会話を聞いていた者がいました……刀持ちの小姓として昌幸のそばにいた木村渡右衛門です…!
渡右衛門「……!!」
昌幸の意志を知った渡右衛門は……
なんと!…白倉たち2人に先立って単身で標的の侍を討ち取ってしまいました…!!…渡右衛門はこの時14歳です…。
このことを知った昌幸は…
昌幸「…渡右衛門ッ!…このバカ野郎がッ!!…勝手なマネしてんじゃあねえッ!!」
昌幸は罰として渡右衛門を100日間の禁錮にしました…。
白倉「…昌幸さま…あのガキをどうするつもりですか?…まさか……」
昌幸「フン!…安心しな…“シメシ”をつけるために押し込めただけで…これ以上の罰を与えるつもりはねーぜ……それによ…
………
…アイツ…オレのことを想って行動してくれたんだぜ~……オレがマジで怒ってるワケねーだろ…(。-_-。)ポッ」(原文:猛勇かんばしく)
白倉「(…ニコッ)」
…こうして木村渡右衛門は昌幸の近臣として召し抱えられました…。
――💭💭💭💭💭――
――あれから10年後…今回の長尾入道との戦いでは…――
昌幸「…おう!…渡右衛門!…今回は権現峠で敵を1人討ったうえに、梅沢でも真壁成重と神庭三河入道を相手に大活躍だったらしいな!」
渡右衛門「…ありがとうございます!」
昌幸「まさに一千余騎にも勝れた大手柄だぜ~!…褒美に百貫文の領地をやるからな…ところで渡右衛門…いくつになったんだっけ?」
渡右衛門「24です…」
昌幸「(…あの小僧が…(๑o̴̶̷̥᷅﹏o̴̶̷̥᷅๑)ウルウル)」
木村渡右衛門はその後「土佐守」と名乗るようになりました。
…ところで真田昌幸は部下に大切な話をするときはだいたい閑所(静かな所…便所?)で伝えたんだとか…。(ホンマか?)
…さて、木村渡右衛門のエピソードが入ったことによりだいぶ話が逸れましたが…
…この戦いに敗北した長尾は白井へと退却し、氏邦も鉢形へと帰陣していきました…。
天正八年三月南方より小川、名胡桃の両城堅固に指置候段奇怪に被思召不日に可責落とて三千余騎を率し小川の城に取掛たり、小川可遊齋勇兵を勝り弐百余人菩提木の台に伏置其身は五拾余人引率竹下に出向て少々あしらいければ、敵多勢に自惚して備も不定我先に可遊齋を討捕り恩賞に可預とて馳廻揉にもんで押寄たり、可遊齋兼て智略の事也ければ貝吹て逃ければ勝に乗て居城の辺迄押掛ければ、時分能と采配を振て下知せられければ、杉木、青柳、石坂、後閑、広田伏勢爰かしこより切て出、をめきさけんで押懸ければ可遊齋も取て返し北能登守は名胡桃の加勢の様にもてなし小袖林より百余人を弐手に分て追懸ければ、南方勢爰は難所也川原へ引出して可戦と云程こそあれ、先手壱千余人我先にと引けるほどに橋は狭し水は出て瀬越ならざりける折節也ければ、大半橋より揉落されて流死しける、爰に塚本仁兵衛壱人月夜野の台に取上り溺死の者少し助、可遊齋押懸来るを踏留て藤田と一所に殿して引返しければ三千余騎に勝れたる武者振言語同断の兵也ければ、氏邦より加増賜り官途して舎人助と号する、
知行 北条右近分小中請職之地
拾貫文 薄根之内
以上
右之地出し置候、小川静謐之上、可加恩候間、昼夜共二抽粉骨可走廻候、若無詮打死仕候者、重類迄可為□□候、如何様相移小川可取詰者也、仍如件
辰四月十二日
氏邦判
塚本舎人助殿
かくて北条氏邦は可遊齋並昌幸退治有んとて長尾一井齋へ評定有て白井、沼田両手に出て可責とて同月廿五日と約諾有けるに、廿四日夜半に大雨降雪水おしはらいに出て水漲落、薄根川、利根川可渡様なければ白井へ内通も不叶、子持峠の辺名胡桃、小川の両城を守て居給ければ、昌幸公は長尾中山出張すべし沼田勢は心易しとて逆寄にせんとて可遊齋、北能登守を先手として三百余騎殿は海野能登守、脇備左は鎌原右は植栗、前備は出浦上総之介、中山安芸守、尻高左馬之助、高梨豊後守、馬廻りは海野中務、春原左衛門、川原左京、丸山土佐、矢野□□□、大熊靭負、白倉武兵衛、深井三弥、木村戸右衛門、富沢豊前相随人々壱千余騎、荒川を渡リ参ん事もあらんと竹下、かじか瀬、滝合の押に湯本左京、唐沢玄蕃、塩原源太左衛門、原沢大蔵、沢浦隼人、山口式部、小池右馬之助以下被差置ける、名胡桃の城に鈴木在城す、山名小四郎、発知図書、同左衛門大将にて手勢弐百余人薄ツ根の原に着陣して敵襲来を待居たり、長尾左衛門尉定景手勢勝つて壱千五百余騎を率、先陣吉里、矢野、神谷□□□□□□牧和泉、飯塚内記、中山安芸守が館に押寄放火し権現山に陣取ければ、昌幸公雨乞山に打登先手を以散々に討崩しければ、長尾入道不叶して和田の坂の辺に引退く、爰に昌幸公の近臣木村渡右衛門尉行賢と云者有り、信玄公御代永禄六年癸亥駿河国合戦の節木村七歳昌隆代矢野半左衛門尉生捕にし給けるが只今にあらずとて父の名を御尋有けるに木村殿と斗覚へたり、戸右衛門警固の武士に申けるは、我父も打死し給ふらん昼の軍場へ参見度と申ければ、さらばとて矢野が下人肩車にのせて参りければ、是は誰殿渠は何がし殿見覚へもなしと哭たりと昌幸公へ申上ければ、不便也とて禿に被召仕ける、有時昌幸公罪有侍を可被為討とて白倉武兵衛両人を御閑所に召て被仰付ける、彼木村は御刀を持て御供に侍けるが此由を聞て、両人に先達て彼罪人を討たりけり、木村其年拾四才也、昌幸公御立腹有て百日押込られけるが猛勇かんばしく被思召近臣に被召仕けるが、今度長尾入道敗北の時権現峠にて敵壱人討捕、其上梅沢におゐて真壁成重、神庭三河入道と合戦手柄勝負一千余騎に勝れければ、昌幸公不斜御感有て百貫文の領地被宛行ける、其年廿四才也と聞へける、其後土佐守と申也、昌幸公惣別大切の儀は閑所にて被仰付けるとなり、此軍長尾敗北して白井に馬を引入ければ氏邦も鉢形へ帰陣せられける。