加沢記 巻之二⑪ 真田一徳入道御逝去源太左衛門殿兵部殿御討死附富沢働昌幸公御家督之事

加沢記 真田一徳入道御逝去源太左衛門殿兵部殿御討死附富沢働昌幸公御家督之事
加沢記 真田一徳入道御逝去源太左衛門殿兵部殿御討死附富沢働昌幸公御家督之事

主な登場人物

真田幸隆

 色んなクスリを試すがその甲斐なくお亡くなりに…。

 長国寺殿月峯即心庵主(加沢記)。

真田信綱

 源太左衛門。

 この章で家督を継いだばかりなのに…。

 富沢豊前守と湯本善太夫のエピソードの陰に隠れてさらに不遇。 

真田昌輝

 兵部。

 章のタイトルになってるんだからもっと書いてほしい。

真田昌幸

 この章で武藤喜兵衛尉から真田安房守昌幸に…。

 勝頼の指示で信綱の娘をせがれである源三郎信幸の妻として迎える。

富沢豊前守

 信長の軍にいた杉原十度兵衛尉だか竹の内だかというDQNとケンカする。

 彼のケンカが長篠合戦開戦のきっかけとなった(加沢記w)。

湯本善太夫

 故郷に残してきたバアちゃんのことが気がかり。

内容

 上杉謙信の長い回想シーンが終わって、この章はまた真田側の話になります。

…ってまた、長いタイトルですね~…

 

 天正元(1573)年4月12日に信玄が他界しましたが、勝頼は万事を大切に運ぶため、なお真田の一家を重用していました…。

 真田幸隆は去年から隠居して上田の城に住んでいましたが…

 

 幸隆は老衰でしだいに病気がちになり、色々と医薬を試しましたが、その甲斐もなく、天正2年2月19日に65歳で逝去しました…。

 葬儀は美々しく執り行われました…。

 幸隆の法名は「長国寺殿月峯即心庵主」と号し、子どもたちは父の供養ということで真田の庄、白山の麓に新しい道場一宇の禅寺を建立し「長国禅寺」と号しました…。

 

 ちなみに幸隆の死んだ日と法名は…

『加沢記』だと

 天正2年2月19日

 長国寺殿月峯即心庵主

ですが…

『真武内伝』だと

 天正2年5月19日

 笑傲院月峯良心大庵主

だそうです。

 ヨソで話すときは後者を推奨(笑)

…つーか「笑傲院」とか「良心」とか皮肉にしか聞こえないですよね~w

 

 さて、真田信綱は前の年から家督を継いで上田の城に居住し、200騎の大将として吾妻岩櫃の支配をしていましたが、天正3(1575)年5月21日、三州の長篠へ武田勝頼出陣のお供として向かいました…。

 

 この合戦には信綱の幕下である吾妻の住人で、富沢但馬守の二男「富沢豊前守」という者が参加していました。コイツは無二の強者で、常々から悪馬(クセの悪い馬)を好んで乗るという豪傑でした…。

…とそこへ、織田信長の陣の中から杉原十度兵衛尉と名乗る男が、何をイキがったのか指物に「廿五杉原十度兵衛尉」(※)と書付け、八角の棒に筋金を渡した得物を担いで現れました…!

(※指物の「廿五杉原十度兵衛尉」の意味がよくわからない…。「大ふへん者」とかと同じでなんか挑発的な意味なんでしょうが……二十五?…厄年?……ちなみにコイツ「竹の内」って呼ばれてるけどそれも関係あるのかな?)

 

杉原(竹の内)「おうおうッ!!…テメーらビビッてんのかぁ!?…武田のヤツらはみんな腰抜けかァ~?…どうしたオイかかってこいやコラァ…あぁン…?」(原文:寄やかかれ)

 

 さしもの武田軍も皆こんなDQNはスルーしていました……が…!

…杉原(竹の内)が真田の備の前に来たとき…!

 

富沢「オウ?💢テメェなにチョーシくれてんだオイ!!竹の内だぁ?“ひき肉”にされてーのか?あぁコラ!?(原文:竹の内殿か珍しや)

 

…と、富沢豊前守が馬にも乗らず長太刀を手に走り寄ります…!

 

竹の内「オラァ!」

 

 ――💥――

  ――💥――

 

富沢「このヤロウッ!」

 

  ――💥――

 ――💥――

 

 富沢豊前も竹の内も互いに力が強く、腕利きだったので、しばらく勝負はつきませんでした…。

 

富沢「…ちッ!…ラチあかねー…おいテメー!…“素手喧嘩(ステゴロ)”やる度胸あッかよ?」

 

竹の内「…おもしれェ!…上等だコラァ!」

 

 二人は上になったり下になったりして闘いを続けました…。

 これを見ていた富沢の身内である富沢主水が助太刀しようと近づくと…

 

――ギロッ!!――

 

(にらみ付けの擬音原文:ハッタ)

 

…富沢豊前は「(テメェ余計なコトしやがるとブッ〇すぞ!)」と主水をにらみ付けます!

 

 こんな具合で二人の闘いには誰も手出しできず、敵も味方も鳴りを静めて見物していました…。

 

――🤜

  ―💥――バギッ!

 

   ―🤛――

     💥

 

   ―👊

     💥

――ゴギャァッ!!―

 

…そしてついに……

 

 ――ガキィィ…!――

 

  …ギリギリギリ……

 

竹の内「…がッ!?……んグググ💢……

 

――ボキィィイーッ!!――

 

竹の内「かはッ…!」

 

…富沢はついに竹の内の首をねじ切りました…!

 

富沢「…ハァ…ハァ…!……思い知ったかこのヤロウ…!!」

 

 富沢は差物に竹の内(杉原)の首を添えると、彼が使っていた八角棒に結わえて肩に担ぎ、乗り捨てた馬に乗って自陣へ帰っていきました…。

 

 このケンカが合戦のきっかけとなり(ホンマか?)、敵(織田勢)10万余騎(※)が声を上げ襲ってきました…!

(※基本的に『加沢記』の戦力や人数は“盛”ってますから割り切って読みましょう。)

 

 ひるんだように見えた武田勢でしたが、とって返して反撃したところ、敵方は柵の中へ引きさがりました…。

 真田の兄弟はこの勢いに乗じて、逆茂木を2か所も乗り越えて戦いましたが……

 

――真田信綱―38歳――

 

――兵部(真田昌輝)――

 

…彼らはこの戦いで共に討死してしまいます…!

 

 直前のDQN同士の闘いはあんなに長いこと書いたのに、重要人物の死はとてもあっさりと書かれるのも「加沢記あるある」ですね。ちなみに信綱の享年をヨソで話すときは「39歳」と言ったほうが無難です。

 

 御供の人々――川原、須井、小泉、山越――も…この戦いで討死しました…。

 

 富沢但馬の嫡子、富沢勘十郎(※)も…鎌原筑前守も…討たれてしまいました…。

(※さっきケンカしてたのは次男の豊前)

 

 湯本善太夫と植栗河内はこの有様を見て…

 

湯本・植栗「…ああ…なんてことだ……鎌原まで………クソッ!!」(原文:浅ましや)

 

…と敵に向かっていきましたが…

 

 植栗も湯本も深手を負ってしまい引き退がりました。

 特に湯本善太夫は槍傷、太刀傷合わせて13か所を負っていました。

 

宮崎(湯本の家来)「(これは…もう助かるまい…)」(原文:十死一生)

 

 宮崎は湯本を担いで陣小屋に運びました…。

 

 湯本は陣小屋に駆け付けた浦野義見齋と横谷左近に…

 

湯本「…浦野~…横谷~…!……オレさぁ…故郷にバアちゃんがいるんだよ……オレが死んだ後のこと…頼んでもいいかな…」(原文:在所に老婆を持ける……此儀の事頼み申ん)

 

…と最期の願いを伝えます…。

 

浦野「…ああ!…オマエの孝行ぶりはわかってるぜ……昌幸さまから言質取ってくるから…待ってろよ!」

 

 浦野と横谷がこのことを昌幸に話すと、さらに武田勝頼にも伝わりました…。

 

勝頼「…そうか…それは不憫なことだな…わかった…任せておけ!」(原文:不便也次第也)

 

 勝頼は跡部大炊助を使いとして湯本が臥している陣小屋へ派遣し、湯本の頼みを聞いてあげました…。

…勝頼のこの対応について聞いた人々は「ありがたいことだなぁ…」とみな感動したということです…。(みんなの感想原文:難有かりける事共也)

 

 湯本善太夫に与えられた証文により、彼の跡目は甥の三郎右衛門とされ、昌幸に面倒をみてもらうことになりました…。

 

湯本「(…よかった……バアちゃん…元気でな………)」

 

――湯本善太夫――死亡――

 

 さて、この戦いにより、幸隆から真田の家督を継いだ真田信綱が亡くなったので、跡目は弟の武藤喜兵衛尉――昌幸――が継ぐことになりました…。昌幸は再び本名へと戻り……“真田安房守”がここに生まれました…!

 

 この時、武田勝頼は昌幸に…

 

勝頼「ところでさあ…信綱には娘がひとりいただろう?……あの娘をオメエんトコの源三郎信幸に娶わせてよ~…ゆくゆくは家督を継がせべーじゃねぇ…」(原文:扨て信綱御娘壱人御座は後に源三郎信幸公に合せ参らせ家督成参らせよ)

 

…と指示を出しています。

 

 いわゆる「清音院殿」さんに関するお話ですね。

 この娘(清音院殿)は早世してしまったので(?)、信幸は後に…(※1)…家康の下知により本多美濃守(※2)の婿になりました…。

(※1:ここで使っている文書の画像は和学講談所にあった写本らしいですが、なぜか「信幸公は後に」の後に謎の改行があるんですよね。たぶん孫コピーくらいだと思うけど原本にも改行があったのかな?

…だとしたらココには清音院殿や小松姫に関する記述があったのかも…何にせよ謎が多いですね~(考えすぎ))

(※2:本多忠勝のこと…だから「本多中務大輔」の間違い?…美濃守はせがれの忠政ですね。)

 

 またその頃、昌幸は信綱の供養のため、本国小県郡横尾の郷に一宇の禅寺を建立しました。この寺は白山信綱寺殿と号しました…。

 

 なお、兵部(昌輝)の子は内匠といい――さらにその子は五郎兵衛といいましたが――後に結城家の中納言秀康に属したとのことです。真田淡路の祖父がこれに当たります…。

 この辺は『見夢雑録』『真武内伝』『滋野世紀』等の史料によっても話が違うみたいですね~。五郎兵衛が信綱の孫だったり昌輝の子だったり…(史料を見たわけではないけど平山優先生の本に書いてありました。)

 

 

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原文

天正元年四月十二日信玄公御他界有ければ勝頼公万事大切に被思召真田御一家猶以御念頭也けるが、幸隆公去る年より御隠居にて上田の城にましゝゝけるが、連々老衰にて御病甚成ければ種々医薬を服し給へ共其甲斐なくして、御年六十五天正二年二月十九日御逝去也ければ御葬礼規式美々舗執行給ふ、法名は長国寺殿月峯即心庵主と号、一向御父之供養とて御国真田の庄白山の麓に新の道場一宇の禅寺を建立長国禅寺と号、かくて信綱公は去頃より御家督有て上田の城に居住し給弐百騎の大将にて吾妻岩櫃の御支配也けるが、同三年五月廿一日三州長篠にて勝頼御出の御供し給ける合戦に信綱の幕下吾妻の住人富沢但馬守二男富沢豊前守と云有、無二の強兵也、常々悪馬を好けるが彼陣の中に信長の御備の内より杉原十度兵衛尉と名乗指物に意気過たりや廿五杉原十度兵衛尉と書付ヶ八角の棒に筋金渡したるを打かたげ、寄やかかれとのゝしって備の外を欠通りける、さしも武田の備にて誰も出向者無して過けるが真田の備の前に来りけるを富沢此由を見て馬にも不乗長太刀を取駈出、竹の内殿か珍しやと戦けるが互に大力手きゝの事成ければ、しばし勝負は附ざりしが押並べて無手と組、上を下へと返しける、同名主水是を見て助太刀せんと掛りければ、豊前ハツタとにらみければ不寄付ければ、敵も味方も是を軍の見物と鳴を静めて見る処に、富沢竹の内が首をねじ切て差物に取添竹の内が八角の棒に結付打肩掛、乗捨たる馬に打乗備の内へぞ返りける、是を軍の初として敵十万余騎おめゐて懸りければ武田方辟易して見えけるが、流石の武田勢也ければ取て返しければ敵方柵の内へ引退、真田御兄弟勝に乗逆茂木を二重乗越戦給けるが、信綱三十八兵部殿一所に討死し給ける、御供の人々川原、須井、小泉、山越討死す、但馬が嫡子富沢勘十郎も鎌原筑前守も被討にけり、湯本善太夫、植栗河内此有様を見て、浅ましやと掛りけるが筑前守は討れ植栗湯本深手を負引退く、善太夫は鑓疵太刀疵十三ケ所負ければ十死一生と見えて家人宮崎是を肩に掛小屋に返りければ、湯本在所に老婆を持けるが孝行の人にて此儀の事頼み申んとて浦野義見齋、横谷左近を以昌幸公へ被申ければ、勝頼公此由を被聞召て不便也次第也とて跡部大炊助検使として湯本が小屋へ被遣湯本が頼を被聞召ける、難有かりける事共也と諸人是を感じける、善太夫に被下ける御証文は湯本が跡は甥の三郎右衛門に賜り昌幸に御預け有り、かくて真田信綱御跡は舎弟武藤喜兵衛尉へ被下則御本名に帰申し真田安房守に被成、扨て信綱御娘壱人御座は後に源三郎信幸公に合せ参らせ家督成参らせよと勝頼公被仰出也、此御娘早世し給ければ信幸公は後に

家康公の為御下知本多美濃守殿の御聟に成給ける、扨其頃昌幸公は信綱の御供養として本国小県郡横尾の郷に於て一宇の禅寺を御建立有て白山信綱寺殿と号給ける、兵部殿の御息内匠と申けり、其御子を五郎兵衛と云、其後結城殿の御家に属し中納言秀康卿に属し給ける真田淡路の祖父是なり。