過去に真田と通じたことを北条にとがめられて浪人するが、富永又七郎助重に仲介してもらって帰ってきた。
町田房の浪人と帰参を『バキ』のインタビュー風に述懐する。
今度の章は町田房(町田坊)が浪人して、翌年に帰ってくる話ですが、時系列的にだいぶ先の話なので「なぜココに入れる?」と思われるかもしれませんが、『加沢記』ではよくあることなので気にせず読みましょう。
――町田房の浪人及び帰参について、関係者の1人、富永又七郎助重はこう述懐する――
助重「…町田房の浪人の件?……ハイハイ、あの話ね…」
………
助重「…えーと確かアレは……天正8(1580)年だったかな……
…ホラ、藤田信吉のヤツが甲州に寝返った頃のコトだよ……」
………
助重「…そん時、町田房も藤田と一緒になって、沼田城を真田昌幸に明け渡す企みに一枚噛んでやがったんさね……
…それがまあ、小田原(北条)にしたら面白くねーワケよ…」
………
助重「…そんなことがあったもんで、天正16(1588)年に(猪俣)邦憲のアニキが沼田に来たときに、町田房のヤツを追放しちゃった…ってワケさね…
…で、ヤツ(町田房)もだいぶ参っちゃったみてーでさあ(笑)」
………
助重「…このオレ(富永又七郎助重)に泣きついて来たってワケさね……オレも鬼じゃねーからよ~……誠心誠意頼まれると『イヤ』とは言えねーワケよ(笑)…
…まあ…だからオレから氏邦さまにお願いしてやってさ…」
………
助重「猪俣のアニキにも話を通して、天正17(1589)年9月にようやく、町田村に帰ってこれた…ってワケよ…
…え?…町田房の由来?……ンなコトをオレに聞く?
…まあイイけど……」
………
助重「…えーと…確か永享年中(1429~41)の頃に、芳野(吉野山金峯山)から万福とかいう山伏がココに来てさ、沼田晴雲齋入道――三浦沼田氏2代の景長――の帰依を受けたっつー話だったかな……」
………
助重「…で、『幕岩山観音寺町田房』と号し、利根沼田での修験道を支配したってコトさね…
…どうよ?…オレ詳しっぺや?…え?…ナニ?……『永享の頃だと宝治合戦からだいぶ経ってるけど沼田景長の時代で合ってるか』って?……知らねーよそんなのは……」
………
助重「…ん……まだなんかあるの?…
…え?…町田房が帰参したときの証文?……まあそりゃオレが作ったモンだからある程度は覚えてるけど……アンタも好きだねえ……忘れちまった部分はカンベンな…」
―――――
町田本□□被致帰参度由度々□□□に付、先々返置侯、彼地我々領分に罷成侯者組合□□□をば可進置者也、仍如件
九月廿九日 助重 在判
町田房
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内容「よ~…町田房の~…ったく沼田城の件じゃあ面倒かけやがって……まあ帰って来たからにはオメーらの場所は返すけどよ~…あそこはウチら(北条)のナワバリになったワケだからよ~……ショバ代のコトとか…わかってんよな?…頼むよ~by助重」
町田房浪人したるらんせうを尋ぬるに、天正八年に藤田信吉甲州え随身しける折節、藤田と令同心沼田の城昌幸公え相渡す段、南方不快に被思ければ、天正十六年沼田へ、邦憲被相移て、町田房追放したりけり、かゝりける処に富永又七郎助重えたより氏邦へ訴ければ猪俣えも御断有て、同十七年丑九月町田村に帰参したりけり、抑此町田房と申は、永享年中芳野より万福と云ふ山伏此地に来り、沼田晴雲齋入道の帰依によって、幕岩山観音寺町田房と号し、利根勢田の霞を持たしけり、丑年町田に帰参の節助重の証文に曰、
町田本□□被致帰参度由度々□□□に付、先々返置侯、彼地我々領分に罷成侯者組合□□□をば可進置者也、仍如件
九月廿九日 助重 在判
町田房