加沢記 巻之四⑧ 猫城責並中山右衛門討死牧弥六郎礼儀之事

加沢記 猫城責並中山右衛門討死牧弥六郎礼儀之事
加沢記 猫城責並中山右衛門討死牧弥六郎礼儀之事

主な登場人物

中山右衛門

本章の主人公。猫城攻めの先掛大将として敵陣深く突っ込むが…

金子美濃守

本備を固めていたが…。逃げ方がカッコ悪い。捨鞭。

塚本肥前守

武者奉行として軍を指揮した。逃げ方がカッコいい。莞爾(にっこ)。

牧弥六郎

敵方だが、塚本に敬意を表する。甲を脱て一礼。

長尾一井齋

ひとつの命を救うのは無限の未来を救うこと。

内容

『加沢記』、今回の章はYAZAWAが猫城を攻めるニャ🐱

 しかし、ニャンとこの戦いでニャかやミャ右衛門が討たれてしまうニャ!

 それが後に猪ミャたのニャ胡桃城略取につながるんだニャー!!

 つまり猫城は歴史を動かしたのニャ!

…ニャーんてニャ🐱

 

 天正10(1582)年6月下旬、白井長尾の領分である津久田と猫ナントカの要害には一井齋(長尾憲景)の家臣である牧和泉守が、樽の要害にはその子息である牧弥六郎が立て籠もっていました…!

 

頼綱「白井のヤツら…すっかり北条に味方しおって…城ブン獲ってビビらせてやるぜ!」

 

…と、矢沢頼綱の指示により、本備に金子美濃守、恩田越前守、下沼田豊前守、発知左衛門五郎、中山右衛門尉…

 武者奉行として塚本肥前守、高橋右馬允…

 都合1,000余騎が、中山を先掛の大将として猫の要害へと押し寄せましたッ…!!

 

 いっぽう、白井勢は沼田勢の襲撃を察知し、城中で待ち受けていました…!

 

牧「…ククク…もっと近くまで引き寄せろ………今だッ!!」

 

…と、牧が林の中に忍ばせていた伏兵が沼田勢を襲います!

 

中山「…ううッ!!…しまった!…待ち伏せかッ!?」

 

 沼田勢が応戦しているその時、さらに上白井からの増援が声を上げて襲いかかります!

 

――ドドドドド…――

 

白井勢「ヒャッハー!…手柄首だーッ!!」

 

沼田勢「うぎゃあああ!!」

 

 とりわけ大右衛門尉と名乗る伊玄入道(長尾景春)のナントカが…

 

大右衛門「貴様は金子ォオッ!!……皆の衆!…ソイツを絶対に逃がすなッ!!(原文:金子のがすな)

 

…と、(4尺と)7寸余りの背丈の馬に乗り、叫びながら金子美濃守泰清に襲いかかりました…!

 

泰清「ひええ~!…😱

 

 金子はたまらず、備えを崩し捨鞭打ってトンズラしてしまいました…。

 

恩田「あれッ?💧

 

下沼田「…金子のカシラ!?💦

 

 このため隊列が崩され、恩田と下沼田も多勢に引きずられる形で、不本意ながら嶺の辺まで退却していきました…。

 

 いっぽう、沼田勢武者奉行の塚本は戦場に踏みとどまり、逃げ遅れた残党を警固していました…。

 そこへ白井勢の牧弥六郎(牧和泉守の息子)が樽の城から攻めてきて、

 

弥六郎「あれは塚本!…皆、討ち漏らすなよッ!(原文:塚本遁すな)

 

…と襲いかかりましたッ!

 しかし、塚本肥前守はにっこりと…

 

塚本「…ハハハッ!!…ここまで本陣が崩れてしまっては…オマエと戦う力が残っておらんわ!……弥六郎よ…またお目にかかろう!(原文:本備崩れければ力なし、重て見参申さん)

 

…と、ゆっくりと馬を歩かせ退却していきました…。

 弥六郎はこの様子を見て…

 

弥六郎「…あれが塚本…聞きしに勝る勇士であったわ!(原文:聞しに増る勇士)

 

…と、兜を脱いで一礼し、沼田勢を追撃することなく、猫の城へと引き返していきました…。

 

 さて、先陣として敵陣深く突っ込んで行った中山は、大勢の敵に取り囲まれ、散り散りになりながらも応戦しました。

 

中山「クソッ!…後続はまだか…!?」

 

 |

 💥 ドバッ!

💥 シュバッ!

…と、襲ってくる敵を7~8騎ほど斬り伏せ…

…ふと、後方の味方の勢を見てみると…

 

中山「…あ、アレは?……そんな…(絶望)

 

 そこには味方は一騎も残っておらず、かろうじて武者奉行である塚本と高橋の旗がほのかに見えるばかりでした…。

 

――日が夕陽に傾くなか、郎等を2~3人伴って南雲の沢辺を伝って落ちていく中山右衛門――

 

 その時…

 

中山「あッ…」

 

 蔦葛の中に馬を乗り入れてしまった中山……そこへ現れたのは…!!

 

中山「…!!…フッ…オレの運もココまでか…(原文:運や尽たりけん)

 

 中山を追ってきた角田次郎左衛門と同氏の者2人でした…

 

角田「中山…覚悟ッ!」

 

  ――💥――

   ――💥――

 

中山「…グブッ!……親父のヘタクソな鼓…もう一度聴きたかったな……九兵衛…あとのコトは頼んだぜ…」

 

――中山右衛門尉 討死――

 

 この戦いで沼田勢は150余人が討たれ、50人が生け捕りにされました。

 吾妻の富沢三郎四郎という17歳になったばかりの青年も、矢沢頼綱に味方して付いてきていましたが、この戦いで生け捕りにされてしまいました…。

 長尾左衛門尉(憲景)は矢野山城守に…

 

長尾「矢野~…フン捕まえた50人の沼田勢だけどよ~…科野の河原へ引きづり出してぶった斬るべーじゃね…」

 

…と命じました…。

 ――💥――ビュッ

  ――💥――ズバッ

 

長尾「…あれ?…なんだあのガキ?」

 

 それは富沢三郎四郎が斬り手の奉行に斬られる寸前…

 

奉行「こりゃ随分若いな~…小僧、覚悟はいいか?」

 

三郎四郎「…うぅ(泣)

 

奉行「あン?…このガキ…泣いてやがる…ったく、やりずれーな…オイ!…なんか言いたいコトあんなら言えよ」

 

三郎四郎「…オレさぁ…故郷に母ちゃんがいてよ~…しかもオレ、ひとりっ子なんだよ……ああ、フラッと沼田まで来てさ、ついには戦場まで見物しに来ちゃったけど……まさか、まさかこんなメに遭うなんてよオォ~!(原文:郷に母人有て我は独子也、今度沼田へ風と参り、終に軍場を不見候ほどに見物に参り、かく浅間敷風情)

 

………

 

三郎四郎「…こうなったら失う命はもうしょうがねえけどよ~……ああクソッ!……母ちゃんが恋しいんだよオオッ!!(原文:死なん命より、在所の母こそ恋しく、なげき申すべし)

 

奉行「うう…(ああチクショウ、聞くんじゃなかったぜ~……余計に斬りづらくなっちまったじゃねーかよ~…)」

 

 この事を聞いた長尾一井齋(憲景)は…

 

長尾「おい!…おやげね~じゃねぇ…助けてやるべえ!(原文:不便なり、去ば助けよ)

 

…と、彼を赦すことにしました。

 3日後、三郎四郎は堺沢まで送りを付けられ、さらにナントカ十を賜り、再び故郷へと帰ることができました…。

 

 このエピソード(富沢三郎四郎が助けられた話)について加沢平次左衛門は…

 

加沢「この話は大瀬宗可っつう入道が聞かしてくれたんさね~。大瀬は当時、一井齋んチで笹島ナントカ三郎って名前で祐筆をしてた人なんだけどね。」

 

…と書いています。

 

 さて、この戦いの継続を不安に感じ(読めない部分…頼綱か昌幸が?…心中原文:此軍心元なし)、山口掃部介を使いに出し、白井長尾との間で手打ちの交渉がされました。

 山口はウマイこと話をまとめて帰ってきたので、その年に昌幸から知行を賜りました。

 

 その時の証文が…

―――――

年来奉公候間、玉泉分之内弐貫文出置候。

壱貫四百文御改之上、丸山土佐守方より可請取者也、仍而如件

 天正十年壬午十月三日 昌幸 在判

 山口掃部介殿

―――――

内容…

「オウ掃部介!…いつもアリガトなッ!!…オマエには玉泉寺分から2貫文をくれてやるぜ~!……あ、1貫400文は、丸山土佐守んトコから改めて受け取ってくれや。これからも頼んだで~!」

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原文

天正十年壬午六月下旬、長尾領分津久田猫〇〇要害には一井齋の家臣牧和泉守、樽の要害には子息弥六郎楯籠りければ頼綱公下知有て本備金子美濃守、恩田越前守、下沼田豊前守、発知左衛門五郎、中山右衛門尉、武者奉行塚本肥前守、高橋右馬允、都合千餘騎、中山先掛の大将として要害に押寄たり、城中にも兼て待請ければ近々と引請、景林の内より伏勢出合相戦ける、其時上白井より後詰の勢、をめいて掛りけり、其中に大右衛門尉と名乗伊玄入道の〇〇〇金子のがすなとて七寸餘の馬に打乗、をめいて掛りければ金子備を崩して捨鞭打て引退く、恩田下沼田が勢も大勢に引立られ不思嶺の邊迄引たりけり、塚本踏止て残党を警固したければ牧弥六郎、樽の城より寄来り、塚本遁すなと掛りければ肥前莞爾と打笑ひ本備崩れければ力なし重て見参申さんとて静に駒を歩ませ引退、弥六郎是を見て聞しに増る勇士とて甲を脱て一礼し猫の城にぞ引返す。先陣中山は大勢に取囲まれ散々に相戦ければ手本に進む兵七八騎伐臥、味方の勢を見るに一騎も不残漸々塚本高橋が旗ほのかにみへける計りなり日も夕陽に傾きければ郎等二三人相伴ひ南雲の澤邊に傳ひ落たりける、運や盡たりけん蔦葛の中に馬を乗込ければ角田次郎左衛門同氏の者二人掛り重つて終に中山は被討にけり、沼田勢百五十餘人被討、五十人被生捕けるが、吾妻の富澤三郎四郎十七歳に成りけるが矢澤に属し参りけるが此軍に生捕となりにける、長尾左衛門尉は矢野山城守に下知し給ひて生捕五十人科野の河原へ引出斬罪にぞせられける、三郎四郎涙を流し伐手の奉行に申けるは、郷に母人有て我は独子也、今度沼田へ風と参り、終に軍場を不見候ほどに見物に参り、かく浅間敷風情、死なん命より在所の母こそ恋しくなげき申すべしと悲しみければ一井齋此由を聞給ひて不便なり、さらば助けよとて三日目に堺澤まで送りを付て〇〇十〇賜り再び故郷へ帰りける。是物語は大瀬宗可入道被語けり、大瀬は其頃一井齋の家人にて笹島〇三郎と申祐筆を致されける人なり。かくて此軍心元なしとて〇〇〇〇山口掃部介を使に遣はされ首尾能立帰ければ其年昌幸公より知行賜りけり。

 年来奉公候間玉泉分之内貳貫文出置候

 壹貫四百文御改之上、丸山土佐守方より可請取者也、

 仍而如件

 天正十年十月三日 昌幸 在判

 山口掃部介殿