過去の内紛で沼田を追われ、会津を経て東上州の女淵(女渕)に居住していたが…12年ぶりの故郷に胸を躍らせる。
やっと沼田をゲットしたっつーのに人気者の景義が帰ってきたらヤバイ!…なんとかしないと💧
昌幸による悪魔の提案をのみ、景義に非情のワナを仕掛ける…。
泰清に従い、かつての主家筋に対し非情の決断をする…。
景義の小姓として運命を共にする…。
安田に剣を学んだ景義の兄弟弟子として、真田に沼田衆の恐怖を植え付ける…。
【ノスタルジア】
――この言葉は郷愁や追憶という意味だが――
…40年以上実家から離れていない私ですらが、過去のアルバムを見返すとき、時間の過ぎるのを忘れて見入ってしまう…
…写真に写った過去の家族…猫…もしも彼らともう一度会うことができるのなら……引き換えに今の生活を犠牲にすることも…きっと厭わないのだろう、と思う…。
人間にそれほどの強い感情をもたらす「ノスタルジア」…もしヤツが、悪意を持った“敵”として襲ってきたとしたら…!……我々に抗うすべはあるのだろうか…?
21世紀初頭の名作映画『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国 の逆襲』でも……そして、日仏2国による歴史的偉業の結晶とも言える作品『岸部露伴ルーブルへ行く』のなかでも、ヤツは悪意ある“敵”として人間たちを罠にハメることになる…。
これらの作品において作中の登場人物である“野原ひろし”や“岸部露伴”は幸運や機転によってなんとかヤツに勝利することができたが…
…それはまた“失った過去を取り戻したという幻想”を、さらにもう一度失うということでもある…
(そもそも常人に「戦おう」などという意志が持てるのだろうか?)
…天正9(1581)年、12年ぶりに沼田への帰還を目論んだ沼田景義…彼でさえ、故郷や…共に過ごした人々への想いを断ち切れなかったのだろうか…?
かつて2,000余人の追っ手を退け、真冬の尾瀬を越えたほどの男にとってさえ「ノスタルジア」は最大の弱点となったのだ…。
―――――
…つーワケで(上の文章はコレの前振りです)
…いよいよ沼田平八郎景義が沼田に帰ってきますね~…まあ結末は章のタイトルでネタバレですが…
天正9(1581)年のこと、かつて会津へと浪人していた沼田の先主――沼田平八郎平景義――は、近年東上州の女淵という所に住み、由良の一族である矢羽の婿になっていました…。
沼田には景義と縁がある者がいたので、内々に密通をしており、由良もこれを支援していました。
由良「景義よ~…オメエ一度本領に帰ってみたらどうかね」
景義「………」
…と、それを知った沼田城の藤田と海野は、この由良と景義の企みを昌幸へと報告しました。
昌幸「…!…サ…“サバイ”よ!…それってよォ!」(※「サバイ」は横浜の方言で「とてもヤバイ」という意味)
昌幸はあわてて甲州を出て岩櫃までやってきました…。
昌幸「なぁ長門(海野幸光)~…沼田城に金子美濃守泰清ってヤツがいるよな~…アイツって景義の伯父でさ~…その縁故で万鬼齋が沼田衆のカシラに抜擢したんだっつーけど…今もその立場なんだよな~……(΄◞ิ౪◟ิ‵)(原文:金子美濃守泰清は景義の伯父なりけり、此縁を以て万鬼齋御取立、沼田執権也けるが当世まで●●有りける)」
――( ´д) ヒソ (´д`) ヒソ――
昌幸「…だからさー……アイツを利用して景義をブッ〇しちまえば…それが一番イイ方法なんじゃね?(原文:渠を以て討にしくは無し)」
幸光「…(😱ゾォ~…)」
…と、岩櫃城で真田昌幸と城代の海野長門守が謀略を巡らせているころ……
景義の加勢として、矢羽からは家老の石橋与惣左衛門父子、由良からは由良佐左衛門尉、桐生伝左衛門、大胡十兵衛、那波大学介、愛久沢庄左衛門尉…ほか近辺の城主からも10騎20騎と協力を得て、総勢2,000余騎が同年3月朔日に新田を出発しました!
そして3月3日には勢田郡糸井の津久井刑部左衛門尉が景義の宿所を訪れ、さらに翌4日に南越生瀬に陣を移したところ、かつて恩義を受けた家来たちも景義の味方をするために倉内の武士たちを引き連れて参陣してきました…!
景義「オマエらは!?…和田主水、発知刑部少輔、久屋平六、岡内平内左衛門、鶴川の佐衛門入道に左京と三郎左衛門!…そちらは小野大膳、桑原玄蕃、津久井の刑部左衛門に又左衛門と与兵衛か!…そして星野図書介…ッ!!……🥲よく来てくれたなッ!!」
さらに地元の農民たちまでが味方として駆け付け、ほどなく軍は3,000余騎となり、阿楚の要害へと移動しました…!
民衆の声「近いうちに景義さまが本意を遂げられることは間違いない!(原文:近日御本意疑なし)」
…と、寺院仏寺や別当社人までが味方に加わりました…!!
このことを聞いた昌幸は、密かに倉内にやって来て…
――( ´д) ヒソ (´д`) ヒソ――
昌幸「金子~…オメーちょっとウマイこと考えてよォ…八郎(景義)のヤツを〇しちまえよ…な?…屋形さま(勝頼)も“オメーしかいねえッ!”っつってんだよ…(原文:貴方智略にて此度八郎殿を討給へ、依之屋形様よりも貴方より外なし)」
泰清「…な!?…そ、それは…いくらなんでも…😰」
昌幸「…んな事言っていいのか~?…勝頼さまからの証文もあるぜ~?…ホレホレ…――( ^ิω^ิ)y-~~――(原文:御証文被遣ける)」
証文には…
―――――
其方以計策彼者於沼田於令生涯者、川西千貫文之処可宛行候、猶真田安房守可申候
恐々謹言 二月十二日
勝頼 朱印
金子美濃守殿
―――――
内容…
「よー金子~…オメーがアイツ(景義)のタマ(生命)を沼田で取った日にゃあよ~…利根川の西から1,000貫文くれてやっからよ~……キバってくれや……こまけーコトは真田に聞いてくれよな」
―――――
泰清「―(;゚д゚)ゴクリ……さ、真田の大将……マジっすかコレ?」
昌幸「まあオメーが心配するだろうと思ってよ~…こんなのも用意してあるぜ」
勝頼の証文には、内容に相違ないことをしたためた跡部尾張守と真田安房守の起請文も添えられました…。
泰清「(こ…コレはオイシイ話だぜ~ッ!……それに今あのガキ(景義)が帰ってきたらオレの過去の悪行(朝憲〇害加担)がバレる可能性がある…そしたらオレは沼田衆のヤツらにブッ〇されちまうぜ~!!)」
………
泰清「(…や…やるしかねえ!)」
(※この辺の原文は「依之大欲の金子にて旧好を忘れ」とあるだけなので、ここに書いた金子泰清の内心は大部分が妄想ですのでご了承ください。)
泰清「やるます!」
昌幸「(ニヤリ)」
…こうして、真田にそそのかされた金子泰清は、中山右衛門、山名弥惣、岡谷平六たちに話を持ちかけます…。
泰清「…つーワケでよ~…真田の大将や勝頼さまの信頼に応えるためだ…オレは甥の景義を止めなければならねえ…オマエら協力してくれるか?」
中山「…今は沼田衆が真田のもとでまとまりつつあるところだからな…景義さまには悪いが…仕方ない…」
岡谷「ほんとタイミングの悪い話だぜ…わかった…オレも手伝うよ!」
泰清「(…へへッ…チョロイぜ…コイツラには褒美のこととかだまっとくべ…)」
(※例によってこの辺のセリフとかは妄想です。)
弥惣「(…!!…景義さま…ついに…あの方が帰ってくる……オレはッ…)」
――ゴゴゴゴゴ――
弥惣「(――ギラッ!――)」
泰清「(な…なんだコイツ?…怖えー😱)」
………
泰清「…よ…よしッ!…それじゃあヤツを騙すため、まずは『味方する』って申し入れるぜ!」
―――――
さて、景義の軍は11日に倉内の後方から押し寄せ、田北之原へと攻め込みました…!
沼田城を守る藤田信吉と海野幸貞はこれを止めるため、800余騎を従えて出向きましたが…
幸貞「ぬうッ!…これが音に聞く沼田平八郎景義の戦いぶりか…!」
藤田「多勢に無勢ってのもあるが…ヤツら大将である景義の故郷での戦いだからか、士気がハンパねえ……仕方ないが倉内に撤退だッ…!」
藤田と海野の軍を蹴散らした景義は、軍を戸神と高尾両所の要害へと登らせて倉内を見下ろします…!
景義「…勝ったな…ここから一気に沼田城を攻め落とすぞ!(原文:只一時に可責落)」
…と、景義が3,000余騎を三手に分けて沼田を攻める作戦を立てていると……
泰清「…よしッ!…ココだッ!!…このタイミングしかねえッッ!(原文:能時分)」
真田にそそのかされた金子泰清が中山、山名、岡谷の手勢300余騎を引き連れて、戸神高王山城の景義のもとへと伺います…!!
…その手の中にはッ…!!
…町田の観音堂において町田坊の同行(修験道の修行者)“一音坊”という者に偽造させた起請文が握られていました…!
…そして、この起請文は…なんと血判を鶉の血で偽造したものだったのです!――なんという…なんという底知れぬ悪意だろうかッ!!――
(このとき一音坊が「…クククッ……ウズラの血で偽造ズラ!」…とか言ってたらちょっと面白い。)
………
警固「…大将~、なんか沼田城から使者が来てるんですが…」
景義「…なんだと?」
――コツーン……コツーン……――
泰清「…久しぶりですな八郎どの……いや……沼田平八郎景義さま……」
景義「…!?……あ…あなたはーッ…!!」
泰清「(…ニコッ…)」
景義「お、伯父上…伯父上なのかッ?…それに…オマエは…山名弥惣…か…?」
弥惣「………」
景義「…伯父上…あの時…倉内に置き去りにしてしまったあなたを…どれほど心配したことか……よくぞ無事で…」
泰清「(ううッ!…コイツ(景義)にいま余計なコトをしゃべらせるのはマズイッ!…ヘタしたらオレのほうが山名と岡谷に〇されるぜーッ!!)」
景義「…伯父上?」
泰清「…い…いやその💧……今日は使者として参りましたもので…積もる話はまた後で……
…それよりも!…景義さまッ!!…沼田城内では、先ほどあなたの軍に散々やられた藤田と海野をはじめとした多くの者の間で、すでに『降伏して倉内を明け渡す』ということで話がついておりますッ…!……私はそれをお伝えに参ったのでございます…(原文:藤田、海野を始め、倉内を明渡し主君に請可申上之使也)」
景義「!!」
………
景義「…伯父上――オレは勝ったのか?――本当にもう…オレは沼田に帰れるのか?」
泰清「(ブワァ~ッ😭)…八郎どのぉォ~……オレだって!…オレだってずっと……待ってたんだゾ~…!!」(泰清の茶番原文:さめゞゝと哭て申ければ)
景義「…お…伯父上ッ!!」
―――――
…もしもこの時の使者がこの男――金子美濃守泰清――でなかったなら…
…景義の母“ゆのみ”の面影を映す…この男でなかったのならッ…!
…沼田景義ほどの人物が、この程度の策略にだまされていただろうか?
――ノスタルジアにはどんな人間も抗えないのか?――
(ココの原文には「御因みの者なれば尤と思召」とあるだけです。すぐれた文学作品は多くを語らない。)
…こうして沼田景義をたぶらかした金子泰清は、3月15日、彼を町田の観音堂へとおびき出しました…。
泰清たちは甲冑を脱ぐと…
泰清「さあ八郎どのも…そんな重苦しいものははずして…」
景義「…あ…ああ、そうだな…」
泰清「(ニヤリ)」
…と、そこへ沼田城から迎えの者がやってきました。彼らも甲冑は着けていません…。
景義「…お…オマエたちは…!……山名小四郎ッ!…それに下沼田豊前ッ…!」
小四郎「…!(景義さま!…本当に帰ってきてしまったのか?…ああ…なぜ今になって…このような形でッ!)」
下沼田「…景義さま……このたびはご本意を遂げられ…誠におめでたいことと存じます…(原文:御本意目出度)」
景義「…下沼田ッ!…ありがとう…!!」
………
泰清「…さて、では…参りましょうか!…いよいよご帰還でございますね…」
まず金子泰清が案内として先頭に立ち、次に景義、次に小姓の羽根川小膳、岡谷十太夫、続いて石橋与惣左衛門、津久井文左衛門、同じく与兵衛、鶴川左京、中村新左衛門、膳隼人……そのほか20人ばかりが町田観音堂から沼田城内へと向かいます…!
景義はついに水手曲輪から入城します…。
――かつて自分を慕ってくれた人たち……懐かしい景色……12年前…遠い冬の日に失ったものを……オレは取り戻せるのだろうか?……向こうには出迎えの山名弥惣の姿が見える――
高王から一足先に帰ったのか…城内で待っていた山名弥惣は膝をつき景義を出迎えます。
景義「(…弥惣…何も語らず会津へと逃げたオレを許してくれるだろうか…いや…失った日々はこれから取り戻すんだ)」
…その時!
弥惣(――ギラッ!――)
――シュバッッ!!💥――
景義「!?」
突然!…弥惣は三尺三寸の刀を抜き打ちましたッ…!
景義「…な…」
――なぜ?…それに不意を突かれたとはいえ…兵法達者である自分が弥惣の剣を躱せなかった?――
弥惣「…確かに…12年前のオレの剣なら…アンタに“かすり”もしなかっただろうぜ……
……だがよォ~……景義さま…12年前のあの日から……オレは1日だってアンタのコトを想わない日はなかったぜ……だから…」
景義「………」
………
――ドバァァアアッッ!!(出血)――
景義「…や…弥惣……」
――その瞬間ッ!!――
―――ドスッ―――💥――
――――💥――ブスッ――
――ズドッ――💥――――
景義「…グブッ!?」
――左脇に激痛を感じた景義が振り返るとそこには――
景義「……金子…?
……………金子ッ!!
……………金子ォォオッッ!!」
(原文:金子ゝゝと三聲)
泰清「ひえっ…!(ヤベェェ~ッ!!……コ、コイツまだ動く?)」
………
弥惣「…ああ……景義さま……なんというお姿に……しかし……もうこれ以上苦しむことはございません……」
景義「………」
|
|
💥 ズドンッ!
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…こうして、沼田平八郎景義――御年42歳――は、水の手曲輪の露と消えたのでした…。
その首(しるし)は山名弥惣があげました…。
羽根川小膳「…か…景義さまーーッ!?…バカなッ!…そんなバカなーッ!!」
景義の小姓である羽根川小膳は太刀を抜き応戦しますが…
岡谷「…小僧……許せよ…」
――ズバッ――💥
…岡谷十助(十太夫?)により一太刀で討ち伏せられてしまいます…。
(ちなみに『沼田根元記』だと、このあと一度起き上がろうとしたところを、さらにたたみかけられ、斬り〇されています…。小膳かわいそう…。)
残された景義の仲間たちは刀を抜き連れて戦いますが…
“かまりのもの”(忍者?)たちがあちらこちらから現れ、彼らを切りつけ、あるいは弓を射かけ、そして鉄砲を打ちかけました…!
…この惨劇から生き残った景義の仲間たちも散々な目にあって逃げていきました…。
…景義の首(しるし)は供饗(くぎょう)に乗せられ、真田昌幸のもとへと運ばれました…。
昌幸は床几(しょうぎ)に腰かけ、海野重代の備前長光の太刀を佩き、黒糸威の鎧を着け、龍頭の兜の緒を締めました…。
昌幸の弓手馬手(ゆんでめて:左右のこと)には藤田信吉、海野輝幸、丸山土佐守、矢野半左衛門、川原左京、春原勘右衛門、出浦上総介、大熊五郎左衛門、深井三弥、富沢豊前守、田口文左衛門、高井甚八…の12人が甲胄を帯びて伺候していました…。
昌幸の三尺五寸の太刀を木村戸右衛門が、藤田の太刀を塚本舎人が、海野の太刀『茶臼割』を佐藤軍兵衛が…それぞれ持って近侍していました…。
そこへ山名弥惣が、甲冑を帯びて昌幸の前に伺候します…!
昌幸「(…コイツ…山名信濃守の…せがれの弟のほうだっけ…そうか…コイツが…)」
弥惣(……ギロッ…!…)
昌幸「(…こわ…こりゃあ態度を間違うとオレも沼田衆にブッ〇されそうだぜ…)」
(※ここの心中のセリフは妄想ですが……弥惣は景義〇害の時は素肌だったのが、ココでは甲冑を着けてくるんですよね……まあ首実検の作法なのかもですが……複雑な気持ちだったでしょうね…)
…景義の首(しるし)を載せた供饗は、出浦上総介に抱かれて本丸を3度持ち回され、作法に則った首実験が行われました…。
昌幸「…沼田平八郎景義!…なんと勇ましき大将であったことか…」
沼田衆「(…ううッ!!😢…景義さま…)」
(※原文の「昌幸公は勇々鋪大将哉と人々感じけり」の部分を「“昌幸は勇ましい大将だ”と人々は感じた」と読むか「昌幸が『(この首は)勇ましい大将だ』と言ったので人々は感動した」と読むかで解釈が違うが……つーか後者はムリヤリっぽいけど…コッチのほうが好き。)
――首実検の後――
弥惣「(…!?…あれは…)」
…弥惣は召使いである弥左衛門を見かけます…。
弥惣「おい…弥左衛門ッ…なんだソレは!?」
弥左衛門「あ…弥惣さま…コレ?…なんか水手曲輪の下に捨てられてたんですが…」
弥惣「…見せろ!」
………
弥惣「(…!!…コレは……)」
それは景義の星兜でした。
――ブワァアッ(涙)――
弥惣「…景義さま…景義さま……ッ!!」
…その兜は山名家の宝とされました…。
(※この辺の原文「かくて山名弥惣が下人弥左衛門と云し者、景義殿の星甲を水手の下に捨たるを見付、山名の重宝に成たり」……なんか唐突で意味深な描写ですよね。首が飛んでった…とかの伝説と合わせると…真田に忖度してハッキリ書けなかった何かがあるんじゃないか……なーんて妄想をかきたてますよね。)
…さて、真田昌幸は景義軍残党の兵たちを追討するため、南越生へと討手を差し向けました…!
残党たちはみな、五輪峠や“なみての峯”を越えて逃げていきました…。
…が!
…景義の舅である矢羽の家老、石橋与惣左衛門父子は逃げ遅れてしまい、砂川のあたり“滝坂”という場所で討手の尾沢与惣、桑原与左衛門たち5人に追いつかれてしまいます…!
尾沢「…東上州からはるばると沼田まで来たようだが…残念だったな…!」
石橋「…ここまでか……だが…婿どのをみすみす討たれて…このまま帰るのも気が引けたもんでな…道連れにしてやる!…かかってこいや!!」
――💥💥――
――💥💥――
石橋「……!!……繁勝さま…お許しください…」
――石橋父子――討死――
さて、昌幸は情深い大将であったので、景義の骸を下沼田村に葬り、古跡――かつての沼田氏の居城である小沢城跡――に一宇の禅寺を建立しました…。
この寺は「一途に平八郎どのの御供養を」するためにと“法喜庵”と号しました…。
そんな折、吉祥寺門中の“大同庵”という、以前に平八郎景義と縁のあった僧は…
大同庵「景義さまが帰ってきたっつーじゃね!?…これはぜひ酒の一樽でも持って応援に行かねば!(原文:此度御見届に参らん…一樽を捧げる)」
…と前夜に景義が亡くなったことを知らず、御陣所へと向かいました…。
(※『沼田根元記』によると、この御陣所は南越生のことらしいですね。)
大同庵「へへ~😄…景義さまに会えるとイイな…オレのこと覚えてるかな?…酒よろこんでくれるかな~?」
討手の兵「おいッ!…なんだ貴様は!!」
大同庵「…え?…え?…」
大同庵は真田が残党狩りのため放った討手に捕らえられてしまいました…。
…こうして捕らえられた大同庵が沼田に連れていかれる途中……沼田衆の久屋太郎がこの様子を目撃します…。
久屋「…ん?…アレは……川場の大同庵の坊主じゃねえか…」
………
久屋「ははッ…!……おい坊主ッ!……首に縄かけられて見苦しいカッコだな!…オマエ景義さまが〇されたのも知らずに川場からノコノコ出てきたんだろ?…まったく笑える有様だぜッ!」(『加沢記』のこの部分は「散々に笑ければ」とあるだけですが、『沼田根元記』のほうには「やれ入道め坊主くびになわ付られ見ぐるしきてい也」というセリフがあります。ヒドイぜ久屋……)
大同庵「…!!」
――ゴゴゴゴゴ――
大同庵「…太郎兵衛ェ~ッ!!…『笑える』とはテメーのことだぜッ!…オレでさえこの有様だ…もともと不義理者のテメーはそのうち陰謀がバレて…もっとヒデェ“メ”に遭うことだろうぜッ!!…その日が来るのを楽しみに待っててやるぜこのマヌケッ!!(原文:其方こそ逆心の本人也、頓て陰謀露顕せん)」(『沼田根元記』だと「やれ太郎兵衛め汝こそ本人よ我さへかくのごとし、をのれは常々ふぎり者なれば大法度にあふべし」でコッチのほうが好き。太郎兵衛ってのは久屋太郎のことです。)
久屋「(…カァァーッ😳)」
これを聞いた久屋太郎は顔を真っ赤にしてしまいました…。
「君子は狂人(刑人?)に見えず」とはこのようなことを言うのでしょう…。
…その後、大同庵は甲州で牢に入れられましたが、のちに許されて、すっかり髮を長く伸ばし故郷へと帰ってきたそうです…。
―――――
次回「久屋太郎、マジでひどい目に遭う」の巻
ちなみに後半は「丸山土佐守、とばっちりでひどい目に遭う」の巻…です。
お楽しみに!
―――――
…さて、後に久屋太郎とその伯父である左馬介は、謀反の企みがバレて捕まり、羽交い絞めの形で縛られ笠を被せられて倉内へと連行されました…。
久屋「…チクショ~ッ!…あの坊主(大同庵)の言ったとおりになっちまったぜ~💧」
三ノ門に来たとき、久屋は彼の警固担当の真下勘介に…
久屋「…おいッ!…おい真下ッ!…ワリィんだけどさ~…笠の緒が緩くなっちまって気持ち悪ぃんだよ!…オメーちょっと締め直してくんね?…侍っつーのはよ~…こんな時はお互い様だんべ?(原文:笠の緒緩く成たり、〆直したき)」(『沼田根元記』だと「笠のをゆるまり候、侍は相互のことしめなをして給り候へ」)
…と懇願します。
…すると人のいい真下は…
真下「…ったく…しょうがねぇなぁ~(原文:さらば)」
…と、久屋の笠の緒を締め直してやり、手を引こうとしたその時ッ!
――スルッ――
なんと久屋は縄をすり抜け…たちまち真下の刀を抜き取りましたッ!
真下「あッ!?」
――ズバッ!💥――
真下「ぐはッ!!」
久屋は真下を一太刀に討ち伏せると、左馬介の方へ向かって一文字に駆けていきました!
久屋「ヒャッハーッ!!…左馬介のオジキ~!…いま助けるぜ~!!」
――スパッ!(左馬介の縄を切った音)――
左馬介「おう太郎!…助かったぜ」
久屋「…オレがもうひと暴れすっからよォ~…オジキはそのスキに逃げなッ!」
左馬介を解放した久屋は四方へ斬りかかっていきます…!
久屋「オラオラーッ!!」
――💥―
――💥―
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💥
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💥
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―💥――
警固の侍たち「ぎゃあ~ッ!!」
…と、そこへ…
??「…これはッ!?…いったい何の騒ぎだ…?」
久屋「…!…アンタは……」
久屋太郎の前に現れたのは…城普請のために倉内に来ていた丸山土佐守でした…!
久屋「(ニタァ~ッ)丸山どの~ッ!!…いいトコに来たな~…アンタを道連れにできるなら本望だぜェ~ッ!!(原文:丸山殿)」
丸山「…!!…いいだろう…相手になってやる…(原文:心得たり)」
久屋「オリャッ!!」
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丸山「ヌンッ!!」
――💥―
―💥――
…実は久屋太郎は、沼田景義と同じく、安田という武芸者の弟子であり、兵法の達人でした…。
久屋は丸山に対し13か所も斬りつけました……が…!!
久屋もまた、丸山から3か所の斬撃を受けていました…そしてそのキズはどれも深手だったのです…!
久屋「…うッ……まだ……」
丸山「…もういい…久屋…オマエはたった一人でよくがんばったよ……戸部ッ!…トドメをくれてやれ…」
久屋「…ちっ……これもあの坊主(大同庵)を嗤った報いか……」
………
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💥 ズドンッ!!
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――久屋太郎――戸部藤左衛門に首を落とされ死亡――
…そして、久屋太郎によって逃がされた伯父の左馬介も、堀の中へ飛び降りた際に腰を打って骨折し動けなくなり、ついに2人とも磔にされてしまいました…。
………
矢野「…と、いう事件があったそうで…」
昌幸「へえ~!…それは丸山のヤツ災難だったな~…それにしても久屋のガキ…ずいぶんと大立ち回りしてくれたじゃねェかよな~…」
矢野「はぁ…なんでも久屋太郎のやつ『愛宕(あたご)』という神さまを熱心に信仰していて…“有事の際には最後の太刀打ちができるように(原文:若し何事も有ん時、最期の太刀打申様)”…と、常日頃から祈っていたとか…」
昌幸「愛宕権現かぁ…そういえば金子美濃守のヤツも一生懸命拝んでたな~
…実際…真下勘介が〇されて、家老の丸山が何か所もキズを負わされてるワケだからな~…」
矢野「…巷では安田(一門)の所願が叶ったとか…愛宕の御恵みだとか…ウワサが立ってますね~…(原文:誠に真下勘介を打〇、家老丸山に数ケ所手を為負けるは安田の所願の所也、偏に愛宕の御恵みと人々申あへり)」
(沼田衆にも安田の弟子は多かったのでしょうか。…沼田景義と同門の彼らが反乱を起こさないよう、真田は沼田景義を念入りに供養したことでしょう。)
丸山土佐守はこの時に受けた傷により手が不自由になったとか…。
そして昌幸は注進のため四月下旬に甲州へと参府しました…。
天正九年辛巳、先主沼田平八郎平景義は先年会津へ浪人し給けるが近年は東上州女淵と申す処に住給ひて由良殿の一族矢羽殿の聟に成り給ける。沼田は因み有し者内々密通したりける。由良殿御念頃也、一度本領に帰せんとて其企てあるを藤田、海野、聞給て昌幸公へ告たりければ、早速甲州を御立有て岩櫃に御着有り、金子美濃守泰清は景義の伯父なりけり、此縁を以て万鬼齋御取立、沼田執権也けるが当世まで□□有りける、渠を以て討にしくは無しとて長門守と評定有ける処、矢羽殿より家老石橋与惣左衛門父子被附、由良殿より加勢に由良佐左衛門尉、桐生伝左衛門、大胡十兵衛、那波大学介、愛久沢庄左衛門尉、其外近辺の城主十騎廿騎合力有て其勢二千余騎、同年三月朔日に新田を打立、同三日に勢田郡糸井の津久井刑部左衛門尉が宿所に御着有て、翌四日南越生瀬に陣を被移ければ先方重恩の御家人味方と申て、倉内在々の武士引拂ゝゝ景義へ参陣す、先づ一番に和田主水、発知刑部少輔、久屋平六、岡内平内左衛門、鶴川佐衛門入道、同左京、同三郎左衛門、小野大膳、桑原玄蕃、津久井刑部左衛門、同又左衛門、同与兵衛、星野図書介、其外在々の農民等迄馳参りける程に無程三千余騎に成て阿楚の用害に移られければ、近日御本意疑なしとて寺院仏寺別当社人まで皆々御手に属しけり。昌幸公此由を聞て窃に倉内に御越被成、金子美濃守に被仰けるは貴方智略にて此度八郎殿を討給へ、依之屋形様よりも貴方より外なしとて御証文被遣けるとて金子に御渡有りける、証文に曰く、
其方以計策彼者於沼田於令生涯者、川西千貫文之処可宛行候、猶真田安房守可申候
恐々謹言 二月十二日
勝頼 朱印
金子美濃守殿
猶又無相違之旨、起請文御認有て跡部尾張守、真田安房守と被遊たるを金子にこそ御渡有り、依之大欲の金子にて旧好を忘れ此儀に納得してければ金子は中山右衛門、山名弥惣、岡谷平六など談合して景義へ御味方申さんとて申入けり。扨同十一日に跡方により押寄せ、田北之原へ寄給ければ藤田、海野、八百余騎にて出向戦けるが多勢に無勢不叶して倉内に引入ければ、景義は戸神、高尾、両所の要害に取上り倉内を目の下に見下し只一時に可責落と三千余騎三手に分て寄んと被議ければ、能時分とて金子、中山、山名、岡谷、手勢三百余騎引率して戸神に伺候して町田の観音堂に町田坊同行一音坊筆者にて上巻の起請文(鶉血を付たる也)進上申し、藤田、海野を始め倉内を明渡し主君に請可申上之使也と申しさめゞゝと哭て申ければ御因みの者なれば尤と思召、三月十五日町田の観音堂までおびき出し彼処に金子を始め胄を脱ぎ八郎殿も素肌に被為成ければ城中より為御迎山名小四郎、下沼田豊前、皆素肌にて参りければ御本意目出度と申上、金子御案内に先立、其次に景義、其次に御小姓羽根川小膳、岡谷十太夫、其次に石橋与惣左衛門、津久井文左衛門、同与兵衛、鶴川左京、中村新左衛門、膳隼人其外二十人斗、水の手曲輪より御入候、其時山名弥惣為御迎罷出膝まづく風情にて三尺三寸の刀するりと抜き景義に切て掛りければ金子隙間もなく景義の左の脇に三刀さす、其時痛はしや八郎殿金子ゝゝと三声被仰、是を最後の御辞として御年四十二、水の手曲輪の露と為消給ひける、御首をば山名弥惣討捕ける。羽根川太刀抜合けるを岡谷十太夫助太刀にて只一太刀に討ふせける、其外抜連て掛りければかまりともの共方々出向て切て掛り弓を射かけ鉄砲を打掛ける程に散々に成て逃行ける。御しるしをくきやうに載参らせ、昌幸床几に腰かけられ海野重代備前長光の太刀佩給ひ黒絲威の鎧、龍頭の甲の緒締め、弓手馬手に藤田信吉、海野輝幸、丸山土佐守矢野半左衛門、川原左京、春原勘右衛門、出浦上総介、大熊五郎左衛門、深井三弥、富沢豊前守、田口文左衛門、高井甚八十二人甲胄を帯び伺候す。昌幸公の三尺五寸の太刀は木村戸右衛門、藤田殿の太刀は塚本舎人持之、海野殿の茶臼割の太刀は佐藤軍兵衛持之、山名弥惣は甲冑を帯し御前に伺候す。くきやうは出浦上総介本丸を三度持廻り実験の作法取行ける。昌幸公は勇々鋪大将哉と人々感じける。かくて山名弥惣が下人弥左衛門と云し者、景義殿の星甲を水手の下に捨たるを見付、山名の重宝に成たり。去程に南越生へ討手を差向られけるに皆々五輪峠なみての峯を越え落行ける。石橋父子退をくれて砂川辺瀧坂と云所にて尾沢与惣、桑原与左衛門等五人にて追駆為討留。昌幸公情深き大将にて御座せば八郎景義のむくろを下沼田村に葬り、古跡に一宇の禅寺を建立有て一向平八郎殿御供養とて法喜庵と被為号ける。其節吉祥寺門中大同庵は平八郎殿へ昔御恩の僧也ければ此度御見届に参らんとて前夜の御生涯は不知、一樽を捧げるとて御陣所へ参けるを討手の者見付搦捕けり。久屋太郎此由を見て散々に笑ければ大同庵立腹、其方こそ逆心の本人也、頓て陰謀露顕せんと申したりければ太郎赤面したりけり、是や君子は狂人に不見とは掛る事をや申べき。大同庵甲州にて籠舎也けるが其後御免有て髮長く生え古郷に立帰る也。久屋太郎伯父左馬介、逆心顕れ被召捕羽かへ付にて笠かぶせ倉内へ参る。三ノ門にて太郎警固の真下勘介に向て笠の緒緩く成たり、〆直し度と申ければ、さらばとて笠の緒を〆直し手を引んとする処を縄をすり抜き真下が刀を抜収、真下を一太刀に討ふせて左馬介が方へ向て一文字にかゝり縄を切り放し四方へ切て廻りけり。其節御城普請有り丸山土佐守、風と出会ければ丸山殿とて切て掛りければ丸山心得たりとて抜合相戦、太郎は安田が弟にて兵法の達者也ければ丸山を十三ケ所切けり、太郎は三ケ所手負けれ共何も深手にてよはりければ、戸部藤左衛門立会、首を打落しけり。左馬介は堀の内へ飛入り腰を打折りけり、両人ながらはた物に掛させらる不思議也。太郎元来愛宕を信じ若し何事か有ん時、最期の太刀打申様と祈けるが誠に真下勘介を打殺、家老丸山に数ケ所手を為負けるは安田の所願の所也、偏に愛宕の御恵みと人々申あへり、丸山は此手疵にて手不自由なりと申けり。扨昌幸公為注進四月下旬甲州へ御参府なり。