万鬼齋。
湯呑ちゃんとの間に産まれた平八郎景義がかわいくて仕方ない。
平八郎。
安田なにがしという男から兵法を授かる。
ゆのみちゃん。
エロずるがしこい。
『加沢記』真の主人公(当会の主観)。
湯呑ちゃんの兄の新左衛門。
この章で“美濃守泰清”として産声を上げる…。
沼田家臣の筆頭格だったが不倫をでっち上げられ逃亡…。
沼田(倉内)城主。
川場の隠居(万鬼齋)との仲直りを喜ぶ姿が痛ましい…。
さて、タイトルのとおりこの章から舞台が沼田になります。
そして、加沢記を冒頭から紹介し始めてからもうだいぶ経ちましたが、この章でようやく加沢記の主人公(当方の独断と偏見です)が登場するんですね~。壮大な物語ですね~。
事の発端として、顕泰(沼田万鬼齋)が天文(1532~55)年中に利根郡東小川の温泉で浴湯をした際、同郡追貝村の名主である金子なにがしの娘を見初め、彼女を寵愛するあまり「湯呑」と名付け、仮初にはべらしていたのですが…
万鬼齋と湯呑との間に子供が一人誕生し「八郎」と名付けられました…。
八郎の御守役として、母(湯呑)の伯兄(長兄)であり追貝村の名主である金子新左衛門という者と、三橋甚太郎という侍が差し添えられ、ニノ丸に置かれました。
八郎が11歳の時、川場の郷にある吉祥寺へ手習のため登山(今でいう入学)しました…。
彼の器量は常人を遥かに越え、体も大きかったので、15歳で元服し「沼田平八郎平景義」と名乗りました…。
その頃、安田という兵法の名人がこの国に来ていたので、景義は沼田に招かれた彼を師とし兵法を習いました…。
安田「…!…こ、この男…力(ちから)万人に優れ、敏捷(はや)き事、世に比べるものなし!…まさに摩利支天の再来!」(原文:御力万人に勝れ敏捷き事世に並なければ兵法の名誉摩利支天の尊●か…)※安田というか世間一般の景義の評価ですけどね
景義「…!?…教えてくれ師よ…“摩利支天”とは一体…?」
―――――
摩利支天…
仏教における天部の一尊である。陽炎を神格化したものとして伝わり、その特性から我が国では特に武士の守護神として信仰されている…。
…ちなみに上州において、『念流』を元に確立した『馬庭念流』を伝える樋口家でも摩利支天を信仰していたというが、安田及び沼田景義との関係は定かではない…。
――中津川大観著・時源出版刊『兵法と信仰の起原異聞』より――
―――――
陽炎を神格化したという摩利支天…
陽炎はまた「はかなさ」の象徴でもあります…。
悲運の武将と言われた沼田景義を摩利支天に例えたのもまた、加沢平次左衛門の演出のひとつなのかもしれませんね。
『加沢記』の作者――加沢平次左衛門はこう述懐しています。
加沢「…永禄9(1566)年に安田に書かせた、いわゆる“返り起請”ってやつ?…景義も同日に血判突いて与えたっていう起請文にさ、『永禄九丙寅年閨八月五日沼田平八郎平景義』ってハッキリと書かれてたんだよね……オレはそれをウチにたまたま寄った、とある古い侍スジの人物に見せてもらったんだけどさぁ……なんてゆーか――ああ…世間に伝わってる沼田景義の話はホントウだったんだなあ――…って……まぁエライ感動したわけよ…」(原文:于時永禄九年安田にかへり起請を為書、景義も同日に血判以て安田方へ取遣し給ひける。御起請文に永禄九丙寅年閨八月五日沼田平八郎平景義と有ける。在家に古き侍筋の持者たるを披見したりければ世の人申傳たるも実也と感じけり。)
さて、万鬼齋はこの平八郎(景義)がカワイくて仕方なかったので、彼の伯父である金子新左衛門に「美濃守泰清」の役職と永楽80貫文の知行を与えたうえで、弥七郎(朝憲)の家臣にしてしまいました…。
…この待遇は、沼田家代々の老臣一族である和田掃部介と同格だったのです…!
「これこそ沼田氏が滅亡した原因にほかならず…!」(原文:是ぞ沼田の滅亡の基也と諸人これを悲めり)と、諸人がこの事を悲しんだのでした…!!
それにしても加沢平次左衛門の泰清ディスりはヒドイ…。
そして…景義の母公(湯呑)は兄の泰清とはかりごとを巡らせます…。
湯呑「…はぁ~…早く平八郎を沼田の総領主にしたいわぁ……兄サマ(泰清)~、どーにかして弥七郎のヤツをぶっ〇すイイ方法はないのォ~?」(原文:平八郎殿を沼田総領主に成ばや……謀を以て弥七郎殿を失ひ奉るべし)
泰清「…そうだな~…」
………
泰清と湯呑の兄妹は機会のあるごとに万鬼齋へ讒言して弥七郎との中を不和にしようと試みますが……
泰清「…ぬぅ~…!…万鬼齋のオッサンだけならチョロイもんなんだが……ヤツの家臣どもが意外と優秀で付け入るスキがない!……特に和田掃部のヤロウが邪魔だな…」
湯呑「そーねぇ…アイツ(和田)さえ消えれば…万鬼齋さまを思いのままに操る自信はあるわ…」
泰清「…妹(湯呑)よ…何とか和田を消す方法はないかね?」
湯呑「…うーん」
………
湯呑「…Σ(゚▽゚)!」
(泰清と湯呑の悪だくみ原文:此上は和田掃部を失ひ思ひの侭になさん)
湯呑ちゃんは結果的に沼田氏を滅ぼす手段として非常に効果的な行動を取ってますよね~
…まさか上杉か北条の忍だったのでは?…と妄想。でも勝手なイメージだけど上杉も北条もあまりキタナイことはしない気がするな~…将来を予見した武田の命を受けた真田が送り込んだのかな~…真田ならキタナイことしても納得(超偏見)
…さて、その夜(かどうかは知らんけど)
湯呑「…ねぇ~万鬼齋サマぁ~❤…“御曲輪の御前”さま…っているじゃない?…」
万鬼齋「ああ…弥七郎の御奥な……アレがどうかしたか?」
湯呑「…あのヒトね~…どうやら和田のヤツとデキてるらしーのよォ~……アタシそういうの良くないと思うんだけどなぁ~❤」(原文:彼御前と和田と密通の由、天然)
万鬼齋「なんだと!?……あの野郎!!…よりによって主君の嫁に手ェ出すとは…!」
湯呑「(…ニヤリ)」
万鬼齋は和田を川場へ呼び出し…
万鬼齋「和田~…テメェ何してくれてんだコラ!」
和田「…ハイ?…いったい何の事おっしゃってます?」
万鬼齋「『ハイ?』じゃねーよテメェ…弥七郎の御奥と不倫してんだろ?」
和田「は?(呆怒)」
………
和田「(…こ、このオッサン💢…いくら何でもありえねーだろ……そりゃあ、御曲輪の御前さまを敬愛してはいるけれども……ハッキリ言ってタイプじゃないっつーか……い、いやそーいう問題ではなく……完全に事実無根だっつーの!)」(原文:流石なりけれども…)
万鬼齋「…どうした?…何か申し開きしてみるか?」
和田「(…クソが!…やってねーことの証明なんてできねーよ…“悪魔の証明”ってヤツだぜ……つーかこのイカレ野郎に何言ってもダメだな…このままじゃ〇される未来しかねーぜ…)」(原文:…世に申開難く)
…こうして和田掃部介(31歳)は永禄11(1568)年の秋の頃、上沼田の館を忍び出て高野山に入り、花の笄(こうがい)を剃こぼし、身を墨染となしました…。
つまり沼田を出奔し高野山で髪を剃り僧になったということですね。
和田が出奔したとういう情報が川場に伝わると、平八郎(景義)を領主にしたい母公(湯呑)と金子美濃守は…
金子兄妹「フフッ…これで我々の思いどおりよ…!」(原文:本望を遂げたり)
…とほくそ笑みます…。
…そして、もはや万鬼齋は彼らの操り人形と化しました…。
和田がいなくなったことにより万鬼齋は湯呑のテンプテーションがガンギマリです。聞仲がいなくなった後の紂王状態ですね。
年が明けた永禄12(1569)年の正月5日…万鬼齋は、吉祥寺の住僧に久屋、齋藤三河太郎入道の裔孫である塩野井又市郎たちを付けて、弥七郎(朝憲)へ向けた使いとして送りました…。
彼らが届けた手紙の内容は…
―――――
近年不孝之旨和田為業也、聞今以後悔無其益、掃部在所退去之上者無子細、早我館え参向待所也、委曲塩野井又市郎可申述候謹言
正月五日 万鬼齋入道顕泰在判
沼田弥七郎殿
―――――
内容…
「なぁ弥七郎…考えたら最近オレとオメーが仲悪かったのはさ~…和田のヤロウが原因だったんだよな……まあ今さらどーでもイイけどさ……掃部(和田)のバカもいなくなったことだしよォ~…仲直りすべーじゃね?……つーワケでさ、早速だけどオレん家に来ねえ?…細けーことは塩野井に聞いてくれや。」
―――――
塩野井はこの手紙を持って早馬で午の刻(昼頃)に倉内の城にやって来ました。対応したのは恩田越前守、金子美濃守、岡谷平六左衛門です…
恩田「…万鬼齋様からの手紙?(…あのオッサン…もはや正気じゃねーからな~…大丈夫か?)」
泰清「…ハイハイ!…すぐに取り次ぎますよ~!(ニタ~)」
恩田・岡谷「……」
こうして弥七郎(朝憲)は吉祥寺の住僧と又市郎に対面し、この手紙を三度も戴いてから謹んで読みました…。
弥七郎(朝憲)は喜びました。
朝憲「(…!…ああ…やっと父上と仲直りできる…)…又市郎!…ご苦労だったな!…早速明日行くと伝えてくれ!」(原文:早速及御返答明日出仕可仕)
…と、塩野井に杯をふるまい、さらに刀工の泰重が打った刀を褒美に与えました…。「泰重」っつーのは権田村出身の刀工らしいですね。沼田景義の刀を打ったのもこの人です。
又市郎「(…ふゥ~…うまくいったぜ…)」(原文:大事の御使を仕済したり)
泰清「(ニヤリ)」
塩野井又市郎は金子美濃守とコッソリ頷き合い、川場へ帰っていきます…。
…弥七郎は二人のこのやり取りを、夢にも知らなかったのでした…。
そして又市郎と金子の無言のやり取り…「こうなつきして」…邪悪ですね~
弥七郎は夜が明けるのも待ちきれず、家来に声をかけ、出かける用意をします…。
家来たち「…朝憲さま…川場に行くのに、そんな僅かなお供だけで大丈夫ですかね?」
朝憲「…ばか…オレは父上に会いに行くんだぞ……親に会うのに戦争みたいな支度をしていくヤツがいるか…」
…と、わずか50人程の供廻りで、騎馬の御供は長谷(岡谷?)平六左衛門と下ノ源次郎だけでした…。
こうして、永禄12年正月6日の朝早く、朝憲は倉内の城を出発し、下川場の万鬼齋の館へと参上しました。
万鬼齋のほうは兼ねてから用意していたことなので、星野図書介を生品の里まで迎えに寄こしました…。
星野図書介は下馬して待っていました。弥七郎(朝憲)は彼を見つけると…
朝憲「やあ図書介!…久しぶりだな…最近オレと父上を仲違いさせよーとしてるヤツがいるみたいでなぁ…(まぁ誰とは言わねーが…クソ女め)
…情けないことに、ここ2、3年は父上のお顔も見てないんだ…」(原文:珍しの図書介、讒者の故に此二三年は父の御顔を不奉拝…)
図書介「………」
朝憲「…そんな状態で年月が経ってしまったが……やっと許してくれたみたいでな……こうして御館へ参上できることになったのも仏神の御加護かな?」(原文:空しく年月を過けるが此度預恩免今日御館へ参る事偏に佛神の御加護を難有)
図書介「…え…ええ…良かったですね…弥七郎さま…」
朝憲「…フフ…ありがたいことだ……図書介よ…酒でもどうかね?…オレと喜びを分かち合ってくれ…!」(原文:嬉しく思は如何に)
…と、家来に持ってきた酒を取出させ、三献を干してから星野に与えました…。
図書介「(…ああ…弥七郎さま……心が痛い…)」
いよいよ朝憲は万鬼齋の館へと入館します…。
――コッ…コッ…――(足音)
……
朝憲「(…オレは…再び父上と仲良くやれるだろうか?…いや…そんな事を心配する親子はいないな…)」
そして、彼が御次の間の廊下に差し掛かったとき………
――!!――
…待ち構えていた刺客が朝憲を襲います…!
朝憲「…な?…そんな…まさかッ!…まさかーーッ!!……父上がオレを呼んだのは…オレをここで始末するためなのかァーーッ!!」
――💥💥――
―――ズドォォッ!!――
朝憲「…ぐぶッ!?」
――ドッバァアー…――
…この時の朝憲の出で立ちは袴肩衣…刺客相手にひとたまりもなく…朝憲はただの一太刀で討たれてしまいました…!
朝憲「(……おのれ…湯呑!…金子!………景義よ…おまえの周りにいるヤツらを…信用するな……)」
――沼田弥七郎朝憲 沼田(倉内)城主 36歳――(死亡)
――昔から今に至るまで、継子継母の関係は色々とあったであろうが、こんなことになってしまうこともあるのか…――と、世間の人は思ったのでした…。
…その時、誰が書いたのかは知れないが、一首の狂歌が川場の御館近くと倉内城の大手の橋の側に書きつけられました。
罪とがの むくひもしらず こがひして
ひゐるさなぎに なるはあきやす
―――――
罪科の 報ひもしらず 蚕飼して
乾ゐる蛹に なるは顕泰
――罪科には報いがあることを知らず…我が子である平八郎を後継ぎにするため…同じく我が子である弥七郎を手にかけた顕泰…ヤツは乾涸びた蛹のように…滅びの末路を迎えるだろう――
一、顕泰公天文年中に利根郡東小川の温泉に浴湯し玉ひて同郡追貝村の名主金子何某が娘を寵愛の餘りに其名を湯呑と名け玉ひて仮初に召遣ひ玉ひけるが、其腹に御子一人誕生し給ひけり、御名を八郎殿と申けり、御守に彼母公の伯兄追貝村の名主金子新左衛門と云し者と三橋甚太郎と云し士を差添てニノ丸にぞ御座ける。八郎殿十一歳の御時川場の郷吉祥寺へ手習の為め登山ましゝゝてけり、器量世に越へ大兵にてましゝゝけるに依りて十五歳にて元服し給ひ沼田平八郎平景義と名乗給ひけり、其頃安田とて兵法の名人當國に来りけるを沼田に招寄給て師に御頼有て兵法を習ひ給ふに御力萬人に勝れ敏捷き事世に並なければ兵法の名誉摩利支天の再来かと世の人申けり。于時永禄九年安田にかへり起請を為書、景義も同日に血判以て安田方へ取遣し給ひける。御起請文に永禄九丙寅年閨八月五日沼田平八郎平景義と有ける。在家に古き侍筋の持者たるを披見したりければ世の人申傳たるも実也と感じけり。平八郎殿を萬鬼齋御寵愛の餘りに金子新左衛門を美濃守泰清と官途し知行永楽八十貫文を賜り弥七郎殿の家臣に附給ひ代々の老臣御一族の和田掃部介と同役に附玉ひけり、是ぞ沼田の滅亡の基也と諸人これを悲めり。扨景義の御母公常に被思けるは平八郎殿を沼田総領主に成ばやと明くれ御舎兄金子美濃守と御内談有て謀を以て弥七郎殿を失ひ奉るべしとて折々萬鬼齋へ讒言し御中不和に為成玉ひけり、此上は和田掃部を失ひ思ひの儘になさんとて其頃弥七郎殿の御奥を御曲輪の御前と申けるが彼御前と和田と密通の由、天然と申成しければ萬鬼齋不易思召和田を川場へ被召ければ和田も流石なりけれども世に申開難くや思ひけん、永禄十一年の秋の頃三十一にして上沼田の館を忍出、高野山に入て花の笄剃こぼし身を墨染となしてけり、此由川場へ聞へければ平八郎殿を初め母公金子美濃本望を遂げたりとて、明れば永禄十二年巳正月五日に萬鬼齋より吉祥寺の住僧に久屋齋藤三河太郎入道が裔孫塩野井又市郎相添られ、弥七郎殿へ仰被遣ける其御書札に曰
近年不孝之旨和田為業也、聞今以後悔無其益、掃部在所退去之上者無子細、早我館え参向待所也、委曲塩野井又市郎可申述候謹言
正月五日 万鬼齋入道顕泰在判
沼田弥七郎殿
とぞ抜遊ける。此状を塩野井請取、早馬にて同日の午刻斗に倉内の城に来り恩田越前守、金子美濃守、岡谷平六左衛門を以て申上ければ弥七郎殿は吉祥寺又市郎に御封面有て彼御書札を三度頂戴し給て謹て拝見有て不斜御悦、早速及御返答明日出仕可仕とて塩野井に御盃を賜り泰重が打たる御刀を給りければ又市郎も大事の御使を仕済したりと思ひ金子とこうなつきして川場へこそ帰りけり。弥七郎殿此事を夢にも不知食明るを遅しと御供触有て僅に五十人斗御供廻りにて騎馬の御供には岡谷平六左衛門、下ノ源次郎斗也、永禄十二年正月六日の早旦に倉内の城を御立有て下川場の館へ被参ける、萬鬼齋兼而用意の事也ければ為御迎星野図書介を生品の里迄差被遣けり。図書介も遙に控て下馬して奉待けるが弥七郎殿も星野を御覧有て馬より下給ひて珍しの図書介讒者の故に此二三年は父の御顔を不奉拝、空しく年月を過けるが此度預恩免今日御館へ参る事偏に佛神の御加護を難有嬉しく思は如何にとて弁当の酒取出させ給て三献干給ひて星野にこそ玉りけり。夫れより御館へ入せ給ければ御次の間廊下の内に抜連て待掛たるを夢にも知ろしめさゞりければ袴肩衣を召れて出たまふを只一太刀にて奉討けり、むざんなる哉御年三十六にして継母の讒に依て被討させ給ふ、昔が今に至る迄継子継母の御事は心意可有事也と諸人是を思ひけり、其時何者か仕たりけん、一首の狂歌を読て川場の御館の邊倉内の城大手の橋の際に立たりける。
罪とがの むくひもしらず こがひして
ひゐるさなぎに なるはあきやす
とこそ書付たり。