沼田城の藤田と金子への接触を企む…と、思ったら大暴れして明徳寺城を焼き落とす。そんなお年頃(38歳)…年齢合ってる?
さーな、だってそう書いてあるんだもん。
撤退した鈴木主水を追撃するため名胡桃城に乗り込むが…。
つーかもーとおれないや。高橋右衛門の嫡子は手ごわかったぜ。
城代として明徳寺城を守っていたが…。
やべー、真田と海野が強すぎる…。
この章からいよいよ真田昌幸の利根沼田侵攻が開始されます。既に上層部の裏取引は始まっているのに、それを知らず敵味方に別れ、命がけで戦ってしまう沼田衆の悲哀を感じる場面ですね。
天正7(1579)年、北条支配下の倉内には藤田能登守藤原信吉と舎弟の彦助信清が置かれ、沼田の地衆は残らず籠城をしていました。
明徳寺の要害には渡辺左近、西山市之丞、師大助が立て籠もっていました。
一方、利根川を隔てた川田、名胡桃、小川、新巻、須川、猿ヶ京は上杉景勝に属しており、その命令で城主たちは普請し、川を隔てた合戦は止む事がありませんでした。
その頃、沼田の諸事は金子美濃守、小中、松本三太夫が仕切っていました。
………
昌幸「…って感じなんだけどよ~…何とかして倉内を掠め取るイイ方法ねーかなぁ」
…と、昌幸は沼田氏の元祖の館があった上沼田の郷「和田」という所に住む僧に相談します――昌幸は密かに工作員を差し向け、この僧と接触していたのです――。
この僧は智恵才覚に優れており、
和田の僧「昌幸さま~…沼田城内の藤田と金子には、オレから根回しして話ができるようにしておきましたんで……調略すんならいつでも行けますぜ…!」(原文:藤田、金子に別懇意成ければ、折々昌幸公の事申出し処に一段首尾宜)
…と昌幸に伝えていました…。
昌幸「(金子ってヤツ…雲谷寺経由でも報告受けてるけど、かなりチョロいヤツみてーだな……まあまだ上杉と北条でドンパチやってるし…少し待つか…)」
…と、まだ調略に取り掛からずに月日を過ごしていましたが…
昌幸「景勝のヤツ…ウチの勝頼さまに和談を申し入れたみてーだな……これで心置きなく上州を獲れるぜェ……よし!…“出ッ発”(でっぱつ)だッ!」
こうしてついに昌幸が信州から出張(デバ)ってきます…!
昌幸は上杉に属していた中山、尻高、名胡桃、山名、発知以下の武将を次々と傘下に入れました…。
これを聞いた北条氏直は…
氏直「…ンだとォ?……そりゃあうまくねぇな!……おい氏邦ッ!」(原文:不易)
北条家はその手勢5,000余騎をもって、猪股、藤田、渡辺、下沼田、恩田、久屋左馬允(ほか読めない)以下を先駆の大将にして、天正7(1579)年10月11日、名胡桃、小川の両城へと攻め込みます…!
双方激しい戦いになりました…!
名胡桃の鈴木主水重則は自ら打って出て、藤田を相手に小川島の若宮八幡宮宝前、右衛門が沢、師戸の阿弥陀寺周辺で戦いを繰り広げました…!
ここに出てくる小川島の若宮八幡宮ってのは歌舞伎舞台とかヤッサ祭りで有名なところですね。
ちなみに上毛高原駅の改札内トイレ内壁にはヤッサ祭りの写真がドでかくプリントされててビックリしますね。(男子便所しか知らんけど)
鈴木主水「…ちッ!…こりゃ多勢に無勢だな……しかも未明からの戦いでみんなくたびれてるしよ~……しかたねぇ…退却だッ!」(原文:多勢に逢其上未明よりの戦草臥)
…と、貝を吹き兵を城中へ引入れます…!
これを見た藤田の手下、塚本仁兵衛は…
塚本「…鈴木主水!…城に逃げ込むつもりか…そうはさせんッ!」
…と鈴木を追って城内に乗り込みます…。
…が!…
塚本が般若曲輪の木戸に差し掛かったとき…
??「ワリーな~ご客人…こっから先は“工事中”なんだよな~…お引き取り願るかね~」
塚本「…!?…なんだ貴様は?」
??「オレ~?…名乗るほどのモンじゃねーけど…鈴木主水の配下、“高橋右衛門の嫡子”ってトコかな~」
塚本「ちッ!…フザケたガキだ…そこをどけッ!」
高橋「あン!?💢」
――ゴゴゴゴゴ――
高橋「…この先は“工事中”だから帰れッつッてんだろーが!!……テメーも“工事”されてーのか!?…あ?💢」
塚本「(ビキッ!💢)」
――ガキィィー…!!―⚔――
――💥――
――💥――
――💥――
――💥――
――ドバァアアッ!!――
高橋「……!!」
………
高橋「……くッ…やっぱし…オレが敵うワケ…ないか……でも…ちょっと遅かったな~…もう城の守りは…固まっちまったぜ~…」
塚本「…!?…貴様ッ…時間稼ぎを……見事…!」
――高橋右衛門の嫡子――死亡――
こうして高橋右衛門の嫡子の首を討ち取った塚本仁兵衛は、氏直から感状を賜りました…。
―――――
今度於名胡桃敵壱人討捕高名感悦侯、弥可馳廻侯、仍如件
卯十一月十日 氏直 在判
塚本仁兵衛殿
―――――
内容…
「オッス塚本!…元気か?…オメー名胡桃で敵を1人討ち取ったらしいじゃね?…👍また名を上げたね~!…これからも元気で駆け回ってくれよな!…頼んだで!!」
―――――
さて、頃は11月の事だったので、沼田地方は大雪に見舞われ…
氏邦「…ちッ…これじゃあ戦にならねーな……あンまし時間かけると兵を食わせらんねーし…今回は名胡桃あきらめるッきゃねェ!」
…と氏邦は鉢形へ帰陣してしまいました…。
年が明けた天正8年、昨年から岩櫃にいた昌幸は、正月11日に名胡桃の城に移り…
昌幸「いよいよ倉内を攻め取るぜ~!」(原文:倉内を可責捕)
…と、会議を行います…!
集まったメンバーは……
海野能登守、小川可遊齋、鈴木左近、鎌原宮内少輔、伊藤備中守、出浦上総之助、植栗河内守、北能登守、大熊靱負、川原左京進、矢野半左衛門、春原勘右衛門、丸山土佐守…といった面々です…!
そして、同31日……海野中務太輔(輝幸の子の幸貞)を先掛とした700余騎は、夜の内に利根川を越え、明徳寺の城へと押し寄せ、閧の声を「どッ」と上げます…!
対して、明徳寺を守る城代の矢部豊後守や、栃原、喜田、竹内、山●、師、津久井刑部左衛門ら200余騎の勢は、城から出撃して真田勢と火花を散らして戦います…!
その頃の真田昌幸は38歳…やんちゃなお年頃(?)だったので…
昌幸「…ククク…!…行くぜェ中務(幸貞)ッ!…しっかりついて来いよ!」
…と、海野中務を従え、大長刀を水車に廻しながら真っ先に敵軍に突撃していきました…!
(…この頃は海野と仲良しだったんだなぁと思うとこの後の展開がせつなくて泣ける…)
対する矢部はたまらず…
矢部「…クソッ!…真田のヤロウ…調子コキやがって…仕方ねえ!…ズラかるぞ!」
…と、合図の貝を吹いて龍谷寺の山を廻り、倉内の城へと撤退していきました…!
昌幸「ヒャッハー!…見ろ、矢部のやつビビッて逃げやがったぜー!!…明徳寺の要害は焼き落としちまえ!…汚物は消毒だー!」
…さらに昌幸は、下沼田の辺りまで放火して暴れ回った後、名胡桃に帰っていきました…。
昌幸は奪い取った明徳寺の城に伊東備中守と出浦上総之介を置きました…。
昌幸「…フン…上手くいったな……これも和田屋敷の住僧が数年間に渡ってオイシイ情報を提供してくれたおかげだぜ…礼の手紙でも書いとくか…」
―――――
沼田へ遣之候目付度々有馳走被差越候御忠憤最神妙に存候、然於倉内御本意者任御所望、高平之内雲谷寺並門前屋鋪可進置候、隨而和田屋舗之内貴僧近年御抱之処是者令披露可渡進候、恐々謹言
庚辰二月四日
真田昌幸 在判
―――――
内容…
「オメーが沼田から仕入れてくれた情報のおかげで助かったぜ~!…マジ感謝!!……オレが念願の倉内を手に入れたあかつきにはよ~……高平の雲谷寺と門前の屋敷をオメーにプレゼントしちゃうぜ~!…あと上のモンにもさぁ~…和田屋敷のオメーの手柄はちゃんと披露しとくからなッ❤…これからも頼んだで~!」
―――――
さて、この後、沼田城の藤田は…
藤田「(…こないだの21日の合戦じゃあ、この辺りまで火ィ付けられちまったからな~……オレもそろそろ甲府へ寝返っちまおうかな~)」
…と企んでいたので、兵も出さず倉内に籠城していました…。
ところで雲谷寺というのは、元徳3(1331)年に天印和尚が薩摩国より来て開基したお寺で、保鷹山と号する無双の霊域だとか…。薩州雲谷寺の末寺で、近代(加沢平次左衛門の目線で)になってからは慈眼山舒林寺の末寺になったとか…。
天正七年己卯倉内には藤田能登守藤原信吉、同舎弟彦助信清にて沼田地衆不残籠城なり。明徳寺の用害には渡名辺左近、西山市之丞、師大助楯籠けり、利根川を隔て川田、名胡桃、小川、新巻、須川、猿ヶ京迄は景勝に属しければ景勝より下知して在々の城主普請有て川を隔て合戦止む事なし、沼田の事は金子美濃守、小中松本三太夫諸事奉行也。昌幸公何卒計策を以倉内可責捕とて沼田殿元祖の館上沼田の郷和田と云所に住ける住僧を御語らい有て数年目付の侍を被差越ける。彼僧智恵才覚の人にて藤田、金子に別懇意成ければ、折々昌幸公の事申出し処に一段首尾宜旨申遣けれども戦の半也ければ聊御計に不及給、月日を被送ける処に、信州より昌幸公出張有て中山、尻高、名胡桃、山名、発知以下降参の由北条氏直聞給て不易とて其勢五千余騎を以て猪股、藤田、渡辺、下沼田、恩田、久屋左馬允□□以下先懸の大将にて頃は天正七年十月廿一日名胡桃、小川の両城へ取詰給て手痛相戦ける処に、鈴木主水重則自身打て出、藤田と小川嶋若宮八幡宮宝前右衛門が沢、師戸阿弥陀寺の辺にて相戦けるが多勢に逢其上未明よりの戦草臥貝吹て城中へ引入ければ、藤田が手の者塚本仁兵衛続て城中へ乗入ければ、般若曲輪の木戸にて鈴木の手の者高橋右衛門が嫡子返し合て塚本と相戦けるが、終に塚本に首を被取けり。其時仁兵衛氏直の感状賜りけり、
今度於名胡桃敵壱人討捕高名感悦侯、弥可馳廻侯、仍如件
卯十一月十日 氏直 在判
塚本仁兵衛殿
十一月の事なりければ、かくて大雪降軍不成して氏邦は鉢形へ帰陣有り、明ければ天正八年庚辰去年より昌幸公岩櫃に有て正月十一日に名胡桃の城に御移有て倉内を可責捕とて海野能登守、小川可遊齋、鈴木左近、鎌原宮内少輔、伊藤備中守、出浦上総之助、植栗河内守、北能登守、大熊靱負、川原左京進、矢野半左衛門、春原勘右衛門、丸山土佐守に評定有て同卅一日に海野中務太輔先掛にて其勢七百余騎、夜の内に利根川を越給て明徳寺の城へ押寄閧をどつと揚給ければ、城代矢部豊後守、栃原、喜田、竹内、山口、師、津久井刑部左衛門を始として城を払て二百余騎打て出て火花を散して戦けるが、昌幸公は年三拾八勇兵の時也ければ相隨海野中務一陣に駒駆出し大長刀を水車に廻し切立られ、矢部貝吹て龍谷寺の山を廻り倉内の城に引入ければ用害に火を掛下沼田の辺まで放火し名胡桃の城へ被引返ければ、明徳寺の城へは伊東備中守、出浦上総之介を被籠けり、かくて和田屋鋪の住僧数年忠節に依て御着有り、
沼田へ遣之候目付度々有馳走被差越候御忠憤最神妙に存候、然於倉内御本意者任御所望、高平之内雲谷寺並門前屋鋪可進置候、隨而和田屋舗之内貴僧近年御抱之処是者令披露可渡進候、恐々謹言
庚辰二月四日
真田昌幸 在判
去る廿一日の合戦に沼田辺迄放火し給其上藤田も甲府へ忠節有んと企る折柄なりければ、軍兵も不出会倉内に籠城す、雲谷寺と申は、元徳三年天印和尚薩摩国より下り開基し給て保鷹山と号無双の霊域也、薩州雲谷寺の末寺也、近代に至て慈眼山舒林寺の末寺なり。