川場から逃げてきた生き残りの報告により、主君である弥七郎朝憲の死を知る…。
沼田家の家臣たちと川場攻めの会議を行う。
平能定。
川場から来た吉沢という商人の報告により、夫である弥七郎朝憲の死を知る…。
前橋の北条弥五郎に仇討ちの応援を要請する。
まだかなまだかな~♪…泰清の♪…報告まだかな~♪。
かつての家臣と戦うため武装を行う…。
のちの主水。平義胤。
根笹の旗を掲げて隠居討伐の先陣を切るが…。
平為信。
カヤデの旗を掲げて隠居討伐の先陣を切るが…。
万鬼齋の期待に応えず引き籠って愛宕神にすがる…。
この章は前章の続きですね~。朝憲の死を知った沼田家臣団はどういった行動に出るのでしょうか?…毎度タイトルでネタバレですけどね。
朝憲が謀〇されたことは、隠されることなく倉内に伝わりました…。朝憲のお供の人々も、多くが〇され口を封じられましたが、命からがら倉内に帰ってきて始終を伝えたものがいたのです…。
恩田「…な…何だと!?……バカな…
…この恐ろしい事実ッ!!…一刻も早く皆に伝えなければ…!」
恩田越前守は早鐘を嗚らして沼田家の家臣たちを集めます…
集まったメンバーは…
下沼田豊前守、発知刑部太輔、久屋左馬允、岡谷平内、石墨兵庫助、宇曽井孫八、山名信濃守、小川可遊齋、名胡桃の鈴木主水、発知図書、荻野対馬守、師大介、高野九類満、小屋弥惣、高野但馬、真下但馬、深津、小野、古野、小保方、戸部、戸●、七五三木、増田、高橋、鶴淵、星野、吉澤、桑原、小林、中島、金井、小池、小渕、青木、杉木、後閑、町田、小野、津久井……彼らを始めとした都合1,300余人が駿馬にむち打ち、同日の晩景に馳せ集まりました…!
――ドドドドド――
※原文は「軍評定しきり也」とあるだけですが、以下しばらく当会の妄想による会議のやりとりをお楽しみください。
下沼田「…一体……何があったんだ恩田ッ!?」
恩田「みんな…落ち着いて聞いてくれ……朝憲さまが〇されたッ!……それも万鬼齋さまにだッ!!」
――!?――
発知「…な、何言ってんだテメーッ!……そんなバカなことがあるワケ……」
恩田「………」
発知「…ま…マジなのかッ…?」
恩田「ああ…大マジだぜッ…!…お供に付いていった50人もほとんどが川場から帰らねぇッ!…皆〇しの目に遭ったんだッ…!」
発知「…!!」
久屋「…ハァ…ハァ…(慄然)」
下沼田「…恩田……それでアンタ…一体どうする気だ?」
恩田「…いくら隠居した先代とはいえ…このような非道を許すことはできねー……オレは…万鬼齋さまを討つッ!」
――!?――
岡谷「…ば……バカ言ってんじゃあねーッ!!…テメー自分が何言ってんのかわかってんのかッ!?」
恩田「やかましいッ!…オレの主君は朝憲さまだぜッ!……もはやあのイカレ野郎に忠義立てする義理はねえッ…!」
岡谷「…うっ……」
――ゴゴゴゴゴ――
石墨「…オ…オレは!……朝憲さまには本当に世話になったんだ……恩田がやるってんなら…一緒に行くぜ……」
恩田「…石墨…!」
小川可遊齋「…私も行こう……“沼田家分家の者として”…今回の騒動は放っておけぬからな……」
岡谷「…あ?…可遊齋!…おめードサクサにまぎれて何言ってんだ~…このなりすまし野郎が……チッ!…油断ならねーヤツ…仕方ねーからオレも行くぜ…」
小川可遊齋「…フッ…」
鈴木主水「…今回の件にケリがついたらさ~…また新しい主君を見つけないとな~(いい主君に巡り合えるかな~?)」
恩田「…小川…岡谷…鈴木……お前らも…!…」
岡谷「…フン!…オレはコイツ(可遊齋)の見張りが必要だと思っただけだぜ…」
………
下沼田「…恩田…どうやらココにいるみんな…アンタと同じ考えらしいな!…」
………
山名小四郎「あッ…あのさあ!…ちょっと確認なんだけど…」
下沼田「…ん?…山名のせがれか…どうした?…」
山名小四郎「…川場の隠居と戦うってことはさ…その…“景義さまとも敵対する”ってことだよな?……オレ…景義さまとは戦いたくねーっていうか……」
一同「…うっ……」
小四郎「…み…みんなはどーなんだよッ!…ホントに景義さまと戦えるのかよーッ…!?」
恩田「…確かにな……こうなった以上、景義さまは沼田に唯一残された希望だ……しかし…」
……
恩田「(…ギリッ…)川場の隠居と戦うからには…景義さまも討たざるを得ねーぜッ!」
小四郎「(…そ…そんな…)」
恩田「…小四郎……オマエは来るな…誰もオマエを責めたりはしない…」
……
恩田「よしッ!…出発は明日の辰の一天(朝8時頃)だ…!…川場の館へ攻め込むぜッ…!」(原文:翌七日の辰の一天に川場の館へ押寄けり)
…と、その時…
??「…どうやら軍議はまとまったようだな…!…」
一同「…あ、あなたはーーッ?」
現れたのは弥七郎朝憲の夫人…御曲輪の御前でした…!
下沼田「(…おい恩田……オマエ御前さまに報告したのか?)」
恩田「(…いや…オレの口からは…言えなかった…
…朝憲さまの死…それも実の父親に〇されたなどというおぞましい事実を…どうして夫人さまに伝えることができよう…)」
御曲輪の御前「…お前たち…私を気遣ったつもりだろうが…いらぬ心配だ……我が夫の身に起きたことは……既にこの者を通じて知っているッ…!」
御前に川場の惨劇を伝えたのは吉沢という商人でした…。
御曲輪の御前「…私は…これからこの吉沢に侍を1人付け、前橋にいる我が父にこの事実を報告するッ!……父は必ず援軍を送り込んでくれるだろう……お前たちッ!…それまでなんとか頑張ってくれ…!」
一同「(…ご…御前さまッ…!)」
小四郎「(…あれが朝憲さまのご夫人か…さすが北条弥五郎の娘…気丈な方だぜ…あの商人もあの方の忍だろうな…それにしても朝憲さまの死を嘆く様子も見せねーって…ちょっと冷たくねーか?)」
……
小四郎「(…ん?…)…うッ!」
――小四郎は見た!…御曲輪の御前の足元に滴り落ちる血をッ!!……それは彼女の拳から…爪が喰い込むほど握りしめた拳から流れていた……御前は哭いているッ!……涙を流さずとも哭いているッ!――
小四郎「(…オ…オレは…なんて馬鹿なんだッ!!…あの方を『冷たい』などと……そして……オレにもやっとわかったよ…あれが…武家の姿なんだ…!)」
――ズン!――
小四郎「…みんなッ!…オレも行くぜッ!!……たとえ景義さまと戦って…どちらかが死ぬとしてもッ……武家として悔いはねーぜッ…!」
恩田「(…ニコッ)」
山名弥惣「………」
…こうして、永禄12(1569)年正月7日の辰の一天…沼田家家臣たちは川場の館へ向かいます…!
山名弥惣「(…アニキ(小四郎)は景義さまと戦うつもりみたいだが…オレは違う…!……何とかして景義さまから本当のことを聞き出すんだ…戦うかどうか決めるのはそれからだ…)」
岡谷「…あれ?……そういえばカシラ(金子美濃守)はどうしたんだ…?」
恩田「ああ…あの人にしたら甥と妹と戦うことになるわけだからな……無理に連れていくことはねーぜ…そっとしておいてやろう…」
…金子美濃守が何をしていたのかは後に語られますが……
――もしもッ…この時川場に向かう沼田家の家臣たちが…このちっぽけな邪悪の存在に気付いていたのならッ…あるいは後に起こる悲劇は回避できたのかもしれない…――
――ドドドドド――
そして、後曲輪の御前からの報告を受けた北条弥五郎は…
弥五郎「娘の一大事…!…そして婿の仇だ…放ってはおけねー!」(原文:不易)
…と手勢200余騎を派遣します…!
大将には大胡常陸介が選ばれました。
彼らは8日の未の刻(午後2時頃)に前橋を出発し沼須へ着陣することになります…。
ちなみに「加沢記あるある」として、舞台が変わるたびに日付が前後するから気をつけないと混乱します。前橋の援軍が参戦するのは次の章からですね。
…さて、川場の万鬼齋たちは…
万鬼齋「…ククク……弥七郎が死んだ今…沼田家の一族や家老たちも皆、景義を惣領として認めざるを得まい……沼田にいる奴らの動きは気になるが……ま、向こうにいる金子がうまいコトやってくれるだろうから…まさか戦になる心配はねーな」(原文:弥七郎殿生涯し玉はゞ一族家老者迄も景義へ思付ん事無疑、金子は城に控たりければ一軍にも及まじ)
………
万鬼齋「…もし前橋の北条弥五郎が弥七郎の仇討ちで軍兵を送り込んで来たとしてもだ……長井坂の要害で待ち伏せしてやれば、何万騎で来ようが物の数ではないぜ……ま、心配しなくてもそのうち美濃(金子)のヤツがいい情報を持って来るだろう……」(原文:若し弥五郎殿より意恨軍兵遣し給ふ事あらば長井坂の用害にて待請ば何万騎にて来るとも物の数とは不思、定而美濃が来るらめ)
…この頃から「フラグ」っていう概念があったことは非常に興味深いですね。「まさか…」「もし…」は実現するという意味です。
…と、そんな具合でナメくさっていた万鬼齋が秋塚の五六岩に見張りを立てて待っていると、やって来たのは彼にとって「いい知らせ」を伝えるハズの金子ではなく、発知、久屋、山名を先陣とした沼田衆でした…!
彼らは相伝の左巴の大旗を先頭にして叫び押し寄せて来ます!
見張りの侍が川場の館へこのことを報告すると…
景義「(…クッ…!…兄上が討たれたことで…こんなことが起こる予感はあった……父上…なんてバカなことを…!…しかし…オレは父上と母上を守らねば…!)」
平八郎(景義)は唐櫃の蓋を開けて装備を整えます…。
景義の武装は…緋綴の鎧と鍬形の兜を着け、泰重が鍛えた四尺八寸の沼田打の大刀、二尺七寸の打刀、九寸五分の鎧通しを十文字に携え、(四尺+)七寸余りの『幡谷黒』という馬に先祖の道安齋が自作した銀幅輪の鞍を置き、三尺五寸の大長大刀を乗せる…という姿でした。
万鬼齋「…チクショーーッ!…こんなハズじゃあなかったぜーーッ!」
…と、しんがりに付いた万鬼齋は、黒糸綴の鎧と白布の鉢卷を着け、長身の手槍を携え、あし毛の馬に朱い鞍を置いて乗り、手勢わずか300余人を前後に囲ませ、横塚の原へと向かいました。
万鬼齋「…景義よ…敵は大勢だッ…正面から張り合ったんじゃあ敵わねーッ!……ここは“表裏”の作戦で敵を討つぜッ!」(原文:敵大勢なれば掛合の軍叶がたし表裏を以て可打)
そして300人の兵を3手に分けました…!
…このオッサン(万鬼齋)が、戦闘になると正気に戻って立派な武将っぷりを発揮しちゃうんですよね~…いっそキチ〇イのままだったほうが沼田衆は救われただろうに……
万鬼齋は、景義が率いる100余人を虚空蔵山に、塩野井又一郎が率いる100余人を生品の武尊の森の中に隠れさせます…。
そして、自らも100余人を率いましたが、鎧の上に赤根染のつむぎを着けていたので、その姿はとてもこれから戦うようには見えませんでした…。
…そして、ついに沼田からの寄手がやってきます…!
先陣は川田城主山名信濃守嫡子の小四郎、上川田城主発知図書介、荻野対馬守…これに続いて高野車、小屋弥惣、師大助、下ノ十左衛門、関上甚介、生方半左衛門、神保大蔵、中島主税介、戸部左馬允、中村式部、高橋右近介、深津次郎兵……彼ら300余人がまっしぐらになって万鬼齋へ打ってかかります…!
また、後陣の勢は愛宕山に控えてこれを見守ります…!
万鬼齋「先陣の旗の紋…“白旗に根笹”は…山名かッ!…それに“赤地にカヤデ”は発知図書だなッ!……テメーらッ!!…代々オレん家に仕えてきた家来だろうがッ!…惣領の家に向かって弓を引きやがって…もはや天罰から逃れられはしねーぜッ…!」(原文:先陣に進たる旗の紋を見るに白旗に根笹は山名と見へたり、赤地にカヤデを書たるは発知図書と見へたり、重代の家人又は惣領の家に向て弓を引事、天罸遁れ難し)
…70歳とは思えぬ大声でした…!
万鬼齋「…何してやがるテメーらッ!!…早く兜を脱げッ!…旗を巻けッ!!……『とっとと降参しろ!』って言ってるんだぜーーーッ!!」(原文:早く甲を脱ぎ旗を巻き降人に来れかし)
山名・発知たち「…ううッ…!?」
万鬼齋に怒鳴られた先陣の者たちは、みな強者ばかりでしたが……
山名・発知たち「(…ああ…まさにあの姿こそ…かつて我々が大将と崇め…憧れた顕泰さまではないか……どうしてこんなことに…)」(原文:相伝の大将顕泰にてましませば)
…彼らは弓鉄砲を打ち掛けることもできず、進軍を躊躇していました…。
久屋「…クソ~…オレたちは隠居を討つって決めたんだッ!…ビビってる場合じゃねーッ…!」
…後陣の発知、岡谷、久屋が横合から500余人で叫び声をあげながら万鬼齋を襲います…。
その時、森に隠れていた塩野井の一陣が駆け出し、久屋左馬允の陣を襲撃します!
…が!
塩野井の兵「…うッ…!?」
久屋の兵「…あっ!?……お、オマエらか…」
彼らはつい先日まで一緒に働いていた仲間たちだったのです!……お互い躊躇してまともな戦闘にはなりませんでした……。
刀の先っちょから火花を散らし、鎬を削り、鍔を割り…といった具合で、互いを傷つけることなく、未刻斗から申の下(午後2~5時くらい)までひらりくるりと戦闘が行われました。
馬上での太刀打などを見て指揮官たちは…
指揮官たち「…はは💧……まるでショーみてーだな…」(原文:是ぞ軍の見物)
…と鳴りを静めて控えていました。
どちらの兵も武術の名人だったので、手傷も負わず、お互いに退いて本陣へ帰っていきました。
…とその時、俄かに大雪が降り出し、諸々の勢力も寒くて動けなくなったので、その日の戦いは終わりました…。
雪は終夜降り続きました。
翌8日も一日中降り続いたので、戦闘にならず、敵も味方も空しく愛宕山の邊に小屋を作って控えていました…。
…さて、その頃、金子美濃守は何をしていたのかというと……
泰清「(…ヤッベ~…弥七郎をぶっ〇せば平八郎が跡取りになって、沼田はオレの思い通りになるハズだったのにーッ!!
…どうしよう?…恩田たちを説得して止めるか?…いや…そんなコトして失敗したらオレがヤツらに〇されるッ…!…)」
※例によって原文は「扨金子美濃は何とか思案したりけん」だけですが、ここは彼の心中に思いを馳せましょう。
泰清「(もしくは今からでも万鬼齋の援軍に付くか?……イヤイヤ…それこそダメだろ…北条(きたじょう)の奴らまで攻めて来たらぜってー勝てっこねーッ!!)」
※そういう事態に備えて長井坂城で迎え撃つ打合せを万鬼齋としていたハズですがコイツはそんなコト忘れてます。
泰清「(…だからってこのままココにいるのもマズイッ!…もし万鬼齋や塩野井と顔を合わせたら…オレが弥七郎〇害に関与したことが恩田たちにバレるッ…!!…そしたら万鬼齋からも恩田からもタマを狙われるぜーッ!!…それだけは絶対にマズイッ!…ど…どうすればッ!?)」
…さて、「思案した」結果、泰清がとった行動は…?
泰清「…おい…ワリーけどオレ、風邪ひいたみたいでさ~…今から寝床に籠もるから…入って来ないでくんねーかね…?」(原文:風気なり)
部下A「は、はい…」
…まあいわゆる仮病ですね。あるイミ判断力に優れているというか……
部下B「…ヒソヒソ…おい…美濃守さまってさ…仮にも我々沼田衆の筆頭だろ?…こんな一大事に軍議にも出ねーで…あんなんでイイのかね?…」
部下A「…ヒソヒソ…まあ…景義さまや湯呑さまと戦いたくないってのもあるんじゃね?…放っておいてやろうぜ…」
…さて、川場での合戦がひと段落した後…
部下B「…ヒソヒソ…おい、オマエ聞いた?…何でも美濃守さま…寝床に引き籠ってず~っと愛宕さま(愛宕権現)にお祈りしてたんだとか……」
部下A「…へぇ~…それは何とも信心深いことで…ところで『愛宕さま』ってなに?」
―――――
愛宕さま…
愛宕とは修験道の神であり、神仏習合の教説のもと『愛宕権現』の名で火伏や戦勝祈願の神として信仰されている。
金子泰清は追貝村の名主時代からこの神を念じていたが、顕泰(万鬼齋)に召し出されてからは、さらに怠けることなく祈願に励んだとのことである。
天文の頃、倉内の鬼門横塚に愛宕社が造立されたが、その本尊は現在(江戸時代)海応山金剛院に安置されている。
…ちなみに泰清はこの後も度々窮地を脱しているが、これは愛宕信仰の賜物であったのか…現代においてもそれを証明する術はない…。
――民明書房刊『鰯の頭も信心てイワシたろか?』より――
此事倉内に無隠、御供之人々被討残たるは倉内に立帰り始終を申ければ恩田越前守を始め以ての外驚き早鐘を嗚しければ下沼田豊前守、発知刑部太輔、久屋左馬允、岡谷平内、石墨兵庫助、宇曽井孫八、山名信濃守、小川可遊齋、名胡桃の鈴木主水、発知図書、荻野対馬守、師大介、高野九類満、小屋弥惣、高野但馬、真下但馬、深津、小野、古野、小保方、戸部、戸〇、七五三木、増田、高橋、鶴淵、星野、吉澤、桑原、小林、中島、金井、小池、小渕、青木、杉木、後閑、町田、小野、津久井、此人々を先として都合一千三百餘人、駿馬にむち打て同日の晩景に馳集り軍評定しきり也、翌七日の辰の一天に川場の館へ押寄けり、川場より注進に帰参ける吉澤と云し商人に侍一人御添有て御曲輪の御前より前橋へ御文を被遺ければ弥五郎殿不易被思手勢二百餘騎大胡殿を其日の大将に定め翌八日の未の刻斗に前橋を打立て沼須へこそ着陣す、萬鬼齋御父子兼て被思けるは弥七郎殿生涯し玉はゞ一族家老者迄も景義へ思付ん事無疑、金子は城に控たりければ一軍にも及まじ、若し弥五郎殿より意恨軍兵遣し給ふ事あらば長井坂の用害にて待請ば何萬騎にて来るとも物の数とは不思、定而美濃が来るらめとて秋塚の五六の岩の上に物見を出して待給けるに、案に相違して発知久屋山名の人々を先として沼田相傳の左巴の大旗真先に進せ、をめき叫んて押寄たり、物見の侍御館へ此由申ければ平八郎殿不安思給て唐櫃の蓋をあけて緋綴の鎧に鍬形打たる甲を取出させ泰重が打たる四尺八寸の沼田打の大刀、二尺七寸の打刀、九寸五分の鎧通し十文字に横へ七寸餘りの幡谷黒と云馬に御先祖道安齋の自作の銀幅輪の鞍置せ三尺五寸の大長大刀打かたけ、しんかりには萬鬼齋黒糸綴の鎧を被召、白布にて鉢卷して長身の手鑓打かたけあし毛の馬に朱鞍を置せ打乗、手勢僅に三百餘人前後に是を為囲、横塚の原へぞ出向給けり。萬鬼齋景義に向て曰けるは敵大勢なれば掛合の軍叶がたし表裏を以て可打とて三百人を三手に分け景義百餘人を率ゐ虚空蔵山に陳しヽヽ百餘人の兵をば塩野井又一郎に相添、生品の武尊の森の内に隠し置、自ら百餘人を引率して鎧の上に赤根染の紬のきるものを着して中々一軍にも及べき様は不見けり。寄手の先陣川田城主山名信濃守嫡子小四郎、上川田城主発知図書介、荻野対馬守、相隨者には高野車、小屋弥惣、師大助、下ノ十左衛門、関上甚介、生方半左衛門、神保大蔵、中島主税介、戸部左馬允、中村式部、高橋右近介、深津次郎兵、三百餘人真先に進てまつしぐらに成て萬鬼齋へ討て掛る、後陣の勢は愛宕山に扣て見物す、其比萬鬼齋七十餘に渡らせ給けるが大音声に仰けるは先陣に進たる旗の紋を見るに白旗に根笹は山名と見へたり、赤地にカヤデを書たるは発知図書と見へたり、重代の家人又は惣領の家に向て弓を引事、天罸遁れ難し早く甲を脱ぎ旗を巻き降人に来れかしとのたまひける、流石大強の人々也けれども相傳の大将顕泰にてましませば弓鉄砲を可打掛様もなく猶予してさながら進む気色なし。後陣に控へたる発知岡合久屋が勢横合に掛らんとて五百餘人にておめいて掛りければ森の内なる塩野井一陣に駒駈出し久屋左馬允が控たる陣の中へぞ駈入たる、元より一族の事也ければ互に恥てや戦けん、切先より火花を散し鎬を削り鍔を割り未刻斗より申の下まてひらりくるりと闘ひける、馬上の太刀打是ぞ軍の見物と鳴を静て控たり。互手きゝの名人なれば手も負ずして相引に引てぞ本陣へ帰りけり。俄に大雪降来、諸勢こゝえ人馬もすくみければ互に引て其日の軍は止にけり。終夜雪降、翌八日も終日雪降ければ軍不成して空しく愛宕山の邊に小屋を掛控けり。扨金子美濃は何とか思案したりけん七日の日の暮方より風気なりとて宿所に引籠て此評定に不出合けり。軍散て聞しに一心に愛宕を祈念してぞ居たるとこそ聞へし。抑も金子と云者名主職の時より常に愛宕を念じけるが顕泰公へ召出されては猶以て怠事なし、天文年中に倉内の鬼門横塚と云所に愛宕を造立したりける、其本尊今世に海應山金剛院に安置し給なり。