加沢記 巻之一④ 岩櫃城由来之事並吾妻太郎殿附吾妻三家之事

加沢記 岩櫃城由来之事並吾妻太郎殿附吾妻三家之事
加沢記 岩櫃城由来之事並吾妻太郎殿附吾妻三家之事

主な登場人物

長尾昌賢

 室町中期の人。

 火牛の計の使い手。

足利成氏

 室町中期の人。

 八幡次郎(たぶん)。

 上杉顕定をぶっ〇したくて仕方ない。

大森式部太輔

 室町中期の人。

 うっかり吾妻川にはまる。

 爰に哀を留めし少年。

遠通寺の住持

 室町中期の人。

 「事理に違う事を『遠通寺』という」ことわざを作った。

齋藤憲次

 色々あって吾妻の大将になった。

 イケてるネーミングセンスの持ち主。

富沢基幸

 但馬守。

 歳をとってからも盛んに子を作る。唐沢玄蕃のお父さんを作った。

内容

 さて、今度は吾妻のお話になります。

 この章の前半は、「岩櫃城ってスゲェーッ!!」っていう話が延々と書かれています…!

 

…上野国吾妻郡太田庄平川郷にある岩櫃城っつーのは、近国無双の山城なんだぜーッ!!

 まずさぁ…郡保(行政組織)のなかに山城があるっつーのがレアだろー!?

 しかもッ!…西から南、そこから東に吾妻川が流れててさー、その岸には岩石が峩々(がが)とそびえ立ってるんだぜーッ!!…その高さは五丈十丈(1丈は約3.03m)に及んでんだッ!

 北から南、四万、沢渡の山中から山田川が流れ、その岸も高く岩石がそびえてるんだぜー!

 吾妻川と山田川には2か所橋があって…吾妻川には太田の橋、山田川には追手の橋というのがかかってんだけどよォ~…そこ以外には渡る方法なんかねーんだ…まあ、鳥でもなくちゃあ行き来できねえだろうな…

 そんでよー、吾妻川と山田川の間に沢渡、山田、平川戸、郷原、矢倉、岩下、松尾という村があんだけど、民屋は800軒を超えているんだぜーッ!!

 山城の高さは三十丈、岩窟がそびえ立ち所々に松が生い茂っているぜーッ!

 東から入ろうと思ったら入口は1か所しかねーんだけどよ~、木戸口は大きな岩がそびえ立ち、三の木戸口は楷子を使わなきゃあ通れねーんだ…

 用水には木沢山を使ってんだけどさ~、ここも谷が深くそこらじゅうに立て籠もる要害が多いからよ~、100万騎籠っても狭くないぜー!

 城中町屋の北には岩鼓っつう要害があってよ~、城地から外へ出る口が3か所あるんだが、追手白井口市城という所には岩井堂の要害、渋川箕輪へ出る口は柏原の要害、大戸口は手子丸の城、沼田口は横尾八幡の要害、大塚加べやの要害、尻高中山の城があるんだぜー!

 さらに、北方に武山、折田、仙蔵、山田、桑田、高野平の要害、榛名山への口、山田沢川戸郷、ほか数か所に要害があって、究竟の勇士が籠もって勤番しているんだぜ~ッ!…

――以上、民明書房刊『岩櫃城のココがスゴイ!by加沢記』より抜粋――

 

 さて、そもそもこの城の由来はというと…

 永享(1429~1441)年中、足利尊氏5代の孫で鎌倉公方だった足利持氏には、長男の八幡次郎(成氏?)、次男の八幡三郎というのがいましたが、コイツ等が悪いことばかりしたので、執事の上杉民部太夫が…

 

(この後の5、6行は写本した人も読めなかったんだかそもそも見つからなかったんだか…)

 

――読めない部分のあと――上杉憲忠が(足利成氏に)バラされましたが、その家臣で白井城主の長尾左衛門入道昌賢は…

 

昌賢「…ちッ!…持氏と成氏のクソ親子が調子に乗りやがって…こうなったら民部太夫(上杉房定?)の嫡子である顕定さまはオレが守るっかねえ!」(原文:忠節を以て民部太夫の嫡子顕定を守立奉らん)

 

…と、岩櫃城に入れました。

 

 憲忠をブッ〇して、さらに顕定も〇したい足利持氏は100,000余騎で押寄せますが…岩櫃は究竟の城郭だったので、数度の合戦を重ねるうちに不利になっていきます…。

 

 苛立った成氏は…

 

成氏「…クソ~いまいましいヤツらめ!…こうなったらさらに50,000騎導入だーッ!!…都合150,000騎で取り囲んで昌賢たちを飢え死にさせてやるぜーッ!!」(原文:多数を以て取巻食責にせん)

 

…と、山里を稲麻竹葦の如く取り囲んでしまいます!

 

 兵糧攻めを企む足利成氏に対して、岩櫃城にて上杉顕定を守る長尾昌賢は文武の達人でありましたので、少しもあわてず…

 

昌賢「…へっ!…あんなもんイッコ世話ねーぜ!…オメーら(部下)、四万の山木根峠を通って州を越えた所からよォー…牛を何千匹か連れてこいや!…そしたらソイツら(牛)の両角に松明(たいまつ)を結わえとけッ!!」

 

…と、用意した数千匹の牛を嵐の烈しい闇の夜に追い放します…!

 頭の松明に火をつけられた牛たちは動顛して寄せ手の陣中に飛び込み、十文字に駆けまわります!

 混乱に陥った敵陣に対して、昌賢は嫡子の左金吾昌信と三男の彦四郎昌明に8,000余騎を付け、二手に分けて、叫び声を上げながら襲わせます…!

 長尾昌賢のこの攻撃に、足利成氏率いる鎌倉勢はたまらず、馬具や武器や兵糧までみんな小屋に置いたままハダシで逃げ出し、その混乱は軍全体に伝播して、150,000騎の軍は一夜にして戦意を失い、成氏は残党を集めて鎌倉へ帰ってしまいました…。

 

 ちなみにこの辺のバトルについては『加沢記』独自の展開であって、要するに加沢平次左衛門さんが現地のおじいちゃんおばあちゃんの昔話から書き起こしたものではないかと思われ、「足利成氏と長尾昌賢は岩櫃城で戦ってなんかない!」等のツッコミはやめて純粋に物語を楽しみましょう!

 

 長尾昌賢はこの武功をもってこの国を討平げ、上杉の家督を元通りにし、自身も白井に居住して一族悉く安堵したとのことです…。

 この話には、哀しいエピソードがあります…長田庄逢山の郷、遠通寺に陣取っていた大森式部太輔の話です…。

 大森式部太輔は15歳の少年で、大手の責口を請け負い、長尾家の吉里金右衛門尉と忠度の橋において戦っていましたが、夜中のことだったので、涙川を渡ろうと吾妻川の落合へ馬を乗り入れてしまい、水に溺れて亡くなってしまいました…。

 

 さて、悲劇はこれだけでは終わりません…大森式部太輔が溺れたのを聞いた遠通寺の住持がこれを聞いて川を下って探しに行ったところ、彼も水に落ちて行方不明になってしまいます…。

 彼は大森式部太輔とは知り合いでもなんでもなかったのです。

 見ず知らずの他人の心配をして命を落とす…現代なら美談かもしれませんが、ここでの記述では「何故」だとか「心得違い」とか散々なことが書かれています。

 そして「今土俗の辞に事理に違し事を遠通寺と申は此事よりぞ始るなるべし」と、まるで民明書房みたいな解説が書いてありますが…

 「遠通寺」でググったらマジで、“縁通ぜず、ということを、寺号にかけていうしゃれで、関係のないこと。かまわない。転じて、音声や意味などの通じにくいことにもいう。”って解説がヒットしました…。

 こんなお人好しの住職をつかまえて「オマエ関係ねーだろ」って…ちょっとヒドイですね。

 そもそもこの遠通寺は法然上人から九代の弟子、行学上人が開基した浄土宗の道場で、数年の星霜を経て退転なき霊境になったのであるが、この兵乱のせいで住僧が溺死してしまい、今は竹藪で、獣の足跡のみ残っている――残念で言葉にならない――ということです。

 

 さて、今度は吾妻三家の話が始まります。

 えー…吾妻太郎のルーツは藤原鎌足の……いきなり何文字か読めないけど、まあ「子の」的な意味でしょう…。

 鎌足の子の淡海公不比等から三代目の乙麿、そこから七代の孫である二階堂遠江守為憲が東国に来て、武蔵国を治めました…。

 それでその為憲から五世の維光、その次男の維元が吾妻郡を賜って太田庄に住みました…。

 …まあ要するに、藤原鎌足の子孫の維元が吾妻郡にきて「吾妻太郎」と名乗り、彼の子孫代々は吾妻郡太田、長田、伊参の郷を守護して繁昌しましたということですね。

 

 吾妻太郎を称した維元の一族はしばらくのあいだ繁昌しましたが、四代の孫である四郎助光が北条義時のために承久の乱に参戦した際に、宇治川の合戦で溺死してしまいます(この章は溺死が多いな)…。

 この後、吾妻家は段々と衰えていきます…。

 

 吾妻家の力が衰えると、主家は太田の城に据えられ、いてもいなくてもどっちでもいいような状態にされ、家臣の大野越前(平川戸稲荷城)、塩谷日向(中之庄和利宮の城)、秋間三郎(太田城二の曲輪)の3家がのさばるようになってきます…。

 これが章のタイトルにもなっている「吾妻三家」というやつですね。

 

 吾妻三家は、永享の乱の頃はいい地頭として評判でしたが、文明の頃に由良信濃守源国繁が蜂起した兵乱の際、諍いが起こって内戦状態になります。

 

 秋間家は大野家に敗れ、太田城を奪われます。

 

 塩谷家一族は広く力を持っていて、大野家は不利と思われましたが…

 その頃、塩谷家当主である掃部介藤原治秀は、娘を甥の源二郎元清に嫁がせました。

 塩谷家の娘夫婦は仙蔵の城に居ましたが、文明5(1473)年の春、夫婦ゲンカして離別し、娘は怒った父の掃部介に追い出されてしまい、かなわず大野の家に逃げ込みました…。

 大野は逃げ込んで来た娘を見て…

 

大野「あれ?あの女って…!?…え?…マジで!…ウチと揉めてる塩谷の娘じゃねーかよッ!…これは天の与えたチャンス!」(原文:戦の半也、天の与る処也)

 

…と喜び、家来の齋藤孫三郎、富沢勘十郎に指示し、この娘を蜂須賀伊賀に預け「マロウト殿」という座敷に住まわせました。

 

 大野家に逃げ込んだ塩谷の娘は、このとき懐胎していました。

 大野は塩谷の方へ向けて産屋を建て出産を待ち、ついに男子が誕生すると、この子を「一場二郎」と名付ました。

 塩谷にしたら娘と孫(甥の源次郎の子)を両方捕らわれた形になり、戦意を失くし降参してしまいました。

 大野がわざわざ塩谷の方へ向けて産屋を建てたのは…

 

大野「塩谷~…アンタの娘さぁ~…ウチで出産させてやるからね~…アンタの甥ッ子の血を引く後継ぎが…無事に生まれるといいなぁ…ケケケ…」

 

…とアピールするためですね…。これは精神的にくるわ~。しかも子供に勝手に名前まで付けられてるし…。

 こうして大野下野守義衡の嫡子、越前太郎憲直は一郡の地頭となりました。

 本来は塩谷家の後継ぎである一場次郎は大野の二男として、家臣の齋藤孫三郎憲実、富沢勘十郎基康が付けられました。

 大野はこの後もなお、塩谷家を潰そうとする手を緩めず、塩谷の一族である蜷川、池田、尻高、塩谷の家臣である割田、佐藤、中沢等に内通して、ついに掃部介を○し、吾妻郡を思うままに討平げ、源国繁公へ出仕して栄えたということです。

 吾妻三家で勝ち残ったのは大野家でした…が、これで「めでたしめでたし」とはならないんですね~。

 

 そんなわけで繁栄した大野家は岩櫃に居城し、齋藤、蜂須賀の両家臣を使って諸事を行わせていました。

 そんな折、先主の吾妻太郎一族であり太田の庄を領していた植栗河内守元吉という者が大野の幕下にいましたが、コイツがわけあって諍いを起こしました。

 大野は植栗元吉を退治しようと齋藤越前憲次に討手を命じます。

 ところが齋藤も大野のことを怨んでいたので…

 

憲次「…大野の野郎…主君だからって調子コキやがって…いつかブッ〇してやろうと思ってたけどよ~……これはチャンスだぜ!…ヤツが討伐を命じた植栗と、逆に手を組んで反乱を起こしてやるぜー!」(原文:能き幸)

 

…と居城の岩下に帰り、家臣の富沢但馬基幸と談合して、植栗の館へ攻め込む「フリ」をしました…。

「齋藤越前憲次」と「富沢但馬基幸」は大野が奪った塩谷家の血を引く一場二郎の守役、「植栗河内守元吉」はかつての主家である吾妻太郎の一族です…この辺、本筋から脱線した話ではありますが「因果」とか「運命」を感じてとても面白いですね~。

 もともと植栗元吉も齋藤憲次とは近い関係にあったので、この機に一緒になって大野の館へ押し寄せました。

 討手を遣ったつもりが自分が襲われるハメになった大野は、腹を十文字にかき切り、城郭に火をかけ一族もろとも炎のなかに消えました…。

 

 齋藤憲次は岩下へ籠もると、吾妻郡の武将たちへ…

 

憲次「ちょっとワケあってさ~…主君だった大野の野郎をブッ〇しちゃったんさねー(^_^;)…でさ~ワリィんだけど…みんなもオレの家来になってくんない?」

(原文:今度子細有之、主君大野殿を奉討。各我か幕下に属し給かし)

 

と言いました。…半ばお願い、半ば脅迫ですね。

 もともと齋藤を智謀のものとして一目置いていた人々は、みんな彼を大将と認めました。

 ちなみに吾妻郡の武将として列記されているのは「鎌原、湯本、西窪、横谷、羽尾、浦野、蜷川、塩谷、中山、尻高、荒牧、大戸、池田」たちですね。

 

 齋藤憲次は岩櫃城に移り、岩下城は家臣の富沢但馬に与え、上杉に出仕して栄えました。

 ところで、富沢は男子を多く持っており、さらに老後にまた1人の男子を儲けました。

 これを知った齋藤は喜んで富沢を呼び出しました。

 

憲次「富沢~…オマエその歳で男子を儲けるって…スゲぇな゚`)まあそれはイイけど…コレって齋藤家が長く栄える瑞相(めでたいことの起こるしるし)じゃね?…その子には名前を新しく付けべーじゃねぇ」(原文:其方老衰男子を儲し事、且齋藤家永く可相続瑞相なり、さらば名を改付らるべし)

 

富沢「へえ…」

 

憲次「まあでもその歳でできた子だからな~…さすがにもうこれが最後の子だろ…」(原文:老後の子成ければ重而又可生事なし)

 

富沢「え!?(…いやまだ全然イケるんすけど…まあイイか…)はあ…」

 

憲次「…つーワケでさぁ…富沢の子もこれで最後っつーことで『其末はからさは』(沢が枯れた?)だから『唐沢』って名字はどうよ?」(原文:されば富沢の子をとめたらんには其末はからさは成べし、名字を唐沢と可改)

 

…と、その男子を「唐沢杢之助」と名付けました。

 その子は成長して文武智謀の勇士となり、猿渡の郷をもらいました。

 富澤家と、そこから分家した唐澤家は齋藤の老臣となりました。

 

 さて、大永(1521~28年)の頃ということですが、齋藤憲次の嫡子、越前太郎憲広は法躰して一岩齋入道と名乗りました。

 齋藤憲広の息女は大戸但馬守直楽齋入道の妻、ほかに4人の子がいて、長男が太郎憲宗、二男が四郎太夫憲春、女子が三島の地頭浦野下野守の妻(後に羽尾治部入道の妻となる)、末っ子が城虎丸で、この子は武山の城に置きました。

 

 齋藤家は「岩櫃の城山に植えるべし」と百姓役に家ごとに人別松を植させ、松一本ごとに1銭を渡しました。

 

 銭で松の数を知ろうということでしたが、およそ10万本を超えていたそうです。

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原文

上野国吾妻郡太田庄平川郷岩櫃城と申は、近国無双の山城也。郡保の内に山城あり、西方より南に当り、其より東に当て吾妻川流れ、其岸は岩石峩々と岨立、高さ五丈十丈に及べり。北方より南に当て四萬、澤渡の山中より流出るを山田川と云て其岸高く岩石聳えたり、両川の内、二ヶ所の橋有り吾妻川の橋は太田の橋と云、追手の橋は山田川の橋と云り、其外渡る瀬無くして鳥ならで通ふべき便なし。扨両川の間に澤渡、山田、平川戸、郷原、矢倉、岩下、松尾とて郷村有て民屋八百軒に過たりけり。山城の高さ三十丈有り、岩窟岨立て所々に松生茂り、東方より一口也、木戸口に大きなる岩屹立し、三の木戸口は楷子を作て通路しけり。用水に木澤山あり、谷深うして所々に楯籠る用害多ければ百萬騎籠りたりとも其狹き事を不知、城中町屋の北に岩鼓といふ用害あり、城地より他所へ出る口三ヶ所有り、追手白井口市城とて彼所に岩井堂の用害有り、渋川箕輪へ出る口は柏原の用害、大戸口は手子丸の城、沼田口は横尾八幡の用害、大塚加べやの用害尻高中山の城、扨其外北方に武山、折田、仙蔵、山田、桑田、高野平の用害、榛名山への口、山田澤川戸郷其外数ヶ所に用害有て究竟の勇士を籠置て勤番す。抑々此城と申は、永享年中尊氏公五代の孫鎌倉の公方持氏公、若君御誕生有けるに御嫡を八幡次郎殿、御二男を八幡三郎殿と申けるが悪き行ひのみせられければ執事上杉民部太夫(已下五六行不見)憲忠を誅戮せられければ家臣白井の城主長尾左衛門入道昌賢、忠節を以て民部太夫の嫡子顕定を守立奉らんとて此山城を取立顕定を奉入ければ成氏公関八州の軍兵十萬餘騎を引率し諸方より押寄給けれども究竟の城郭也ければ数度の合戦に利を失ひ給けり。成氏公いらち給て多数を以て取巻食責にせんとて重て五萬餘騎を被相加、都合十五萬の人数を以て山々里々尺地も不残、稲麻竹葦の如く取囲み彼山城を守り居たり。昌賢は文武の達人なりければ聊も思慮に不及、四萬の山木根峠通りに越州より牛数千匹取寄せ、両の角に松明をゆひ付て嵐烈しき闇の夜に諸方へ追出しければ此牛共、角に火付ければ動顛し寄手の陣中へ飛入、十文字に駆廻りけり。其時城中より昌賢下知して嫡子左金吾昌信、三男彦四郎昌明指添、八千餘騎を二手に分て押太鼓を打せ、おめきさけんて押寄ければ鎌倉勢猛勢と申せども此威に避易して馬物具太刀長太刀兵糧等に至る迄、皆小屋ゝゝに捨置て歩や跣の有様にてほうゝゝ命助り一軍にも不及して十五萬の軍兵一夜に落てければ成氏公残党を集め漸く鎌倉へぞ御帰陣有けり。此威を以て長尾当国を討平げ、如旧上杉の御家督成まいらせ、其身も白井に居住して一族悉く安堵し給けり。爰に哀を留めしは長田庄逢山の郷遠通寺に陣取給ける大森式部太輔は少年十五歳にて大手の責口請取給ひて長尾の家の子吉里金右衛門尉と忠度の橋にて暫く相戦ふ、夜中の事成ければ涙川を渡るとて吾妻川の落合へ馬を乗入、水に溺て失せ給ふ、遠通寺の住持此由を聞て川を下りて尋行けるが是も水に入て其行未は知ざりけり。此住僧大森式部太輔とは知音と云にもあらずして此人の溺死せるを尋るとて一命を失ふ事何等の故を不知心得の違し事か。今土俗の辞に事理に違し事を遠通寺と申は此事よりぞ始るなるべし。抑此寺の由来を尋るに法然上人九代の弟子行学上人此地に来て一仏刹を開基し、浄土宗仏法流布の道場数年の星霜を経て退転なき霊境、此兵乱の折に当て住僧溺死し、紺園長く鳥獣の跡のみ残ると、申も中々をろかなり。吾妻太郎殿と申は、大織冠鎌足内大臣正二位、始て藤原姓を賜りける淡海公不比等より三代乙麿公七代の孫二階堂遠江守為憲東国下向有て武蔵国を領じ給ける。此遠江守為憲より五世にして維光の二男維元、始て吾妻郡を賜ひ太田庄に居住有て吾妻太郎と申けり。是より子孫代々吾妻郡太田、長田、伊参の郷を守護して繁昌し給けるが維元より四代の孫四郎助光の時に当て、承久三癸未年六月の乱に北條義時の催促に隨て宇治川の合戦に溺死し給しより吾妻家連に衰て主君をば太田の城に据参らせ、有か無かの様にして家臣大野越前、塩谷日向、秋間三郎三人して領地を三つに配分して秋間三郎は太田城二の曲輪に居住し、大野越前は平川戸稲荷城に居住し、塩谷は中之庄和利宮の城に住ければ三家の領地の如く見えたりけり。永享の兵乱の時は専ら地頭と聞えけりかゝりける処に文明の頃、由良信濃守源国繁蜂起して兵乱の時、三家不和の事出来て及合戦、秋間備前は大野に被討て大野太田を領す、塩谷は門葉広ければ大野度々利を失ひけるが、爰に塩谷掃部介藤原治秀は一人の息女を甥の源二郎元清に嫁して仙蔵の城に居られけるが文明五年の春の比、夫婦確執の事有て忽ち離別しければ父掃部介腹立して追出されければ息女不叶して大野の家に走入給けり。大野は戦の半也、天の与る処也とて家子齋藤孫三郎、富澤勘十郎を召て此由角と被申ければ蜂須賀伊賀に被預て本城に新に座鋪を出来、奔走し給て其名をマロウト殿と申ける。此姫懐胎にてましゝゝければ塩谷が方へ知らしめんが為に居城の追手の邊に産屋を立て大釜なんどを据置、誕生を待給ける、当る月に成にければ男子誕生、一門家の子喜悦して其名を一場二郎と名付たり。扨て塩谷は息女を被捕源次郎の子息も大野の家にて生れければ無力降参して幕下にこそ伺候し給ひけり。是より大野下野守義衡嫡子越前太郎憲直、一郡の地頭に成て一場次郎をば二男と称し家臣斉藤孫三郎憲実、富澤勘十郎基康に相添え守立ける、猶も塩谷掃部介を誅せんとて塩谷が一族蜷川、池田、尻高、家臣割田、佐藤、中澤等に内通して終に掃部介を誅し、一郡思侭に討平げ、源国繁公へ出仕して目出度家と栄けり。

去程に大野殿繁昌し給て岩櫃の城に居て齋藤、蜂須賀両臣にて諸事執行しが、爰に先主吾妻太郎殿の門族に植栗河内守元吉とて太田の庄の内を領し大野の幕下に属して有けるが聊の子細有て元吉退治あらんとて齋藤越前憲次に討手を賜りける。齋藤も大野に怨ある折柄なれば能き幸と思ひ居城岩下に立帰て家臣富澤但馬基幸に談合して植栗へ討手と称して植栗が館へ寄たりけり。元より元吉も齋藤と近き一類也ければ元吉と一所に組して大野の館え押寄ければ思ひ不依事成りければ大野は腹十文字に掻切り城郭に火を掛け門葉一度に焔の中へ飛入り失にけり。憲次は岩下え引籠り鎌原、湯本、西窪、横谷、羽尾、浦野、蜷川、塩谷、中山、尻高、荒牧、大戸、池田以下の人々へ以使事の子細を被述、今度子細有之、主君大野殿を奉討各我か幕下に属し給かしと申されければ元より智謀の齋藤成ければ人々出仕して大将にぞあがめたり。岩櫃の城に移て岩下の城をば家臣富澤但馬に賜り、上杉え出仕を勤め繁昌の家と栄けり。

かゝりける処に、富澤数多男子を持たり、老後又一人の男子を儲たりければ齋藤喜悦の餘りに富澤但馬を呼て其方老衰男子を儲し事、且齋藤家永く可相続瑞相なり、さらば名を改付らるべしとて狂にもてなし被申けるは、老後の子成ければ重而又可生事なし、されば富澤の子をとめたらんには其末はからさは成べし、名字を唐澤と可改とて則も唐澤杢之助とぞ付られけり。扨又成長して文武智謀の勇士となり後、猿渡の郷を知行して彼所に住たりけり。夫より富澤、唐澤両家に分て齋藤の老臣たり。頃は大永の時代なりとぞ承る、憲次の嫡子越前太郎憲広法躰して一岩齋入道とぞ申ける、次は息女にて大戸但馬守直楽齋入道の妻也、御子四人持給ふ長男太郎憲宗、二男四郎太夫憲春、女子は三島の地頭浦野下野守妻也、後に羽尾治部入道の妻と成給ふ、未子城虎丸、是は武山の城に被差置ける。岩櫃の城山に植べしとて百姓役に家並に人別松を植させ、松一本に一銭宛渡し賜り、銭を以て松の員数を知り給ふとなん、凡十万本に過たりけり。