吾妻の名刹、善導寺でご馳走を振舞われた後、住職から長い話を聞かされた、遠い夏の休日。
昌幸に古今の物語を伝える…それにしても話が長すぎ。
前回の章で、夏の子持山を漫喫した真田昌幸さんたちが今回向かったのは…
…吾妻の名刹、普光山善導寺でございますね~。
…さてさて…どんなお話が聞けることやら…
天正9(1581)年…
昌幸「…ふぅ~…なんかオレ、岩櫃に来てこんなに“ゆるり”と過ごせるの初めてのコトじゃね?…せっかくだからさ~…あの有名な善導寺に呼ばれてみてーな~(原文:始て岩櫃に緩々御座有りけるに依て、善導寺へ御招請仕らん)」
(※「訪問したい」ではなく、あくまで「招待を受けたい」というところがなんかエラそうですね。)
…と振られた川原左京と丸山土佐守が善導寺に昌幸のご意向を伝えると…
…これを聞いた善導寺の上人から…
善導寺の上人「ナニ?…岩櫃の真田の大将がウチの寺に来たいって?…それはそれは…ぜひお越しください!…とお伝えくださいませ…(原文:さらば御出有ん)」
…と返事があったので、9月13日、昌幸ご一行は霧沢へと出かけました…。
岩櫃城の留守番として海野能登守、池田佐渡守、春原勘右衛門…
善導寺表門の番には川原左京、富沢但馬、富沢七郎兵衛、足軽100人…
裏門には小草野新三郎、宮下藤右衛門、赤沢常陸介、足軽50人…
大手番匠坂には浦野中務、同七左衛門、一場太郎左衛門、佐藤豊後、塩谷将監、有川掃部とナントカ…足軽100人…
…といった具合で所々に番を置きました…。
…この時代は遊びに行くのも大変ですね。
善導寺の上人が山門の辺まで迎えに出てきたので…
昌幸「😯あッ!?…コリャどうも…」
…と昌幸も下馬しました。
そこから上人と一緒に客殿に入り、本尊に御礼拝した後、客間に通され着座しました…。
(ちゃんと真っ先にご本尊にあいさつしててエライ。)
善導寺の上人「…さて、ご礼拝も済まされたことですし…お振舞をいたしますですよ!」
昌幸「わーい!🤤」
御相伴は大戸真楽齋入道、海野長門守、鎌原宮内少輔、植栗河内守、北能登守、湯本三郎左衛門尉、浦野義見斎、徳蔵院…
配膳は木村渡右衛門、池田甚次郎、大熊五郎左衛門、出浦上総介…
御酌は川原左内、長野舎人助…
御給仕は田沢主殿、深井三弥、春原勘次郎、西窪内蔵千代、高沢又三郎…
こんな感じで終日酒宴が行われました…。
宴席の最中、昌幸は上人に…
昌幸「…なあ上人さま~…この寺の開山やら開基やらの次第についてさぁ~…詳しく聞かせてくんねーかねぇ?(原文:此御寺の開山開基の次第は如何)」
上人「…それはよろしいですが…かなり長くなりますよ?(マジで)」
………
上人「そもそも浄土宗というのはですね~…知ってのとおり開祖は法然源空上人さまですが……
…後白河院の時代――関白は忠通さまでしたが――諸宗派の中でも特に学の深い人たちを集めて、55日間『往生要集』についての講義が行われたんですね~」
………
上人「…そしたら、法然上人の講義がもうサイコーだったワケで…みんなから『知恵第一』なんて呼ばれたワケですよ。帝も法然上人を深く信じて、浄土宗は本朝余すトコなく流布したワケですね~」
………
上人「法然上人には何人かお弟子さまがいらっしゃいまして…
なかでも聖光上人が鎮西流、
隆寛律師が長楽寺流、
善恵上人が西山流を号したんですが…
…最後の善恵上人という方がこの寺の法祖なんですね~(※)」
(※聖光上人は弁長上人、善恵上人は証空上人…のほうが通りがいいんですかね)
………
上人「善恵上人の俗姓を尋ねますと…どうやら賀川(加賀?)で地方官をやってた親季証玄入道ってヒトの子で、久我の内大臣通親さまの猶子になったそうですが…」
………
上人「法然上人から教えを受けたのが14歳から36歳まで…そのあとは善ナントカ寺往生院を慈鎮和尚からもらって西山一流の法祖になったワケですね~。
そんで宝治元(1247)年11月26日に遷化(高僧が亡くなること)されたそうで…(※)」
(※ここの原文は「自十四歳至三十六歳、善□寺往生院慈鎮和尚に付属し玉いて西山一流の法祖たり…」とあるんですが…
「自十四歳至三十六歳」の部分は省略されてるけど「法然上人から教えを受けた期間」ってことですよね?…そのまま読むと慈鎮和尚に付いてた期間みたいだけど…古文はむずかしい)
上人「ところで善恵上人は生前、唐橋大納言の子孫である宰相中将雅清の子を弟子にしていたのですが、このお弟子さんは浄音上人という方なんですがね~…」
………
上人「その浄音上人には観知と行観という二人の弟子がいたんですね~。
…そのうちの観知は、奥州伊達の門族を弟子に取りまして、その方は道空上人というんですがね~…」
………
上人「この道空上人の弟子が阿道というかたでして…
この阿道にも弟子がいて、そのかたは道恵上人というんですが…
…で、この道恵上人には3人の弟子がいて…これが円光、識阿、行覚という人たちですね~。」
………
上人「それで貞治元(1362)年春の頃、道覚、円光、識阿の3人がココにやって来たんですね~」
昌幸「ちょっと待って…道覚って誰だっけ?」
上人「あ…道覚上人は行観の弟子である観教上人のお弟子さんですね~(※)」
(※この写本はなぜか「行観の御弟子観教上人、此御弟子道覚上人と申也」が抜けている…)
上人「その頃、ココの地頭をしていたのがですね~…大織冠鎌足さまから21代の子孫である吾妻太郎――藤原維光――って人だったワケですが…
…この人は太田の荘に住んでいたワケですがね~…」
………
上人「…で、この吾妻太郎がある夜…『筑紫から大船が三艘ココに来る(原文:筑紫より大船三そう此処に来る)』…っていう夢を見たそうで…
…吾妻太郎は家来を集めて『こんな山ン中に船が来る夢って…なんかのお告げかねぇ?(原文:此処山中也けるに船の来る事いか成告ならんや)』と聞いたそうなんですよ!」
………
上人「そしたら臣下のひとりが『…d(^o^)bグッ!!…それはメデタい夢ですよ~!…“大善知識”の高僧がやって来ますぜェ~!!…こりゃ~この郡中は豊穣、イイ政治で子孫も繁昌しちゃいますな~💖(原文:目出度御夢想也、是は大善知識来り玉ふべし、専ら郡中豊穣の御政事、御子孫繁昌の御夢想也)』って吾妻太郎に吹き込んだワケですよ。」
………
上人「…そんな出来事があった直後にあの3人の僧(道覚、円光、識阿)がやって来たもんだから、郡主の吾妻太郎はもうビックリですよ!……大喜びして3人の僧にご馳走を振舞ったワケですね~!!」
………
上人「特に、この3人のうち識阿上人のために居城の鬼門である反辺(田辺?)って所に、新しく一宇の堂場を建立したんですが…
…これを『無量山善導寺』と号しまして、つまりはこれが当寺の開山ってコトですね~!」
………
上人「…と、色々ありましたが…開山の識阿上人は康応元(1389)年12月10日に遷化されました…」
昌幸「ありがとう!…よくわかったよ(…マジで長かったぜ~…)」
上人「…あ、残りの2人の僧のことも気になるでしょうからお話します。」
昌幸「お?…おう…」
上人「円光上人も寺を開き『青山遠通寺』と号しました。円光はのちにヨソへ行って、武州でも一寺を開いたそうです…。
道覚上人は同郡で寺を開き『山田善福寺』と号しました…。」
………
上人「この道覚上人は貞治元(1362)年8月15日に遷化して、墓所は反辺の傍らの『首の社』ってトコの近くに一宇の阿弥陀の御堂を建てました…」
昌幸「うん!…ありが…」
上人「まだ終わってませんよ!」
昌幸「…はい💧」
(草稿版だと次の話に行く前に……維光(吾妻太郎)が逝去して法名を普光院と号したので、後に『普光山□王善院善導寺』と呼ばれるようになった……という話が入るから、さらに長い。)
上人「…ココからが奇ッ怪な話なんですがね~…善導寺二代目の住持、道阿上人のお母さまが、明徳4(1393)年4月8日、当国の六ノ宮である榛名権現へ参詣した際、伊香保の沼を歌に詠んだんですが…」
………
上人「…そしたら突然、お母さまは20尋(約36メートル)の大蛇に変化して沼の中へ飛び込まれたそうで…
…これを聞いた道阿上人が、沼辺にやって来たところ、沼の中から大蛇になったお母さまが現れて…」
………
上人「…蛇の鱗を3枚、道阿上人に渡すと…『善導寺にこの鱗がある限り、水を自在に操ることができるであろう…では、これまでだ…(原文:善導寺有らん限に水自在たるべし、是迄也)』と言って、また沼の中に潜っていってしまったそうです…」
………
上人「…道阿上人は母君が蛇道に落ちた事を悲しみ、37日の間、沼のほとりで御供養をされたそうです…。
…そして母君が消えた跡に石塔を一基建立されたとか……その石塔には『明徳4(1393)年4月8日』と彫り付けてございます…」
………
上人「この奇瑞のおかげか…その後どの場所の寺を移しても、水害に遭うことはなかったということでございます…」
――👏👏――パチパチ…
昌幸「…よッ!…上人さま!…すばらしい講演だったぜ~!…なあみんな~!!(…ほっ😌…長い話がやっと終わったぜ…)」
御相伴の衆「いやマジで!…言葉にならないほど素晴らしいお話でしたッ!(原文:言語道断の御物語※昔は言語道断はイイ意味でも使ってた)」
昌幸「(ボソッ…)そういや“伊香保”っつーと…“当国の六ノ宮または伊香保の沼”…なんて話を聞くけど…なんだろ?(原文:当国六ノ宮又伊香保の沼とぞ申有りける御物語如何)」
上人「(・_☆) キュピーン!!」
昌幸「(あ💧…しまった…)」
上人「…フフフ…昌幸さまのお望みとあらば、私の知ってることをすべてお話しさせていただきましょう!(原文:さらば有らゝゝ御物語申さん)」
昌幸「…ううッ…!!……しまった……うかつなコト言ってスイッチを入れてしまったぜ~…💧」
上人「…およそ上州には十二社がございまして…」
………
上人「…まず西上州の一ノ宮とは『抜鉾(ぬきさき)の大明神』と申す男女体でして、御垂跡は弥勒と観音でございます。…異国の阿育王の子、倶那ナンチャラの妹ということでございます…」
………
上人「ニノ宮は『赤城大明神』でございまして、大沼は千手観音、小沼は虚空蔵、禅頂は地蔵のご垂迹でございます。
…三ノ宮は『伊香保明神』…湯前の時は薬師、里に下りては十一面観音のご垂迹でございます。」
(こういう記述があると、『加沢記』の写本が神仏分離令の時に表現規制で消されなくてよかったと思いますね~…。ヘタしたら廃仏毀釈のとばっちりで捨てられてたかもしれませんね。)
上人「四ノ宮の『宿袮明神』、五の宮の『若伊香保明神』の本地は千手観音でございますね。
…六の宮の『榛名満行権現』は地蔵、
七の宮の『沢の宮小祝明神』は文珠のご垂迹でございます。」
………
上人「八ノ宮は『那波の上宮火雷神』で虚空蔵が本地…
…九ノ宮は『那波の下の宮少智大明神』で如意輪観音が本地でございます…」
………
上人「…『惣社』は本地が普賢でございます…。
…ほかに『子持山明神』『那波の八郎明神』同所の『辛科の明神』がございます…。(※)」
昌幸「(急に話の構文が変わった?…まあイイか…)」
(※ここでの紹介は惣社以降「十ノ宮」って言い方じゃないんですよね…何か意味があるのか……そもそも自分が知ってる上野国十二社とはちょっと違うし……『神道集』由来のようですが……まあ深入りはやめます。)
上人「それで…伊香保の沼というのは当国の名所でございまして…
順徳院の御歌に
から衣 かくるいかほの 沼水に
今日は玉ぬく あやめをぞひく
…というのがございます…。」
昌幸「(ん…?)」
上人「…また定家卿の歌に…
まこもかる いかほの沼の いかばかり
浪こえぬらん 五月雨のころ
…というのがございます。」
昌幸「(藤原定家の歌と順徳院の歌が逆だが…ヤボなツッコミはやめておこう……オレってナイスガイ…)」
上人「…そして家隆卿の歌に…
五月雨に いかほの沼の あやめ草
今日はいつかと 誰かひくらん
…というのがございます…。」
…と、こんな感じで昌幸は善導寺の上人からの話を聴きました…。
昌幸は…
昌幸「…いや~…ココは古今の物語を伝えるスゲエお寺だな~!…寺社領のことは勝頼さまによ~…これまで善導寺が受けてたのと同様の寄附をするように言っとくぜ~!!(原文:古今の御物語尤殊勝の御寺也…寺社領の儀、勝頼公へ御披露有て前々の如く可被寄附)」
…と言って退出していきました…。
昌幸「(…ほっ😮💨…長い話だったな~)」
昌幸は9月下旬、また翌年の正月にも甲州へと参府し、勝頼からの証文を受け善導寺へ与えています…。
…その内容は…
―――――
寺領之事
拾三貫文 川戸村之内
右之地善導寺へ令寄附畢、尤如前々山林竹木如有来不可有相違者也、仍而如件
天正十年壬午正月二十八日 御朱印
真田安房守奉之
善導寺
―――――
内容…
「オッス!…善導寺の上人さま…先日はウチのがご馳走になったそうでサンキュな!
…で、川戸村から13貫文を善導寺に寄付すっぜ!…ただ元々ある山林竹木はそのままにしといてな!…頼んだで~!!」
―――――
…このほかにも、林村の御房別当大乗院、川戸村の一ノ宮、ナントカ宮????(首の宮?)、岩下のナントカ(鳥頭?)、平川戸岩つつみの明神、原の観音、岩櫃の不動、横尾の和利宮、同所の八幡宮、下尻高の三山代明神、岩下の観音、市城観音、…
…青山駒形、小泉の明神、ナントカ観音、山田の善福寺、高戸屋の薬師、岩井の玉川堂、嶽山近戸の明神、ナントカ(猿渡?)諏訪など、残すところなく寺領や社領の御朱印が与えられたそうです…。
天正九年昌幸卿始て岩櫃に緩々御座有りけるに依て、善導寺へ御招請仕らんとして川原左京、丸山土佐守を以て申演ければ、さらば御出有んとて九月十三日霧沢え御出あり、御留守居は海野能登守、池田佐渡守、春原勘右衛門、善導寺表門川原左京、富沢但馬、富沢七郎兵衛、足軽百人、裏門小草野新三郎、宮下藤右衛門、赤沢常陸介、足軽五十人、大手番匠坂浦野中務、同七左衛門、一場太郎左衛門、佐藤豊後、塩谷将監、有川掃部□□□□□足軽百人にて口々をぞ固めける、上人山門の辺まで御迎に出られければ昌幸公も下馬し給ひて、夫より上人御同道にて客殿に御入有て本尊御礼拝被成、室間に御着座なり、御相伴は大戸真楽齋入道、海野長門守、鎌原宮内少輔、植栗河内守、北能登守、湯本三郎左衛門尉、浦野義見斎、徳蔵院、配膳は木村渡右衛門、池田甚次郎、大熊五郎左衛門、出浦上総介、御酌は川原左内、長野舎人助、御給仕は田沢主殿、深井三弥、春原勘次郎、西窪内蔵千代、高沢又三郎也、終日御酒宴被成ける、昌幸卿上人に向て、此御寺の開山開基の次第は如何と御尋ありければ、上人詳に御物語あり、抑々浄土宗と申は、法然源空上人は、後白河院の御宇の時、関白忠通公、召諸宗之碩学、五十五箇日、被令講往生要集時、上人の講説最上なるが故に、知恵第一の名を得給ふ、帝深く信じ玉ふて浄土宗悉く本朝に流布せり、上人の御弟子有り、聖光上人を鎮西流と号し、次を隆寛律師長楽寺流と号し、其次を善恵上人を西山派と申也、善恵上人此寺の法祖たり、俗姓を尋るに賀川員外の刺史親季証玄入道の一子、久我の内大臣通親公の猶子也、自十四歳至三十六歳、善□寺往生院慈鎮和尚に付属し玉いて西山一流の法祖たり、然に宝治元年十一月廿六日遷化し給けり、上人寿世の時、唐橋大納言の孫子宰相中将雅清の御子を弟子に御契約有て浄音上人と申也、其弟子観知、行観とて両人有り、観知は奥州伊達の門族を御弟子に取給て道空上人と申也、此御弟子阿道も御弟子道恵上人と申す也、道恵上人三人の御弟子、円光、識阿、行覚と申也、行観の御弟子観教上人、此御弟子道覚上人と申也、貞治元年春の頃、道覚、円光、識阿、三人此処に来り玉き、其比当庄の地頭をば大織冠鎌足公より廿一代の胤孫吾妻太郎藤原の維光とて太田の荘に居住有けるが有夜筑紫より大船三そう此処に来ると夢に見え覚て家の子を召て此処山中也けるに船の来る事いか成告ならんやと申ければ、臣下進出て目出度御夢想也、是は大善知識来り玉ふべし、専ら郡中豊饒の御政事御子孫繁昌の御夢想也と判じたりければ、彼三人の僧てんねと出来り玉いけり、郡主喜悦し玉いて三人の僧を御馳走有り、就中識阿上人を居城の鬼門反辺と申す処に、新に一宇の堂場御建立有て無量山善導寺と号、当寺の開山是なりけり、康応元年十二月十日遷化し玉ふ、円光上人は青山遠通寺と号、後に他山し武州にて一寺を開き玉ふ也、道覚上人は同郡山田善福寺と号したり、此上人は貞治元年八月十五日遷化し玉ければ、御墓所は反辺の傍ら首の社の辺に一宇の阿弥陀の御堂を建ツなり(維光卿御逝去有て法名を普光院と号ければ後普光山□王善院善導寺と申也)爰に奇怪の御物語あり、善導寺二代目の住持道阿上人の母儀明徳四年癸酉四月八日、当国六ノ宮榛名権現へ参詣し給て、伊香保の沼を詠しが忽ちはたひろの大蛇に成て、沼の内へ飛入り玉ふ、此由道阿上人聞玉ふて、彼の沼の辺に参ければ彼蛇沼の中より尋出て鱗三枚道阿上人に渡し、善導寺有らん限に水自在たるべし、是迄也とて沼の内へ入玉ふ、上人は母公の蛇道に落玉ふ事をかなしみて三七日沼端にて御供養有て彼処に無き跡の石塔一基建立せられけり、今則ち明徳四年四月八日とほり付有り、此きすいにや何れの地に寺を移したりとも水出ざる事なしと、弁舌明らかに演説ありければ、昌幸公を始奉り、御相伴の人々言語道断の御物語と感じ入りてぞをわします、昌幸公重て御問有りければ、当国六ノ宮又伊香保の沼とぞ申有りける御物語如何と被仰ければ、上人さらば有らゝゝ御物語申さんとて、凡上州に十二社あり、西上州の一ノ宮と申奉り抜鉾の大明神と申し女体にて御垂跡は弥勒観音也、いこく阿育王の御子倶那被太子の御妹也、ニノ宮と申は赤城明神、大沼は千手観音、小沼は虚空蔵、禅頂は地蔵也、三ノ宮は伊香保明神、湯前の時は薬師、里に下ては十一面観音也、四ノ宮は宿袮明神、五の宮は若伊香保明神、千手観音也、六の宮は榛名満行権現、地蔵也、七の宮は沢の宮、小祝明神、文珠也、八ノ宮は那波の上宮火雷神、虚空蔵也、九ノ宮は那波の下の宮、少智大明神、如意輪観音也、惣社は本地普賢也、子持山明神、那波の八郎明神、同所からしなの明神也、伊香保の沼と申は当国の名所也、
順徳院の御歌に
から衣かくるいかほの沼水に今日は玉ぬくあやめをぞひく
定家卿の歌に
まこもかるいかほの沼のいかはかり浪こえぬらん五月雨のころ
家隆卿の歌に
五月雨にいかほのぬまのあやめ草今日のはいつかと誰かひくらん
と一々御物語被申ければ、古今の御物語尤殊勝の御寺也とて、寺社領の儀、勝頼公へ御披露有て前々の如く可被寄附とて御退出あり、昌幸公九月下旬参府被成けり、翌年正月甲州へ御参府有て、勝頼卿の御証文を善導寺へ被遣ける、
寺領之事
拾三貫文 川戸村之内 右之地善導寺へ令寄附訖、尤如前々山林竹木如有来不可有相違者也、仍而如件
天正十年壬午正月二十八日 御朱印
真田安房守奉之
善導寺
此外林村御房別当大乗院、川戸村一ノ宮□宮□、□□□□、岩下の鳥頭、平川戸岩つつみの明神、原の観音、岩櫃の不動、横尾の和利宮、同所八幡宮、下尻高の三山代明神、岩下の観音、市城観音、青山駒形、小泉の明神、□□観音、山田の善福寺、高戸屋の薬師□、岩井の玉川堂、嶽山近戸の明神、猿渡諏訪、何無残所、寺領社領御朱印給りける。