唐沢杢之助の次男。
お猿。
この章では玄蕃の相方。
中山城主。
鼓がヘタな事を数百年に渡って拡散されたり金の馬鎧をパクられたりと散々な目に遭う…。
次はまたまた短い章ですが、“唐沢玄蕃”と名を改めた“唐沢お猿”さんの話ですね~。
吾妻編と利根沼田編との間に突っ込んだ余談的エピソードっぽいですが、ココで出てくる「金の馬鎧」は後々重要アイテムとして再登場します。
天正の始め頃のこと…中山、尻高は白井へ味方していました。
その上、中山城も尻高城も究竟の用害だったので、吾妻勢はたびたび困らされていました…。
吾妻の武田勢「…クソ~!…正攻法じゃあ中山も尻高も落ちねえぜ!…こうなったら忍を入れて城を焼き落とすしかねぇ!」(原文:さらば忍を入て城を焼落べし)
(…これ誰のセリフかな…海野兄弟?…昌幸…?…この後の展開からしたら信綱かもしれないですね。まあ吾妻のみんなで相談してそうなったってコトか。)
…というワケで、唐沢玄蕃に潜入の指令がありました。
唐沢は割田新兵衛尉と協力して、まず尻高に忍び入り、火を放ちました…!
続いて中山城へ忍び入った唐沢は中山平形安芸守が鼓を打って酒宴をしている場面に遭遇します。
唐沢「…うぅッ!?……こ、これは?……なんてヘタな鼓なんだ…!」
割田「…ぬう!…これぞまさしく『百一つ』の中山鼓…!」
唐沢「知っているのか割田!?」
―――――
中山鼓…
中山安芸守の鼓は下手クソとして知られており、百回打っても一度もマトモな音がしなかったので、世の人は「中山殿の鼓にて百一つ」と噂しあったという…。
…ちなみに現代においても極端に楽器の下手な人物の放つ音が人体に悪影響を及ぼすことは科学的に証明されているところであるが、中山安芸守を含めた当人たちにその意識がないのは皮肉な話である。
――民明書房刊『恐ろしき音響兵器』より――
―――――
原文「中山鼓はへた也百の内にひとつもつゝみの音せざりければ、世の人中山殿の鼓にて百一つと申あへり」
「中山鼓はへた也」って…こんなにシンプルかつインパクト大なディスりがあるだろうか…しかも400年以上も拡散し続けるとは……。
中山安芸守もビックリでしょうね。
唐沢「…それにしてもヒドイ…こんなのを宴の度に聞かされる中山の家来たちは災難だな…」
………
そうこうしているウチに夜も更け、皆が寝て夜廻りの者も油断し始めました…。
…さて唐沢玄蕃は中山城の納戸へ忍び入り、あちこちを探りました…すると…
唐沢「こ…これは!?」
唐沢が見つけたのは金色に輝く馬鎧でした…!
………
割田「あれ?お猿…火はつけて来なかったのか?」
唐沢「お猿じゃなくて『玄蕃』って呼べ……つーか割田ッ…コレ見ろよ!スゲーだろ!…城に火ィつけたら無事に運び出せなくなるかもしれねーからな…どー考えてもコッチのほうが優先だろ?」(原文:くつきやうの事)
割田「ま、まあオマエがそれでイイならイイけど……ん?…その馬鎧って…」
………
割田「…うおッ!?…こ…これはまさしく『金の馬鎧』ッ!…ば…馬鹿な…し…信じられん…あの伝説が本当だったとは…!!」
唐沢「知っているのか割田…!?」
―――――
金の馬鎧…
この馬鎧は中山安芸守が齋藤越前守と共に関東管領である上杉憲政へ出仕した際に拝領したものであると言われている…。
…ちなみに物事が順調に運ぶことを「上手くいく」というが、その語源はこの馬鎧により名を上げた唐沢玄蕃の故事に由来して「馬くいく」→「ウマくいく」と変化したものであることは言うまでもない。
――曙蓬莱新聞社刊『ウマい話にご用心!』より――
―――――
…そんなワケでウマいことお宝を手に入れた唐沢玄蕃…彼は気質が一途な若者だったので、出陣といえば馬にこの馬鎧をかけて出てきました…。
ある年、信玄が西上州に出張してきた際、真田の軍に参加していた玄蕃が信玄の目に止まりました…。
(この章の出だしが「天正の始」で始まっているのに中山城に忍び込んだ後の唐沢玄蕃が信玄の目に止まるってのはオカシイですが…あくまで天正の始「頃」ってコトなんですかね?…まあ細けーコトはイイや~『加沢記』を楽しみましょう)
信玄は真田信綱を呼んで…
信玄「オイ…信綱~…アイツの馬鎧…なんかスゲくね?…オレ前にさぁ…アレを信州(武州?)松山合戦の時に見た気がすんだよね…このご時世にあんな“金の馬鎧”なんてそうはねぇと思うんだけど……アイツ何者?」(原文:珍しの馬鎧先年信州松山合戦の時見たる馬鎧なり……其頃は世上乱の中故金の馬鎧などは無き物と聞へたり……何者)
信綱「あ~…アレは唐沢杢之助の子のお猿ですね。今は玄蕃って名乗ってますが…」
信玄「…!!…あ~ハイハイ……“唐沢お猿”ね!…そういえばオレ手紙書いたことあるわ~…へぇ、アイツがね~…」
…というワケで、唐沢は思わず名を上げたのでした。
天正の始中山、尻高は白井へ随身の事也けり、其上究竟の用害なりければ吾妻勢度々失利けり、さらば忍を入て城を焼落べしとて唐沢玄蕃に被仰付けり、此旨承り割田新兵衛尉を相語ひ尻高に忍入放火したりけり、中山の城へ忍入ければ中山平形安芸守鞁を打て酒宴して居たり、中山鞁はへた也百の内にひとつもつゝみの音せざりければ、世の人中山殿の鞁にて百一つと申あへり、かくて夜更皆々寝り夜廻りの者も油断したりければ、玄蕃中山が納戸へ忍入爰かしこをさがすに金の馬鎧有、くつきやうの事と思ひ放火はせずして馬の鎧盗取て帰りけり、此馬鎧は安芸守齋藤越前守代に管領へ出仕の砌拝領したるが此度唐沢に被取たり、玄蕃気一の若者にて陣と申せば此馬鎧を懸て出ければ、壱年信玄公西上州出張の節玄蕃真田の手に属し出ければ、信玄公の御目に付信綱を召て珍しの馬鎧先年信州松山合戦の時見たる馬鎧なりと被仰しと也、其頃は世上乱の中故金の馬鎧などは無き物と聞へたり、其時何者と御尋有ければ唐沢と被仰上ければ唐沢不慮に高名をぞあげたりける。