加沢記 巻之四② 信州信長公御手に入事附真田殿御行之事

加沢記 信州信長公御手に入事附真田殿御行之事
加沢記 信州信長公御手に入事附真田殿御行之事

主な登場人物

真田昌幸

刑法第233条に抵触する。

織田信忠

高遠から信州を攻めるが、昌幸の策略で和解する。

菅谷九右衛門

長頼。信忠から信州勢との和解の使者を命じられる。全然関係ないけど月岡芳年の絵がコワイ。

内容

 さて、新しい章ですが…ココはメチャ長かった前章に比べたらとても短く…武田が滅んだ後の真田が身の振り方について書かれた章ですね…

 見どころは真田昌幸の駆け引きのウマさ…っつーか詐欺師っぷりですね。

 

 天正10(1582)年3月1日から始まった戦いで高遠の城も落ち…前章で織田信忠に対して超強気な手紙を叩きつけた仁科五郎信盛も亡くなってしまいました…。

 結果、この国の武士は残らず人質を出して降伏したのでした…。

 

 昌幸は一族の祢津、矢沢、常田、室賀、八代、鞠子、小泉、浦野、ナントカ、原、相田、芦田、武石といったメンバーと協力しながら、なんとか居城を固めていましたが…

 

 織田信忠は高遠に移り、その勢100,000余騎に加え、さらに降参した信州勢30,000余騎をもって、雲霞のごとく猛威を振るい襲ってきました…!

 

――ドオオオオ――

 

信忠「…フハハハハッ!……滋野ども~!…とっとと降参しやがれ~!!」

 

室賀「お、おい…真田の~…アレどうするよ?」

 

昌幸「…あ?…オメーら城介(信忠)ごときにビビッてんじゃねーよ……相手がどんだけ多勢だろうがよォ…それこそ60余州の兵から攻められようともよォ~…戦っつーのは“一心”が肝心なんだよ…!(原文:縦令何程の多勢にて六十余州の兵寄来るとも戦は一心にあり)

 

………

 

昌幸「…とりあえずよ~…ウチらが越後と、小田原と…既にウラで繋がってるっつー“風聞”を流すべーじゃねぇ……飛脚に書状なんか持たせちゃったりしてさ~(笑)※(原文:越後、小田原へ手づかひ有由風聞させ、其上飛脚に書状など為持)

 

※これだけでも恐ろしいのに、実は虚偽の“風聞”なんかじゃない(『加沢記 』にもそのことは書かれていない)からさらにゾッとしますね~😱(刑法233条的なイミで)

 

昌幸「“加勢を待つ”って密状にバッチリ『長尾(上杉)どの』『北条どの』って宛名書いてさあ……そんでソレを直に高遠の城介ントコに持ち込んじゃうのよ(笑)……そしたら飛脚のヤツ、恩賞がもらえたりしてなあ!…ギャハハハハ…(原文:前方の約諾御加勢を待存之旨密状、長尾殿、北条殿へと被遊被差越ければ、直に高遠に持参し御恩賞にも可預)

 

一同「😱😱

 

 この昌幸の工作が功を奏して――偽造…ではないけれど、ハナから本来の相手に届けるつもりのない――密状が、信忠の目にとまりました…。

 

信忠「…あン?…コレは…!……チッ…上杉と北条が援軍に来たらメンドくせーな…オイ九右衛門!…ちょっと…」

 

※信忠が「実の書状と被思」と書いているあたり、『加沢記』的には、真田がこのとき既に越後や小田原と通じていたのはウソってことにしておきたかったんでしょうかね。知らんけど。

 

 こうして、昌幸の流した風説により、越後と小田原の参戦を懸念した信忠は、菅谷九右衛門尉に命じて、滋野一族のもとに飛脚を走らせました…。

 飛脚が持ち込んだ内々の書状には…

 

菅谷「オッス!…滋野のみんな~!…元気してる?…つーか勝頼公も没落して信州の国中が残らず降参したっつーのに…アンタらよくガンバるね~…いやマジでその籠城っぷりは“神妙の至”だって、ウチの信忠さまもホメてたよ…“頼もしい心底”だってさ…(原文:今度勝頼公没落、信州一国不残令降参候処に、貴方籠城寔以神妙の至に、信忠公を始御感に入、頼母鋪御心底にて候)

 

………

 

菅谷「…しかしだ…オメーら気付いてるか知らねーけどよ…勝頼公は去る11日、すでに御生涯されたぜ……だから…悪ぃコトは言わねー…ウチら(織田)に付けよ…な?……関東の先鋒をオメーらに頼みたいっつー上(信長さま)の意向もあるしよ~…(原文:勝頼公は去十一日為御生涯候、条向後幕下に属、万事当国関東の御先をも頼入度との上意候)

 

………

 

菅谷「…まあオメーらにしたら色々とあるだろーけどよ、この状況でこんなイイ話もねーだろーが?……な?…オメーらさえ良ければ、オレから信忠さまにウマいこと言っておくからよ…(原文:余儀を不残御同心に於ては、生前の大慶不可過之、猶御同意候者、篤と信忠公へ可申上)

 

昌幸「(ԅ(´´∀´`ԅ)ニタァ~)」

 

………

 

昌幸「菅谷どのにソコまで言われちゃ…しょうがねえ…信忠さまンとこにあいさつ行くか!…なあみんなッ!!(原文:左らば御礼申ん)

 

――( ´д)ヒソ(´д)ヒソ――

 

昌幸「…な!…城介(信忠)なんざチョロいんべ……コレでイイ条件で織田に取り入れただろ…シシシ😁

 

一同「…ゾォォ…😱

 

…こうして昌幸を始め、矢沢、祢津、芦田、室賀たちは、3月15日に高遠へ出仕し、人質を差し出しました…。

 昌幸も娘を渡しました…。

 

信幸姉「(…ううッ…やっとの思いで新府から帰って来た(※前章参照)のに…💢)」

 

信忠「おうオメーら、よく来たな~…ま、そういうコトならよ~…間違いなく本領安堵するってコトで、後でウチの信長から証文送るからな…(これで信州もひと段落か…😮‍💨(原文:人々本領安堵無相違の旨、追而信長公の御証文可進)

 

 滋野の面々は厳重な儀式で信忠から杯(さかずき)を賜り帰城しました…。

 

…さて、その後…

 

――スッ…――

 

忍「…勝頼さまは12日(?)、天目山にて御生涯されたようです…(原文:勝頼公、十二日に天目山にて御生涯)

 

昌幸「…そうか…」

 

………

 

昌幸「(…ああッ…!……勝頼さま……勝頼さま…)」

 

…昌幸は涙を流し、長国寺で作善、仏事を執り行いました…。

 

…こうして、織田信長はついに甲府に入りました…。

 

…滋野の面々はそれぞれ使者をもって、信長に対して仁義を切りました…。

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原文

天正十年午三月一日高遠の城没落、仁科五郎信盛御生涯ましゝゝければ一国の武士一人も不残人質を出し降人に成たりけり、昌幸公御工夫有て御一族祢津、矢沢、常田、室賀、八代、鞠子、小泉、浦野、□□、原、相田、芦田、武石の人々御会合有て居城を固めて居給ければ信忠公は高遠に御移有て御勢十万余騎、信州降参の勢三万余騎、其勢雲霞のごとく猛威を振て滋野の御一族に御断なく降参を待給て有けるが、昌幸公御行に縦令何程の多勢にて六十余州の兵寄来るとも戦は一心にありとて越後、小田原へ手づかひ有由風聞させ、其上飛脚に書状など為持、前方の約諾御加勢を待存之旨密状、長尾殿、北条殿へと被遊被差越ければ、直に高遠に持参し御恩賞にも可預と、信忠公の御目に懸たりければ、実の書状と被思、菅谷九右衛門尉より飛脚到来しけり、今度勝頼公没落、信州一国不残令降参候処に貴方籠城寔以神妙の至に信忠公を始御感に入、頼母鋪御心底にて候、勝頼公は去十一日為御生涯候条向後幕下に属、万事当国関東の御先をも頼入度との上意候、余儀を不残御同心に於ては生前の大慶不可過之、猶御同意候者篤と信忠公へ可申上と内状到来したりければ、左らば御礼申んとて昌幸公の始、矢沢、祢津、芦田、室賀、三月十五日高遠へ出仕し給て人質を被出ける、昌幸公も御娘子を、被渡ける、人々本領安堵無相違の旨、追而信長公の御証文可進とて信忠公何れもへ御盃を賜り帰城せられ厳重の御儀式也、勝頼公十二日に天目山にて御生涯の由忍の者申上ければ昌幸公御涙を流し給て長国寺に於て作善御仏事有けり、斯て信長公は甲府に御座有れば各以使者御礼儀被仰上ける。