猫城は現在の渋川市赤城町津久田にあったお城です。
天正10(1582)年6月、沼田城の矢沢頼綱の命により、金子美濃守泰清、恩田越前守、下沼田豊前守、発知左衛門五郎、中山右衛門尉、塚本肥前守、高橋右馬允たちの沼田勢1,000余騎が、中山右衛門尉を先掛の大将として、白井長尾氏領内にあったこの猫城に対して、侵攻したわけですね。
猫城を守っていたのは長尾一井斎の家臣、牧和泉です。そして樽の要害(現渋川市赤城町)には牧弥六郎が立て籠もっています。彼らは沼田勢を待ち構え、猫城に近づいたところを林の中の伏兵に襲わせるという作戦をとりました。さらに上白井からの援軍もこれに加わります…!
上白井からの増援のなかに、大右衛門尉と名乗る伊玄入道のナントカ(書写した人も読めなかったらしい…)が「金子のがすな」と叫んで沼田勢を襲います。金子泰清は沼田国衆の筆頭でエライから、討ち取れば手柄になるんですね。
さてその時、泰清のとった行動は…!?
……白井勢の大右衛門尉に名指しで狙われた泰清は、捨鞭を打って退却してしまいます。これが原因で沼田勢は劣勢となり、恩田越前守、下沼田豊前守の兵たちは追い詰められてしまいます。
この後「泰清に比べて…」と言わんがばかりに塚本肥前守のエピソードが入ります。逃げ遅れた兵たちを警固した塚本肥前守も牧弥六郎に「塚本遁すな」と狙われますが……
塚本は「本備崩れければ力なし、重て見参申さん!」とタフな台詞を吐いて悠然と退きます。これを見た牧は「聞しにまさる勇士!」と一礼し猫城に引き返します。…泰清とエライ違いですね~。
さて、この猫城の戦いでは歴史的に重要な事件が起こりました。中山右衛門尉の戦死です。これにより中山城(現吾妻郡高山村)の家人の多くが北条方になびき、右衛門尉の弟である九兵衛は矢沢頼綱の助言により、姉婿である名胡桃城の鈴木主水のところに逃げます…。そして、この中山九兵衛が後に、豊臣秀吉の北条征伐のきっかけとなった名胡桃城事件の片棒を担ぐワケですね。
…つまり!――もし金子泰清がヘタレでなく、真田の猫城攻めが成功に終わっていたら、歴史は変わっていた!??――(注:個人の感想です。)
↑令和2年2月22日(土)の猫の日(?)に猫城に行ってきました。