越前守で一岩齋な入道。
次々に裏切りに遭った末に真の忠臣の存在に気付く。
弾正忠で一徳齋な入道。
和談之儀(ウソ)の裏で調略を行う。
幸隆の三男。
後の真田昌幸。
後の唐沢玄蕃に出会う。
憲広の甥。
鎌原にそそのかされる。
「だが断る」が言えない子。
能登守。
ロリコン。
越前太郎。
憲広の嫡子。
父親を逃がすため敵陣に突っ込んで行く姿がカッコイイ。
四郎太夫。
憲広の次男。
よりによって一番戦ってはいけない相手に突っ込んで行く。
四万谷喜美野の尾(君の尾)の住人。
病弱。
巻之一の最後で爽やかな感動をもたらす。
さて、今度は『齋藤入道没落並沼田勢加勢之事』ですね~…今回のは長くなりそうですが…この章では沼田衆の面々が少しだけ登場しますので沼田市民である私としてはうれしいところですね。
なお最初のあたり前章より少し時間が遡りますので「ん?オマエなんで生きてんの?」みたいなところがあるのですが『加沢記』ではよくあることです。
永禄6(1563)年8月下旬のこと、齋藤越前入道は一門と家来を集めて会議を行いました…。
齋藤「羽尾と鎌原のケンカについてのコトだけどよ~…鎌原のヤロウ、信玄に媚びやがって!…それでよ~…どうも大戸と浦野のヤツらも同じことを考えてるみてーなんだよ…!
こうなったら沼田の万鬼齋、それからヤツのせがれの三郎憲泰と和睦して、援軍を出してもらった上で鎌原をぶっ〇そうと思うんだけどどうかね?」(原文:去る頃より羽尾治部入道と鎌原と不和の後は甲州へ鎌原忠節ありければ、大戸、浦野も其振見えければ、沼田万鬼齋、同三郎憲泰と和睦して加勢を乞鎌原を退治せんと思は如何に)
一同は賛成し、中山安芸守を通して沼田にこの旨を申し入れたところ、憲泰は引き受けました。
このことを知った鎌原は…
鎌原「齋藤のヤツ、今度は沼田とツルんでオレを〇そうと企んでやがります!」
…と、真田幸隆を通じて甲府へ言いつけます。
信玄は…
信玄「それは放っとけねーな~…すぐ行ってシメたれや!」(原文:速に誅罰有ん)」
…と真田へ下知しました…!
甲府からは検使(戦の見届け役)のため、幸隆の三男である武藤喜兵衛尉昌幸と三枝松土佐守が派遣され、小県郡に着陣しました。
武藤喜兵衛尉昌幸――いわゆる真田昌幸――がここでようやくストーリーに絡んでくるんですね~(名前だけは一番最初の章に出てきましたが)。
そして、甲府からの援軍の大将は一徳齋(真田幸隆)、それに従う人々は――矢沢右馬介、常田新六郎俊綱(この時はまだ生きてる)、嫡子である源左衛門尉信綱、祢津宮内太輔元直の嫡子である長右衛門尉利直、海野(御聖道さま:海野信親=武田竜芳が継いだほう)の家来である小草野孫左衛門、相木市兵衛尉、芦田右衛門佐、鎌原宮内少輔の嫡子である筑前守、湯本、西窪、横谷――といった人々です。
彼ら、都合3,000余騎は二手に分かれ、横谷雁ケ沢口と大戸口へ押し寄せます…!
二手に分かれた軍のうち、祢津、芦田、矢沢たちは大戸口へ向かいました。
齋藤方であった大戸真楽齋は早々に舎弟である権田の地頭、但馬守を人質として差し出し、降参しました…。
このような状況の中、齋藤方の不利を知った沼田三郎憲泰は、弟である沼田弥七郎朝憲を大将とした援軍を派遣します…!
沼田勢のメンバー――山名信濃守、発知図書介、下沼田道虎入道、名胡桃の鈴木右近、そのほか師大助、山名弥惣、西山市之丞、塩原源五左衛門、原沢惣兵衛、増田隼人、根岸左忠、小野、広田、深津、真下、小川の一族――は、都合500余騎で、永禄6年9月上旬に沼田を出発し、岩櫃に着陣しました。
また、白井城主である長尾左衛門尉憲景も…
長尾「…吾妻がエライことになってるな……よし、オレたちも力を貸すぜ!」(原文:合力有ん)
…と、家老の矢野山城守、牧弥三郎に200余騎を添えて、同じく岩櫃に着陣させました。
沼田勢と白井勢の援軍を得た越前入道(齋藤)は大喜びで、甥の弥三郎則実、家来の富沢但馬、同勘十郎、同伊賀、同豊前、同又三郎、蜂須賀伊賀、一門の中山齋藤安芸守、尻高左馬之介、荒牧齋藤宮内右衛門、そのほかに塩谷源次郎、蟻川入道、佐藤豊後たち300余人を動員し、彼らと沼田勢と合わせた800余騎を、雁ケ沢口へ差し向けます…!
さらに、大戸口へは次男の齋藤四郎太夫憲春、富沢但馬、唐沢杢之助、一族の植栗安房守元信、外様の中沢越後、桑原平左衛門尉、同大蔵、ニノ宮勘解由、割田新兵衛尉、同隼人、鹿野右衛門佐、茂手木三郎左衛門、高山左近、富沢主計、井上金太夫、神保佐左衛門、川合善十郎、高橋三郎四郎、伊与久大五郎、荒木、小林、関、田村、一場左京進…以下都合800余人に、白井勢を合わせた1,000余騎を差し向けます。
そのほかにも一ノ宮、首宮、鳥頭、岩つゝみ、和利宮の神主や、川野、片山、高山、小板橋の神主らに至るまで、今回の一大事にお供をしようと、一類を集めた100余人で齋藤の味方をしました。
9月15日辰の刻、岩櫃を出発した齋藤の軍は、仙人が岩の南にある手子丸の城を攻めます……が…!
手子丸を守る大戸真楽齋の部下たちは、鉄砲を打ち掛けてこれを阻みます…!……攻めあぐねた齋藤の軍が躊躇していると……
祢津、矢沢、芦田、常田たちが兵を率いて榛名山の居鞍ケ嶽を越え、山上から声をあげながら襲ってきました…!
齋藤たちは不意に山上から攻められ…
齋藤「…うう…こりゃアカン…」(原文:不叶)
…と茶臼の橋の辺り、郷原の十二神の森、志戸生、梅ケ窪まで退却します…。
いっぽう、雁ケ沢へと向かった者たち(齋藤の甥の弥三郎たち…沼田衆もこちら)は、地形を利用してそこかしこの山々谷々に隠れて、寄せ来る敵を待ち構えていました。
これに対して、無双の勇士として知られる真田幸隆親子は、長野原で会議を行いました。
幸隆「…ウチらも信州じゃあブイブイいわしてっけどよォ~……オメーら(信綱と昌幸)アレ見てみ?……齋藤憲広入道のヤツ、この攻めづれー地形を最大限利用して一門や家老をあげてココを守ってやがるぜ~…
…しかもだ、これから大戸口にはヤツ(齋藤)のせがれの四郎太夫(二男の憲春)が差し向けられてくるだろーしよォ……これじゃあコッチ側から攻めたって勝てっこねーよな?…さてどうすっかね?」(原文:信州の大手なれ共、憲広入道難所を頼て一門家老の者を以可防……大戸口は子息四郎太夫を可差向、こなたより大手に寄ん事せんなし)
そして、この会議を踏まえて嫡子の信綱と三男の昌幸がとった行動は……
幸隆の嫡子である信綱は、三枝松土佐守とともに500余騎を率いて火打花、高間山を越え、涌水、松尾の奥にある南光の谷へ向かいました。
また、三男である昌幸は赤岩通りを抜け、暮坂峠を越えて折田、仙蔵の城へ迫りました。
仙蔵の城を守っていた城代の佐藤将監入道と富沢加賀は、昌幸に降参して人質を差し出してきました。昌幸はこの城に西窪治部と川原在京を置いて守らせました。
昌幸はさらに唐沢杢之助を降伏させました。唐沢は妻と子供を連れて八尺原にあいさつをしに来ました。
昌幸「おー!…ハシッコげな子じゃねぇか!オメー名前は何つーの?」
唐沢の子「お猿です。」
昌幸「…あ?…??…何だって?」
唐沢の子「『お猿』です。」
昌幸「(…?…オレ名前を聞いたんだよな?…なんか今このガキ…おサルがどうのこうの言った?……まあイイか…)」
お猿「(…このオッサン…オレの名前をバカにしてやがるな…!…クソッ!…大人になったら絶対カッコイイ名前を名乗ってやるぜ!)」
――この唐沢の子『お猿』は、後に『玄蕃』と名乗ることになるのであった…――
さて、昌幸は戦況を父の幸隆へ報告し、自分は有笠山に出て、(この辺読めない部分あり)戦いの様子を遠くから偵察しました…。
武山の城では一岩齋(齋藤)の末子である城虎丸(16歳)が、一族の池田佐渡守重安と共に、兵を温存し、鳴りを静めて籠城しています…。
昌幸「(城虎丸のガキはともかく…池田は怖いぜ~…武山城のヤツらが動き出したら勝てねーな…)」
いっぽう、幸隆は林の郷と諏訪の森に本陣を据えました。そこへ先陣である鎌原宮内少輔父子、相木市兵衛尉、小草野孫左衛門、湯本善太夫、横谷左近入道たちが走り寄ってきて状況を報告します。
その内容は……
鎌原たち「…あ~もう、ムリムリ!…真田の大将~…岩櫃は吾妻でも第一の難所ですよ?…しかも無双の城郭って言われてるトコだし……力押しじゃあ敵うワケないですって!…得意の智略で何とかしてくださいよ~!!」(原文:吾妻第一の難所成り、其上無双の城郭成ければ力責には難叶、智略を以討給かし)
一徳齋(幸隆)たち父子は考えを巡らせて、諏訪の別当大学坊と雲林寺の住僧に頼んで善導寺へ内通し、和談を持ちかけました…。
善導寺の住寺はこのことを齋藤越前入道へ伝えます…。
善導寺の住持から話を聞いた齋藤は…
齋藤「うーん…そもそも今回の件は、大戸と浦野と鎌原のヤツらをぶっ〇したくて始めたことであって、別に信玄公に恨みがあるワケじゃねーしな…。ココらが潮時かねぇ…」(原文:内々此度の企は大戸、浦野、鎌原を退治せん迄の儀なりければ信玄公に御恨なし)
…と、和議を受け入れました…。
…まぁ、真田がただの和議なんか申し入れるワケがないんですけどね~…。
ここから『加沢記』でも屈指の非情のワナ(人間関係破壊系)が齋藤家を襲います…。コワイですね~。
そんなワケで和議が整い、鎌原、浦野、大戸も和談して仙蔵の城を齋藤方に返した上に、それぞれ人質を齋藤に引き渡して、兵も帰陣させるという「風聞」を流しました(つまり真田方の武装解除はウソなんですね~)。
人質は齋藤の甥である弥三郎に預けられました…。
いっぽうの齋藤方は…
沼田と白井からの援軍「齋藤の入道…マジでオレたち帰っちゃっていいの?…大丈夫?」
齋藤「おう!…今回は助かったぜ!…鎌原どももワビ入れてきたし、もう大丈夫だろ…」
…と、こんな感じで沼田と白井からの援軍もみんな引き上げていきました…。
さて、鎌原は岩櫃に伺候し、ついに齋藤入道と対面、一礼します。
齋藤「…鎌原~…てめぇ…散々やらかしてくれたなぁ…今回は真田の和議に免じて許すけど…二度と調子ノンなよッ…!」
鎌原「…はいッ!…スイマセンでしたッ!…もうしませんッ!(…ケッ!)」
このとき鎌原は、齋藤の甥である弥三郎にも細々と一礼しています。(過去に鎌原は富沢行連を利用してこの男と内通したことがありましたね。)
その夜……鎌原は弥三郎の館ヘ一泊し、彼のご機嫌とりを試みます…。
鎌原は弥三郎に…
鎌原「…弥三郎の~…アンタとは長年仲良くやってきてたのに、ここ最近ヘンなことを企むヤツらのせいですっかり疎遠になっちまったよなぁ…まぁ今夜は飲んで、旧交を温めべーじゃねぇ…」(原文:貴方多年の懇切不浅候処に讒者の故近年隔心に候也)
…と、深夜まで酒宴をして語り合いました…。
酒が入ってすっかり打ち解けた弥三郎は、鎌原にこっそりと心中を吐露します…。
弥三郎「…なぁ鎌原…信玄公は長いことウチの入道殿にムカついてるだろ?…そのうち大軍で攻めてきたりしねぇかな?…もうコレ後戻りできねーんじゃねぇかな?(…ガクガク…)」(原文:信玄公多年入道殿に御意恨有ければ終には多勢を以御誅罰有ん事踵を廻すべからず)※もしかしたらコレ鎌原のほうのセリフかも?――そのうち信玄公キレて大軍で齋藤入道を攻めるで?アンタどうする?――的な脅し?
鎌原「(ニヤリ)…アンタさぁ……そんなに心配なら、この機会に寝返っちゃいなよ!…そうすれば信玄公がこの郡のアンタの領地を安堵してくれる事は間違いないって!……そうと決まれば真田に頼んで仲介してもらうべぇ!…な?」(原文:されば貴殿今度の序に返り忠し給は当郡安堵し給ん事疑なし、さ有に於ては真田を以忠信申ん)
…と、懐から熊野牛王の起請文を取出し、弥三郎に渡しました…!
弥三郎「オ…オジキを裏切れば…岩櫃を差し出せば…ほ…ほんとに…オレの『領土』…は安堵してくれるのか?」
鎌原「(ニタァッー)ああ~、約束するよ~~っ、やつの『城』と引き換えのギブ・アンド・テイクだ(証文を)書けよ・・・早く書け!」
…と、弥三郎は欲が強い男だったので、残念ながら「だが断る」とはならずに、主従一族の縁も忘れて起請文を書いて鎌原の誘いに乗ってしまいます…。
これに乗じて家来や家老の人々を含む大半が心変わりしてしまうんですね~…。
鎌原「へへッ…弥三郎のガキなんざぁチョロイもんだぜ…問題は海野長門守幸光と能登守輝幸の兄弟だな…ヤツらが齋藤入道に感じている恩義はハンパねぇぜ…!さて、真田の大将はどうするつもりかねぇ?」(原文:海野長門守幸光、同能登守は如何有……無覚束)
が…周囲の心配をよそに、幸隆は海野左馬允を仲介役にして、海野幸光、輝幸の兄弟を簡単に味方に引き入れてしまいました…。
――いくら同族の仲介があったとはいえ…あの海野兄弟が齋藤入道を裏切るなんて――
――ゴゴゴゴゴ――
真田…一体どんな手を…?(原文:海野兄弟は齋藤入道重恩の人也けるにかく心変りは有ましけるに…)
実は昨年の12月晦日…こんな事がありました…。
海野能登守(輝幸)が可愛がっていた女の子が亡くなってしまい、輝幸は彼女をとむらう為、遺体を善導寺へ送ろうとしていました…。
…が、ド年末のことだったので、越前守(齋藤)は大手の門に門松を立て置き、歳末の祝をしていました。
門番は遺体を通そうとする輝幸を見て…
門番「海野さん、見てのとおり式典中なんで…死体はちょっと…」
…と止めようとしました…。
輝幸「…あン!?(怒)」
――ドドドドド――
輝幸「バカ野郎!…オレの大切な☆☆(女の子の名前)ちゃんが亡くなったんだぞッ!!…オメーらの都合なんか知らねーよッ!!」
…と、門松をぶっ壊して遺体を運び入れました…。
門番はこのことを齋藤入道へ訴えましたが、齋藤は…
齋藤「あぁ…ま、能登守(輝幸)のことじゃあな…剛の者であるアイツらしいや。しょうがねぇやな~」
…と大した問題にはしませんでした。
しかし、やはり内心では(ちっとナメてらいな…)と思っていました…。
輝幸のほうでも
輝幸「(入道殿もケチだよな…知らねー仲じゃねぇんだから…こんな時くらい気を利かしてくれたってよくね?)」
…と、面白くなく思っていました…。
そして正月二日、もうひとつの「事件」が起こります…!
正月二日、海野輝幸は本城に出仕し、齋藤入道に年始のあいさつをしました。齋藤入道も盃を持ち出してこれに対応します…。
齋藤「(輝幸…晦日の件について一言詫び入れてくんねーかな…そしたら許してやるんだが…)」
輝幸「(入道殿(齋藤)…☆☆(女の子の名前)ちゃんのお悔やみについて一言触れてくんねーかな…そしたら許してやるんだが…)」
………(気まずい空気)
……
輝幸「(…ハァ……ダメだな…このオヤジ…)」
………
輝幸「ところで入道殿ッ!…オレ去年の冬、めずらしい刀を手に入れたんですよ~!…ぜひご覧くださいよッ!!」(原文:いかに入道殿某は旧冬珍敷刀を求得たり、是御覧候へ)
――ギラッ!!――
…と、氷のような刃を抜き出し齋藤に突き付けます…!
齋藤「(ビクッ!……こ、この野郎ッ!…主君であるオレに向かって…刃を突きつけやがったな…!)」
…と、一瞬不快の表情を浮かべましたが…
齋藤入道はそんな素振り(怒った様子)は見せないで
齋藤「ほう…イイ刀だねぇ」
…と、宴会で輝幸をもてなして、その場は退出しました…。
齋藤「じゃあね能州(輝幸)、ゆっくりしていってね」
――クルッ――
齋藤「(ピクピク(怒))」
――ゴゴゴゴゴ――
…と、このように年末年始にかけて齋藤憲広と海野輝幸の間で些細な諍いがありました。
そんなわけで、ちょうどこの頃(真田が齋藤にウソの和議申入れをした頃)は、齋藤と、輝幸の兄である幸光も含めた海野兄弟の主従関係は、あまり良くなかったんですね~。
まあ、こんなケンカ、たいしたことなかったんですよ…。「ゴメン」て謝ればすぐ仲直りできたんです…。
しかし、世の中にはこんな些細な揉め事を嗅ぎ付けて「憎悪」にまで発展させてしまうヤカラがいるんですね~。
そして、齋藤が戦っていたのは、そんな相手でした。
………
鎌原たち「…と、まぁこんな具合で、齋藤と海野兄弟はつまんねーコトで仲違いしてるみたいですよ。まぁワザワザ報告するようなコトじゃないけど…」
真田親子「…へぇ~、そうなんだ…。(ニタ~~ッ…※超悪い笑み)」
コワイですね~…。
現代においては、刀や鉄砲でカチコミかけられる事はあまりないと思うけど、些細なケンカが第三者に利用されて、いつの間にかとんでもない事態にまで発展させられることはあるかもしれませんからね~…。気をつけましょう。そしてケンカしたらすぐ謝って仲直りしましょう。
…と、いうワケで海野兄弟は…
海野兄弟「面白くねーから岩櫃を乗っ取って武田へ寝返るのもアリかな~」(原文:隙を伺岩櫃を責取武田へ忠信せん)
…なんて考えていた心のスキを突く真田の手口により、矢沢綱隆および同じ海野姓である海野左馬允に内通して幸隆側に付くことになりました…。
海野兄弟「…幸隆公…あんまり時間が経たねーうちに仕掛けたほうがイイと思いますぜ…。ウチら兄弟のほうでは、齋藤弥三郎と通じて連判の起請文を差し出しますから…ヨロシク…」(原文:幸隆公時日不移出馬有べし、我等兄弟齋藤弥三郎同心の上は連判の起請文を以申べし)
…と、9月15日に鳥頭の宮へ参詣と称して出かけていきました。
海野兄弟は首の宮別当の専蔵坊と鳥頭の神主である大隅太夫に頼み、自分たちと齋藤弥三郎に加え、植栗安房守、富沢但馬父子、唐沢杢之助、富沢加賀守父子、蜂須賀伊賀、浦野中務太輔が連判した起請文を作り、矢沢薩摩守に差し出しました…。
幸隆は、海野兄弟が矢沢に差し出した起請文を見て、10月中旬に再び2,500余騎を集めて齋藤を攻めます!
そのメンバーは――嫡子の源太左衛門信綱、武藤喜兵衛尉昌幸、矢沢薩摩守綱隆、三枝松土佐守重貞、同苗兵部信貞、まりこ藤八郎、室賀兵部太夫義平、祢津美濃守信直、小泉、芦田の一党、海野左馬允、鎌原父子、西窪治部、同蔵千代丸、湯本善太夫、同三郎左衛門尉、横谷左近、浦野義見齋――といった人々です…!
幸隆は2,500騎の軍を大手と搦手の二手に分けましたが、今回は鴈ケ沢ロを攻めませんでした…。
まず信綱、義平(室賀)、重貞(三枝)たちが、2,000余騎を率いて暮坂峠に向かいます…!これは沼田、白井の援軍を押さえるためです。
綱隆(矢沢)と昌幸は500余人を率い大戸口へ向かうと、大戸真楽齋兄弟も200人を率いて須賀保峠丸屋の要害に出向き、合わせて700余騎が三島を越え類長峰と大竹に、大戸は案内役として萩沢に陣取りました…。これは三輪(箕輪)の援軍を押さえるためです。
この時、大戸但馬守(真楽齋の弟)は、権田政重が鍛えた矢尻を200ずつ矢沢と昌幸の両大将へ献上しました。
同じく鍛冶の湯浅対馬も10ずつ進上してあいさつしました。この鍛冶は後に信玄から扶持を賜りました。
さて、齋藤越前守憲広は敵襲来と聞き、一門と家老の人々を集め会議を行いました。
齋藤「…海野兄弟は……残念ながら、心替りしているだろう……奴らの裏切りに備えて人質を用意しておけ…」(原文:海野兄弟は心替りと覚たり、渠が人質取)
…と、海野兄弟の妻子を捕えて甥の弥三郎に預けました…。
齋藤憲広は海野がアヤシイことは察していたのに、弥三郎のことは信頼しきってたんですねえ…。
さて、真田の攻撃に備える齋藤方の布陣は…
大手番匠坂を、甥の弥三郎、植栗河内守、富沢加賀、唐沢杢之助の300余騎で固め…
切沢口を、富沢伊予、蜂須賀伊賀、佐藤入道、有川庄左衛門尉、川合善十郎、塩谷源三郎の200余人で固め…
岩つゝみの出城には、嫡子の越前太郎、尻高源三郎、神保大炊介、割田掃部、有川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門尉、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎の300余人を配置し、寄せ来る敵を遠くから偵察していました。
そして、居城には、海野長門守(幸光)、同能登守(輝幸)とその子である中務太夫(幸貞)、獅子戸入道、上白井主税介が籠り、敵を待ち構えていました…。
齋藤方の作戦会議では…
齋藤「以前から言ってるようによ~…この城(岩櫃)は近国無双の名城…敵が百万騎で来ようが容易に攻めるすべはないぜ…!」(原文:此城と申は近国無双の名城百万騎にても容易に可寄様なし)
………
齋藤「今回は籠城だ…!敵が寄ってきたら弓と鉄砲であしらって、木戸は開けるな!
…そのうち敵のヤツらも飽きてきてスキができる…そん時にこちらから討って出るんだ…!
今度こそ真田の兄弟(幸隆と矢沢)をぶっ〇して、会稽の恥を雪ごうぜッ!」(原文:此度は籠城して敵寄来らば弓鉄砲にてあしらい木戸を開て戦ふ不可、然は近国の敵退窟して隙有ん、其時城を払て討て出、真田兄弟討捕会稽の恥を雪)
…ということになりました。…そして、岩櫃は籠城モードに入ります…!
そんな中、大手方面を守る大将の弥三郎は…
弥三郎「…あ~…早く真田に内通しねーとな~…」(原文:敵方へ内通せん)
…とチャンスを伺っていましたが、四郎太夫憲春(齋藤憲広入道の次男)が命令伝達のためにあちこち動き回っているので、
弥三郎「チッ…アイツ(憲春)が邪魔で動けねーわ…」
…と空しく日々を過ごしていました。
そんな時、弥三郎は一岩齋(齋藤)に呼び出されました。
齋藤「敵のヤツら…なぜか攻めて来ないで静まり返っているが…その点が不気味ッ…!……もしかして甲府からの援軍を待っているのかもしれねぇ…弥三郎、オマエちょっと忍を使って探ってくれないか?」(原文:敵方より不寄来鎮りかへつて居る、甲府の加勢を待らん如何ある其様を忍を入て見せよ)
弥三郎「(…ンだよ、メンドクセーな…オレはそれどころじゃねぇ~んだよ…何とかして真田と連絡をとらねーといけねぇのに……確かにウチには角田新右衛門ていう腕のイイ忍者がいるけどさ……)」
……
弥三郎「(…ん?…待てよ…この状況って……゜∀゜!!)」
――💡――(原文:究竟の折也)
弥三郎「憲広のオジキ~!よくこのオレに声をかけてくれたね~!!…ウチにはうってつけの忍者がいるからさ、すぐ偵察に送り込んでやるよ~!(イヒヒッ!)」
…といって角田を送り込みました―――もちろん「内通者」として―――。
……これで齋藤入道の運は尽きました…。
角田新右衛門は大竹の陣所へ駆け込み、齋藤弥三郎直筆の書状を持って鎌原に接触しました…。
宮内少輔(鎌原)と綱隆(矢沢)は弥三郎からの内通を喜んで昌幸へ伝えました。これを聞いた昌幸は…
昌幸「――(●´∀`)ノ――おい!…オマエ、角田とか言ったか?…ちょっと来い!」
角田「はい?」
昌幸「角田~!…ありがとな!…今回の忠信、ほかに比べようもないぜッ!…オマエさ、城に帰ったら長門(海野)兄弟と連絡して城の曲輪に火を付けてくれ!…そしたらウチらが諸手から攻めるからよ!」(原文:此度の忠信無比類次第也、其方は城に帰り長門兄弟へ談合し居城の曲輪へ火を附よ、其時諸手寄べし)
…と、昌幸は城攻めの段取りを伝えました。
さらに、昌幸は角田に金子(きんす)10両を与え…
昌幸「角田~…オマエはすげぇヤツだぜ…一岩齋(齋藤)を討ち取ったら、もっと褒美をやるからな…」(原文:神妙也ゝ……一岩齋を討取は一廉知行を申成し得させあらん)
角田「(…そんな…オレみたいな忍者のために…昌幸どの…)」
このときの角田の嬉しさは限りないものでした…
…『加沢記』では真田昌幸について、敵対する陣営の人間関係を破壊したりする非情な一面の一方で、角田のようないわゆる「忍者」を惹きつける魅力も描かれているんですよねー。あくまで私見ですが。
角田新右衛門は岩櫃の城中へ帰り、弥三郎に真田との打合せ内容を報告すると、海野兄弟と示しを合わせ、10月13日の夜中に齋藤入道の居館の守殿に火を掛けました…!
齋藤入道は超ビックリして、女房達を始めとした城内の人々も、上を下への大騒ぎとなりました…。
その時、真田の軍が大手と搦手から一度にどっと押し寄せ、鬨の声を上げます…!
齋藤の家来や家老が「海野兄弟が裏切りやがったッ!!…しかし、こんな時のために人質を取っていたはず…確か弥三郎のところに…」とか騒ぎ出したので、弥三郎は居城である天狗の丸に置いていた人質に護衛を付けて、善導寺へ隠してしまいました…。
海野兄弟の妻子をはじめとした人質を保護した弥三郎は、大手に向かって木戸を開き、真田の軍を招き入れました…!
先陣の矢沢、鎌原、湯本、西窪、横谷、小草野新左衛門尉が一手となり二の門を攻め、鎌原宮内が木戸を乗り越え、家来の黒岩を伴い城内に押入ります…!
一岩齋(齋藤憲広)たち親子は…
齋藤父子(齋藤憲広、嫡子の越前太郎、次男の四郎太夫)「おい!弥三郎は何してるッ!?…そこのオマエらッ!…海野長門守の兄弟が裏切ったぞ!!…絶対に逃がすなッ!…ブッ〇せッ!!」(原文:弥三郎はいかに、長門守兄弟心変也、あますな討取れ)
…と、部下たちに指示します…!
一同「(…しーん…)」
齋藤父子「…!?…オイッ!…聞こえなかったのか?…山遠岡与五左衛門ッ!…川合善十郎ッ!…一場右京ッ!…上白井獅子戸入道ッ!…湯本左京之介ッ!…同じく金蔵ッ!……それに高橋一府入道ッ!…オマエら何してるんだ……早く海野どもをブッ〇せッ!!」
………
――ゴゴゴゴゴ――
弥三郎「………」
齋藤「…!!…弥三郎ッ!…そこに居たのか!?…早く海野を……」
………
弥三郎「………」
齋藤「………」
………
齋藤「そうか…」
………
齋藤「Et tu, Yasaburo?」(上州弁で「弥三郎、お前もかッ!」という意味」
弥三郎「…憲広のオジキ……わりーな…。…そういうことだよ…。」
弥三郎は越前入道(齋藤)を目掛けて采配を振り、部下たちをけしかけます…!
憲春「弥三郎ッ!…てめえ…許さん!!」
齋藤の次男である四郎太夫憲春が手槍を携えて弥三郎に襲いかかりますが…
弥三郎が場内に引き入れた真田軍の矢沢がこれを遮り、逆に不動の谷の南の口場に追い詰めます…!
矢沢を相手に奮闘した憲春ですが……
―――💥💥――
――💥💥―――
ついに討ち取られてしまいます…!
憲春「…グフッ!…おのれ弥三郎…!………兄上…親父を頼む……城虎丸…元気でな…」
――齋藤憲広二男 齋藤四郎太夫憲春――(討死)
眼前で二男を討たれた齋藤憲広入道…
齋藤「弥三郎…貴様なんぞを信用したばかりに……もはや腹切って死ぬのみ…」(原文:云甲斐なき弥三郎也……腹を切ん)
齋藤は焼け崩れる居館に向かいます…。
そこへ嫡子の太郎(憲宗)が出丸から帰ってきて、自決を思いとどまるよう説得します…!
憲宗「父上…馬鹿なことはおやめください!ここの敵は我々が食い止めます!…父上は一足先に越後国へ落ち延びてください。…景虎卿の力を借りて、もう一度チャンスを待つのです…!」(原文:是は勿鉢なき御事也、我々防ぎ申んに一先越後国に落給、景虎卿を相頼壱度御運を開きあれかし)
越前太郎(憲宗)はそう言うと、大長刀を水車に廻し敵陣に突っ込んで行き、富沢藤若、秋間五郎、齋藤無里之介、佐藤半平、鹿野介五郎、浦野左門、福田久次郎、善導寺の番僧伝浦、林覚、林清らといったメンバーと共に、大手、搦手の敵を追い払いました…!
激しい戦いの結果、今朝まで2,000余りもいた齋藤方の兵は、その日の未の刻(午後2時ごろ)には200騎を超えないほどにまで減ってしまいました…。
しかし、それでも岩櫃は無双の城郭であり、真田方も容易く攻めることはできませんでした…。
さらに攻めようにも、山の上から大木だの大石だのを投げつけられるので、さすがの真田勢も、齋藤方の抵抗に僻易して、一度川の向こうまで引退がります…。
そうこうしているうちに、日が暮れました…。
さて、齋藤父子は合流して武山に引籠りました。
彼らはここにいる末子の城虎丸も一緒に連れて越州へ逃げようと思い、残党100余人を集めて高野平野の郷に下りました…。
…が、ここには真田兵部(昌輝)の手の者である深井三弥、田沢主水、林新左衛門、小池太郎左衛門などが逃亡兵を捕らえるため見張っていました…!
齋藤「仕方ねぇ…!……今は城虎丸と落ち合うのは無理だ…城虎丸のことは池田に任せよう…!」
齋藤たちは仕方なく、かつ馬が嶽の麓、細尾の谷にかかり、丹下越をして、いなまみ山の麓、木根宿峠を越えて、越後国の山中に入りました…。
…そんな齋藤のところへ、ある男がやってきます…。
??「…ふゥ~、やっと追いつきましたよ…入道殿」
齋藤「オマエは…」
この男は、四万谷、喜美野の尾の住人である山田与惣兵衛という者でした…。
山田は病気がちで戦闘にも参加できず、数代に及ぶ齋藤からの恩も忘れたのでは…と言われていました…。
山田「…ゴホッ、ハァハァ……入道殿!……今回は大変なことで……こんな時にお力になれず情けない限りですが……山道を越州へ行かれると聞きまして、せめて山路の見送りをしようと、遅くなりながらも追いかけてきたのでございます……ゴホッ…」(原文:山中を越州へ落玉ふよしを聞て、せめて山路の見送せんとておくれ走に御跡したひ行けるが…)ってこれセリフではないか…当方が勝手にセリフにしただけですね(笑)
山田与惣兵衛は病人であったうえに、険しい山道でのことだったので、齋藤たちが岩櫃を落ちてから3日目の午の刻(お昼)ごろ、齋藤が越後国魚沼郡長尾伊賀守領分嶋ケ原で弁当を出して休憩していたところに、やっと追いついたのです…。
山田「…ゴホ…ゴホッ…!……ハハハッ…こんな病人じゃ、かえって厄介者になるだけかも知れませんがね……入道殿!…この山田、どこまでもお供いたしますよッ!(ニコッ)」(原文:いづく迄も御供申)
齋藤「や、山田……ッ!」
………
齋藤「…数代に渡り恩賞を与えてきた家来どもが…簡単にオレを裏切った……一方で山田…オレはお前を外様扱いしてロクに恩賞も与えなかったのに……それなのに…お前というやつはッ!」(原文:数代恩賞の一門家子郎等心変りしける時に其方抔は外様と云左迄の恩符も不行に…)
齋藤入道はハラハラと涙を流し…
齋藤「…ううッ…オレは馬鹿だ…!……オレは……オマエのような真の忠臣の存在に気付かず………海野兄弟を重用し、弥三郎なんぞを信用した挙句が…このザマだ…」
……
齋藤「…山田…ありがとう…お前の忠義への感謝…言葉では言い表せない……だが、お前は吾妻に残れ…」(原文:是迄の志申に辞なし)
齋藤「…いつかまた会える日も来るだろう……お前には武山に残してきた城虎丸の事を頼みたい……城虎丸…どうしているだろうか?…ツラい目に遭ってはいないだろうか?…山田…どうか城虎丸のことを頼む…!」(原文:時あらば又も逢見ん事有んや、扨武山に残し置城虎丸如何成ける、憂目にか逢んすらん行末を万事頼)
そう言って齋藤は山田に盃を与えました…。
齋藤「…オレの名である“齋藤”と言えばよォ~…――寿永の頃、源平両家の戦いにおいて、齋藤別当実盛が北国に下った際に『古郷だから…』と錦の直垂を賜り、鬢髪を墨で染め、手塚太郎と組打して討死し、名をこの国に残した――って話があるよな~…」(原文:齋藤と申けるは寿永の頃源平両家の戦に齋藤別当実盛北国に下りし時古郷なりければとて錦の直垂を賜り、鬢髪墨に染手塚太郎と引組て討死し名を本朝に揚たりける)
実盛の話は『平家物語』でも人気のエピソードで、能の演目にもなっています。ここで説明しませんがググるといいかも。
齋藤「…オレも実盛と同じく、元は越前の者だが…
今こうして北国に落ちていく……情けねぇことだぜ…!」(原文:我も元は越前の者なりけるが此度北国に落ける、云甲斐なき有様哉)
齋藤は両目に涙を浮かべ、末行(綾小路?)の刀を山田に形見として与え、妻有の庄に落ちていきました…。
――『加沢記』巻之一 終――
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やっと1巻が終わりですが……全部紹介しようと思うと長いんですよね~…。
でも『加沢記』面白いですよねー。自分的には史料として価値があるかどうかなんてどーでもイイんですよね。
永禄六年癸亥八月下旬の事成けり齋藤越前入道一門家の子を集評定しけるは、去る頃より羽尾治部入道と鎌原と不和の後は甲州へ鎌原忠節ありければ、大戸、浦野も其振見えければ沼田万鬼齋、同三郎憲泰と和睦して加勢を乞鎌原を退治せんと思は如何にと申されければ、一統に同心して中山安芸守を以沼田殿へ被申ければ憲泰公同心し給てけり、鎌原宮内少輔此由を聞て真田一徳齋入道幸隆公を以甲府へ注進せられければ速に誅罰有んとて真田へ下知有て甲府より為検使幸隆公の三男武藤喜兵衛尉昌幸公、三枝松土佐守小県郡に着陣す、大将は一徳齋相随人々には矢沢右馬介、常田新六郎俊綱嫡子源左衛門尉信綱、祢津宮内太輔元直嫡子長右衛門尉利直、海野の家子小草野孫左衛門、相木市兵衛尉、芦田右衛門佐、鎌原宮内少輔嫡子筑前守、湯本、西窪、横谷都合三千余騎を二手に分、横谷雁ケ沢口、大戸口へ押寄、大戸口は祢津、芦田、矢沢を被向けるが大戸真楽齋舎弟権田の地頭但馬守を以人質を出し降参す、かかりける所に沼田三郎憲泰公此由を聞召し給ひて舎弟沼田弥七郎朝泰を大将にて山名信濃守、発知図書介、下沼田道虎入道、名胡桃の鈴木右近其外師大助、山名弥惣、西山市之丞、塩原源五左衛門、原沢惣兵衛、増田隼人、根岸左忠、小野、広田、深津、真下、小川の一族都合五百余騎永禄六年九月上旬沼田を立て岩櫃に着陣す、白井城主長尾左衛門尉憲景も合力有んとて家老矢野山城守、牧弥三郎に弐百余騎を指添て同岩櫃に着陣す、越前入道不斜悦て甥の弥三郎則実に家子富沢但馬、同勘十郎、同伊賀、同豊前、同又三郎、蜂須賀伊賀、一門には中山齋藤安芸守、尻高左馬之介、荒牧齋藤宮内右衛門、其外塩谷源次郎、蟻川入道、佐藤豊後其勢三百余人沼田勢と合て八百余騎雁ケ沢口え被差向、大戸口へ次男齋藤四郎太夫憲春、富沢但馬、唐沢杢之助、一族には植栗安房守元信、外様には中沢越後、桑原平左衛門尉、同大蔵、ニノ宮勘解由、割田新兵衛尉、同隼人、鹿野右衛門佐、茂手木三郎左衛門、高山左近、富沢主計、井上金太夫、神保佐左衛門、川合善十郎、高橋三郎四郎、伊与久大五郎、荒木、小林、関、田村、一場左京進以下都合八百余人白井勢と合て一千余騎、其外一ノ宮、首宮、鳥頭、岩つゝみ、和利宮神主、川野、片山、高山、小板橋神主等に至まで此度の御大事に御供申さんとて一類を集百余人同年九月十五日辰の一天岩櫃を立て仙人か岩の南なる手子丸の城へ寄たりけり、真楽齋手の者加辺鉄砲を打掛ければたやすく可寄様もなく猶予して見えければ、祢津、矢沢、芦田、常田の人々軍兵を卒して椿名山居鞍ケ嶽を越て山上より真下りにおめいて懸りければ、齋藤案に相違して山上より責られ不叶して策を討て茶臼の橋の辺、郷原の十二神の森、志戸、生(原脱カ)、梅ケ窪に引退く、鴈ケ沢へと向ける人々には難所なれば爰かしこの山々谷々に控居て寄来る敵を待掛たり、幸隆御父子無双の勇士にて座ければ長野原にて御評定有けるは、信州の大手なれ共憲広入道難所を頼て一門家老の者を以可防大戸口は子息四郎太夫を可差向、こなたより大手に寄ん事せんなしとて嫡子信綱公、三枝松土佐守五百余騎にて火打花、高間山を越て涌水、松尾の奥南光の谷へ寄られける、三男昌幸公は赤岩通りを暮坂峠を越て折田、仙蔵の城へ取詰給ける、城代佐藤将監入道、富沢加賀降人に成て人質を渡しければ昌幸公より西窪治部川原在京を被入置けり、唐沢杢之助が女房子息お猿を伴ひ八尺原にて御礼申けり、此お猿後に玄蕃とぞ申ける、此よし父幸隆公へ御注進有て其身は有笠山に出、山取又〇〇軍の様を遠見し給ひける、武山の城には一岩齋の末子城虎丸は生年拾六歳にて一族池田佐渡守重安付参らせて勢をも不出鳴を静めて籠城す、かくて幸隆公は林の郷諏訪の森に本陣をすへ有て先陣鎌原宮内少輔父子、相木市兵衛尉、小草野孫左衛門、湯本善太夫、横谷左近入道走向申けるは吾妻第一の難所成り、其上無双の城郭成ければ力責には難叶、智略を以討給かしと申ければ、一徳齋入道御父子御工夫有て諏訪の別当大学坊、雲林寺の住僧を以善導寺へ内通して和談之儀を被調ければ住寺此由を越前入道え申ければ、内々此度の企は大戸、浦野、鎌原を退治せん迄の儀なりければ信玄公に御恨なしとて此儀相調鎌原、浦野、大戸も和談して仙蔵の城を御返有て大戸、鎌原、浦野が人質齋藤へ相渡し人々帰陣の風聞しければ、人質をば甥の弥三郎に預置沼田、白井の加勢も皆々帰陣せられければ、鎌原岩櫃に伺候し入道に遂対面一礼して扨弥三郎に細々と一礼して、其夜は弥三郎が館ヘ一宿し弥三郎が機嫌を伺ひ、私に云けるは、貴方多年の懇切不浅候処に讒者の故近年隔心に候也と終夜酒宴し語りければ、弥三郎も打解たりと見えて鎌原に私に申けるは、信玄公多年入道殿に御意恨有ければ終には多勢を以御誅罰有ん事踵を廻すべからず、されば貴殿今度の序に返り忠し給は当郡安堵し給ん事疑なし、さ有に於ては真田を以忠信申んとて懐中より熊野牛王に起請文書たるを取出し、弥三郎に見せければ大欲の者にて主従一族の縁を忘却して忽心変りし、起請文を以鎌原を一味して家子家老の人々まで大半心変したりけれ共、海野長門守幸光、同能登守は如何有と、無覚束処に、幸隆公より海野左馬允を以ひそかに兄弟の許へ被申たりければ、本より御一門の事也ければ同心し給ける、海野兄弟は齋藤入道重恩の人也けるにかく心変りは有ましけるに、去る十二月晦日に能登守慈愛の少年の女、身まかり善導寺へ送らしむ、然共越前守大手の門に門松を立置ければ歳末祝する折なれば門番の者是を見て松の中をば通すまじと申、此由能州に告ければ能登守元来心剛者なれば聞より立腹し自ら門に出て門松を引破り死骸を通しける、番の者此旨入道へ訴けれども流石能登守なれば子細は無りけり、されども入道心底に籠たり、能登守も不快の事也ければ正月二日本城に出仕して年始の礼儀を述ければ、入道も盃持出しけり、其時能州、いかに入道殿某は旧冬珍敷刀を求得たり、是御覧候へとて氷の如なる刀を抜出しければ、入道気色あしく見へたりけるが入道さらぬ躰にて一見し座鋪の興にもてなし其座頓て退出す、夫より互に不快にて兄弟に心を付隔心にこそ成にけれ、隙を伺岩櫃を責取武田へ忠信せんと思けるが、時を待所に此陣出来究竟の時節と悦て矢沢綱隆、同苗左馬允に内通して幸隆公へ帰忠せしと也、幸隆公時日不移出馬有べし、我等兄弟齋藤弥三郎同心の上は連判の起請文を以申べしとて、同九月十五日に鳥頭の宮へ参詣と称し首の宮別当専蔵坊、鳥頭の神主大隅太夫を語い、海野長門守兄弟、齋藤弥三郎、植栗安房守、富沢但馬父子、唐沢杢之助、富沢加賀守父子、蜂須賀伊賀、浦野中務太輔連判の起請文相調、矢沢薩摩守殿方へ指遣しければ幸隆公披見し給ひて、同年十月中旬嫡子源太左衛門信綱、武藤喜兵衛尉昌幸公、矢沢薩摩守綱隆、三枝松土佐守重貞、同苗兵部信貞、まりこ藤八郎、室賀兵部太夫義平、祢津美濃守信直、小泉、芦田の一党、海野左馬允、鎌原父子、西窪治部、同蔵千代丸、湯本善太夫、同三郎左衛門尉、横谷左近、浦野義見齋、其勢弐千五百余騎追手摺手弐手に分て此度鴈ケ沢ロヘ懸り不給、信綱、義平、重貞二千余騎を率して暮坂峠に寄られたり、是は沼田、白井の加勢を押へんとの事也けり、綱隆、昌幸公僅に五百余人引率して大戸口より寄られける、真楽齋兄弟も弐百人率し須賀保峠丸屋の用害の辺に出向て、此勢を合て七百余騎三島越をし給て、類長峰、大竹に陣取給ふ、大戸は案内者也ければ萩沢の辺に陣取、是は三輪の加勢を押て也、大戸但馬守は権田政重がきたへたる矢根弐百宛両大将へ捧て御礼す、鍛冶湯浅対馬も矢根十宛進上して御礼をぞ申たりける、此鍛冶後には信玄公より御扶持を賜也、かくて齋藤越前守憲広は敵襲来と聞一門家老の人々会合評定有て、海野兄弟は心替りと覚たり、渠が人質取とて両人の妻子を捕て甥の弥三郎に預られけり、大手番匠坂をば甥弥三郎、植栗河内守、富沢加賀、唐沢杢之助三百余騎にて堅めたり、切沢口をば富沢伊予、蜂須賀伊賀、佐藤入道、有川庄左衛門尉、川合善十郎、塩谷源三郎弐百余人にて固めける、岩つゝみの出城には嫡子越前太郎、尻高源三郎、神保大炊介、割田掃部、有川入道、佐藤豊後、一場茂右衛門、同太郎左衛門尉、首藤宮内左衛門、桑原平左衛門、田沢越後、田中三郎四郎三百余人敵寄来ルを遠見して居たりけり、居城をば海野長門守同能登守其子中務太夫、獅子戸入道、上白井主税介が籠り居て寄来敵を待居たり、兼て入道被申けるは、此城と申は近国無双の名城百万騎にても容易に可寄様なし、此度は籠城して敵寄来らば弓鉄砲にてあしらい木戸を開て戦ふ不可、然は近国の敵退窟して隙有ん、其時城を払て討て出、真田兄弟討捕会稽の恥を雪とて評定一決して静り却て籠城す、大手の大将弥三郎敵方へ内通せんと思へども四郎太夫憲春諸方の口々走廻り下知し給ければ其調儀も不成して空く日を送りける、一岩齋弥三郎を召てのたまひけるは、敵方より不寄来鎮りかへつて居る、甲府の加勢を待らん如何ある其様を忍を入て見せよと有ければ、角田新右衛門と云忍者の上手にて有ければ弥三郎究竟の折也と悦て、細々と角田にこそ申させける、是そ入道運の尽たる処也、新右衛門大竹の陣所へ懸入齋藤が直筆の書状取出し鎌原に近きかくと語る、宮内少輔綱隆公悦て此由を昌幸公へ申ければ昌幸公祝着不斜角田を呼出しの玉ひけるは、此度の忠信無比類次第也、其方は城に帰り長門兄弟へ談合し居城の曲輪へ火を附よ、其時諸手寄べしと相図を定角田に金子十両給はり神妙也ゝゝゝと御誉有て、一岩齋を討取は一廉知行を申成し得させあらんと被申ければ角田は悦喜かぎり無、城中へ立帰り弥三郎に斯と語り海野兄弟に示合て、同十月十三日の夜半斗に入道の居館の守殿に火を掛ければ入道大に驚女房達を始として上を下へ返しければ大手搦手壱度にどつと押寄、鬨を上ければ家の子家老の人々海野兄弟心変の事也ければ、弥三郎居城天狗の丸に差置ける人々の人質を相伴ひ人を附て善導寺へ隠し置其身は大手に立向木戸を開て招入、先陣矢沢、鎌原、湯本、西窪、横谷、小草野新左衛門尉と一手に成て二の門に寄たりけるに、鎌原宮内木戸を乗越て郎等黒岩を伴ひ押入ければ、一岩齋父子弥三郎はいかに長門守兄弟心変也、あますな討取れと下知せられて山遠岡与五左衛門、川合善十郎、一場右京、上白井獅子戸の入道、湯本左京之介、同金蔵、高橋一府入道に下知せられけるが本より弥三郎帰り忠の事也ければ耳にも不聞入、越前入道殿を目懸采配を振掛をめいて掛りければ、四郎太夫手鑓提かゝりければ矢沢此由を見給てあますなと不動の谷の南の口場にて相戦、四郎太夫を討取給ふ、入道殿此由を見て云甲斐なき弥三郎也とて焼崩たる居館に帰り腹を切んとの給けるが嫡子太郎殿出丸より帰来て是は勿鉢なき御事也、我々防ぎ申んに一先越後国に落給、景虎卿を相頼壱度御運を開きあれかしと云捨て、大長刀水車に廻し富沢藤若、秋間五郎、齋藤無里之介、佐藤半平、鹿野介五郎、浦野左門、福田久次郎、善導寺の番僧伝浦、林覚、林清御供にて大手搦手の敵押払給ける、今朝迄二千余有ける兵も其日の未刻には弐百余騎には過ざりけり、され共無双の城郭なりければ輙く可寄様もなし、爰彼に寄たりけれ共山上より大木大石投懸けるにより流石の真田勢此いきをひに僻易して川向へぞ引退く、かくて其日も晩景に及ければ父子一所に集り武山に引籠り城虎丸と一所に越州へ落玉はんとて、残党を集て百余人高野平野の郷に下り給て見給ふに、爰には真田兵部殿の手の者深井三弥、田沢主水、林新左衛門、小池太郎左衛門抔落人を待て居たりければ不叶して夫よりかつ馬が嶽の麓細尾の谷に掛りこさふ、丹下越をし給ていなまみ山の麓木根宿峠を越給て越後国山中にぞ付給ける、爰に四万谷喜美野の尾の住人山田与惣兵衛と云し者は此時病気にて不出合事、数代入道殿の御恩賞忘たるに似たり、山中を越州へ落玉ふよしを聞て、せめて山路の見送せんとておくれ走に御跡したひ行けるが、病人の事也山中の事也ければ、岩櫃を落給て三日の午刻斗に越後国魚沼郡長尾伊賀守領分嶋ケ原に着給て弁当取出させ休息し給し処に追付て此儀を宣いづく迄も御供申とありければ、入道殿涙をはらゝゝと流し数代恩賞の一門家子郎等心変りしける時に其方抔は外様と云左迄の恩符も不行に是迄の志申に辞なし、時あらば又も逢見ん事有んや、扨武山に残し置城虎丸如何成ける、憂目にか逢んすらん行末を万事頼との給て御盃を給りける、齋藤と申けるは寿永の頃源平両家の戦に齋藤別当実盛北国に下りし時古郷なりければとて錦の直垂を賜り、鬢髪墨に染手塚太郎と引組て討死し名を本朝に揚たりける、我も元は越前の者なりけるが此度北国に落ける、云甲斐なき有様哉と双眼に御涙を浮べ給て末行の刀を山田に形見とて給ひ、妻有の庄にぞ落給ひける。