怒った北条が大軍をけしかけてくるという情報を聞きつけて泣きを入れるが…
「小川可遊齋か~…まだまだ謎が多いなぁ…」(ミラクルエース風)
渡辺左近允、西山市之丞と共に真田へ忠信する。
勝頼からも「最前名胡桃参陣誠以神妙之至」ってホメられてよかった!
“平”姓を名乗っていることが判明。
昌幸さんいらっしゃい!…と真田に沼田城を明け渡すが…
弟からは愛想を尽かされる…。
ねんがんの ぬまたじょうをてにいれたぞ!
組織マネジメントは大変だが沼田衆からたくさんの貢物をもらってウハウハ。
さて、今度の章は前章の北条・長尾による小川・名胡桃攻めの後の話から始まりますが…
この章でついに真田昌幸が沼田に入城するシーンが描かれます!…あとマニアックですが真田昌幸の馬の名前も出てきますね~…楽しみですね~
前章で北条氏邦は小川城と名胡桃城を攻めましたが奇策と雪解けの増水により敗退してしまいました…。
これを聞いた氏政は…
氏政「…ンだとォ💢!!…あんなちっぽけな城の分際で!……こうなったら大軍けしかけて小川をブッ潰してやるぜッ!」(原文:多勢を以先小川を有退治)
―――――
可遊齋「…って感じで、北条のヤツらメッチャ怒ってるらしいけどどーするよ?…もう前みてーにウマイこと追っ払うのは無理だぜ~?」
北能登守「…ははっ😅…もうこうなったらアンタに任せるよ…好きにしてくれ…」
可遊齋「………」
――そして、可遊齋がとった行動とは――
部下「う、氏邦さま~…なんか“小川可遊齋”を名乗るヤツが来てるんですけど…」
氏邦「…!?…あ?…可遊齋だぁ?」
………
氏邦「(…マジか?…アイツ何考えてやがる?)」
………
氏邦「…で、なんて言ってやがるんだ?」
部下「…そ、それが……『今回アンタらに逆らった張本人はオレだ…首をやるから小川城を攻めるのはカンベンしてくれ…(※)』と…」
(※可遊齋セリフ原文:逆心の張本人是也)
氏邦「(…!!…なんだそりゃ?…マジでワケわかんねーやつ…“士道”って概念がオレたちとはかけ離れてやがるぜ…)」
………
氏邦「……いいか…『オメーみてぇなウサンくさいヤロウの首なんかいらねーよッ…とっとと帰りやがれ!』って伝えろッ…!」
部下「…はい」
…このように可遊齋の命がけの降伏は北条に受け入れてはもらえませんでした…。
―――――
可遊齋「…つーワケで北の~…ワリィ…氏邦に泣き入れたけどアカンかったわ…」
北能登守「ははッ😅…好きにしろっつったけど…アンタ…マジで何考えてんの?」
可遊齋「やっぱホンモノには成り上がりのやり方なんて通じねーんだな~💧
あんな勝手なコトしちまって真田にも合わせる顔がねーし……そろそろバックレるわ…オメーらウマイこと長いモンに巻かれてくれな…」
北能登守「そーね~…あの真田昌幸ってのも結構やりそうだし…ウチらとりあえずヤツに付いとくわ…」
こうして天正8年5月中旬、可遊齋は小川を落ちていきました…。
北能登守「…じゃあな…可遊齋さま…いや…赤松孫五郎……へッ、それすら本当なんだかどーだか…不思議なヤツだったぜ…」
――小川可遊齋――小川の名跡に成り上がった男――北国へ浪人――
…と、まあ妄想も交えてサワヤカに解釈しましたが…
――1人だけ助かろうとして北条に投降したけどダメだったから逃げた――とも解釈できるし…
『小学上野志』なんかだと――部下の首を刎ねて「コイツが首謀者です!オレ悪くない!」と氏邦に助けを請う――なんつー最低の人物として書かれてたり…
そもそもこの辺の話が全部ウソで――単純に武田氏滅亡後に上杉に鞍替えしただけ――なんて説もあるし…
まあ何にせよ小川可遊齋は謎の多い人物だということですね~。
さて、猿ヶ京の要害には栗林肥前守と田村孫右衛門尉が立て籠もり、景勝から多くの兵の派遣を受け、守りを固めました…。
昌幸「…ンだよ景勝のヤツ…これじゃあオレ…ココ(名胡桃方面)で戦う度にジリ貧じゃねーかよ…」
そんな時、昌幸は須川の住人、森下又左衛門尉という者に目を付けました。
昌幸「なー森下~…オレんトコ来いよ~…悪ィようにはしねーからよ~」
森下「えー…マジっすかー?…どうしよっかなー」
結局、森下は一門をあげて昌幸に従いました…。
この時、昌幸は森下に安堵の証文を与えています。
―――――
定
須川村之内 拾貫文 新屋鋪
壱貫文 布施分
壱貫五百文 高性寺分
五貫文 今井戸垣戸
五貫文 本領
以上
此度其方以調略猿ケ京於本意ハ可遊齋へ替地任所望右如此知行可宛行者也、仍如件
庚辰五月六日 昌幸
森下又左衛門殿
―――――
内容…
「おう森下!…オメーに須川村から10貫文と新しい屋敷…それによ~、布施から1貫文、高性寺から1貫500文、今井戸垣戸から5貫文、本領から5貫文くれてやるぜ~!…そのためにはオメーに調略で猿ヶ京をウマイこと手に入れてもらわねーとな~😁
…あ、オメーに今言った知行をやるために、可遊齋には何とか替地を宛てがってやっておくから、心配すんないな😉」
―――――
…って、この手紙は可遊齋がトンズラこいた後の話?…歴史の解釈はムズカシイですね~。まあ『加沢記』はあくまでエンターテイメントとして楽しみましょう。
そして、同年4月上旬…金子美濃守、渡辺左近允、西山市之丞が沼田を引き払って名胡桃にやってきました…。
泰清「…へへッ…真田の大将~…ウチら甲府へ忠信させてもらいますわ~」(原文:甲府へ忠信せん)
昌幸「…おう!…やっと来たか金子~!…😁」
昌幸はこのことを甲府へ報告すると、金子美濃守を富沢豊前と一緒に横尾八幡の城に配置しました。
渡辺左近允は柏原の要害へと配置されました。
その頃、甲府から昌幸を奉行として法度が触れられています。
―――――
法度
一、対地衆不致狼籍様ニ被申付可加懇切事
一、従二の曲輪内へ地衆出入一切可被停止事
―――――
この写本だと「此已下不見(この後は見つかんねー)」ってなってるんですが、せっかくなので続きも紹介します。
―――――
一、請取曲輪各有相談御番普請以下無油断可被勤仕之、就中竊大切に候之間、夜番肝要に可被入念之事
一、喧嘩口論一切禁止之事、付以贔屓一偏頗不可徒党達之事
一、敵地計策不可被致油断候、但於被遣或夫者或書状者、海野長門守令談合可被差越事
一、在城衆縦雖有如何様意恨行方之儀無表裏可被相談之事
一、在城衆当番之刻は不要是非縦雖為非番城外に不可他宿之事
右之条々於違犯之人可有御過怠之旨被仰出者也 仍而如件
天正八年庚辰五月廿三日 昌幸 御判
海野長門守殿
―――――
内容…
「おう海野の長門に能登…それから金子に渡辺~…オメーらに兵隊を任せるにあたってよ~…心構えを伝えとくから、よーく覚えとけよ~…
☝まずさ~、ヤツらにくれぐれも“狼藉はすんな!”って、言っとけよ!
☝あとヤツらは二の曲輪に入れねーようにしとけよ。
☝そんでさー、持ち場の分担はよーく相談してさー、見張りとか維持管理とかは手を抜かねーようにやらせろよ…仕事中は無駄口をしねーように静かにな…特に夜はな。
☝あと、ケンカはさせないように…クチゲンカも含めてな…ヤツらの内部で「アイツが好きだ」とか「アイツが気にくわねー」だとか言って“派閥”を作ったりさせねーように注意しろよ。
☝敵の策略に引っかかんねーように注意しろよ。もし手紙なんかが届いたら海野長門守と相談してくれいな。
☝ヤツらに対してはさぁ――まあ、今までの所属とかで遺恨も色々あるだろーけどよ――裏表なく接してよく相談に乗ってやれよな…。
☝ヤツらの管理についてだけどよ~、当番の時は言うまでもなく、非番の時も勝手に城外で泊まるなんてことがないようにしとけな。
…こういうことを守らねーヤツが出るってことは、オメーらがたるんでるってことだからなー。頼んだで~!
―――――
なんかものすごく長くなってしまった…それにしても昔から組織マネジメントってのは大変だったんですね~
この後も写本に「此前欠文」(この前の文が欠けている)ってなってるんですが、たぶん――沼田城の藤田信吉が名胡桃にいた真田昌幸と内通して「準備OK!」って合図を送った――とかそのへんの話が書かれてたんだと思います。
…18日の朝早く(打合せどおり名胡桃から)500余人の兵が倉内城へと差し向けられると…
藤田「…クク…来たな…オイ安中ッ!…『番所は予定通りオレが固めた』って向こうの海野に伝えて来いッ!」
海野から報告を受けた真田昌幸は…
昌幸「“待”ってたぜェ!!…この“瞬間(とき)”をよォ!!……ようやく念願のッ!…沼田を手に入れる日がやって来たぜ~!!」
昌幸のこの日の支度は、黒糸綴の鎧に、信玄から賜った竜頭の兜を身に付け…
…先祖代々から伝わる三尺五寸の太刀を帯び、壱尺八寸の討刀と九寸五分の鎧通しを十文字に横たえ、十文字の槍を引っ提げていました…。
そして『望月黒』という名馬に貝鞍を置いて金色の馬せんを打ち掛け、胴赤に六文銭を描いた旗を真ッ先に掲げて進みました…!
先陣は「むりやう(※)」の茗荷の指物を纏った海野中務太輔が務めました…!
(※む里やう…脇に「本のマゝ」とあるけど写本した人も意味が分からなかったのかな?…何だろ…模様?)
同心被官に就いた佐藤軍兵衛(※)は緋綴の甲冑を着て、三尺八寸の太刀、弐尺五寸の討刀を十文字にして横に帯び、八角棒を担いで海野の馬添に立って歩きました…彼は関東に隠れなき大兵として、実に勇ましく見えました…!
(※この人は「折田軍兵衛」のほうが通りがいいんですかねえ?…自分はミュゼの企画展見るまで佐藤のほうしか知りませんでしたが)
続いて…池田甚次郎、植栗河内守、鎌原宮内少輔、浦野七左衛門尉……馬廻りは春原、上原、宮下、深井、木村、大熊、川合、矢野半左衛門尉……後陣は出浦上総介、鈴木主水、原沢大蔵、沢浦隼人、山口式部、広田弾左衛門……
殿(しんがり)は北能登守、師大助……雑兵は(名胡桃に)残して、極めて優れた兵だけを60余騎連れて行きました…。
馬添として富沢豊前(※)が黒糸綴の鎧に鍬形の兜を着け、三尺五寸の太刀を佩き、大長刀を担いで「ユラァ…」と歩いていました…。
(※コイツは長篠の戦いで織田勢の杉原十度兵衛尉(竹の内)っつーDQNとケンカして勝った男ですね)
つーか「ユラァ…」と訳した擬音の原文は「ゆらりゝ」ですが……現在の少年マンガの擬音の原型は『加沢記』にあった!?(言い過ぎ)
小荷駄奉行として唐沢玄蕃が、以前に中山安芸守から盗(ギ)った金の馬鎧――中山が管領から賜ったもの――を、この日は「丹下鹿毛」という馬に掛けて乗っていました…。
同じく富沢主計も小荷駄に就いていました。
ナンチャラ渡利常陸介は海野能登守の小荷駄に就いていました。
昌幸は宮の辺の武尊社頭の前に馬を立たせ、倉内を遠く見つめます…。
昌幸「…ついに…あの沼田がオレのモノに…😭…本当に本当に、なんて遠い廻り道――ありがとう――それしか言う言葉が見つからない…」
沼田城を遠目に感激に浸っていた昌幸を、恩田越前守、発知刑部太輔、下沼田豊前守、久屋左馬允が、徒歩かつ素肌(平服)で、付き人をひとりずつ連れて朝夕坂まで迎えに来ました…。
甲冑をまとった状態に対して、平服でいることを「素肌(すはだ)」っていうんですね~。
ちなみに武田勝頼の上野国膳城攻略事件について特に「膳城素肌攻め」と呼ばれているが、これは決していやらしいプレイの名称でないことは言うまでもありません…。
(民明書房刊『妄想力――戦国時代と思春期――』より)
藤田信吉は本丸の北の番所に出て、団扇をもって昌幸を招き、保科曲輪から乗り入れさせます…。
…こうして、ついに…真田昌幸は沼田城本城へと入城したのでした…!
昌幸は城内で藤田信吉と対面します…!
昌幸「藤田ァ!…北条を切ってオレに付くとは…なかなか先見の明があるじゃねえか!……今後はオレのために沼田を守れ…な!」
藤田「ハイッ!」
(この辺の原文:藤田も頓て御対面有て御喜悦不浅けり)
ところが、北条曲輪にいた藤田彦助(信吉の弟)は…
彦助「信吉の兄ィ…アンタそれでイイのかよ~!?…氏邦のアニキを裏切るなんてオレは嫌だよ~!」(原文:兄信吉の仕方不及了簡)
…と、ゴネて、藤田信吉を中に入れさせませんでした…!
あわや合戦になりかけましたが…
昌幸「キミたちィ~…兄弟ケンカはよくないな~(笑)」
…と昌幸がなだめたので、この場はなんとか治まりました…。
昌幸「…よォーしッ!…沼田をゲットしたことをさっそく甲府へ報告だ~」(原文:此旨甲府え御注進有ん)
昌幸は真下但馬守を使って武田勝頼にこのことを報告します…。
勝頼はメッチャ喜んで、藤田に利根東郡300貫文をあてがう旨の証文を与えました…。
ところで藤田の舎弟、彦助信清は…
彦助「アニキめ…真田に免じてブッ〇すのだけはカンベンしてやったけどよ~……どうせこれからも主君をコロコロ変えやがるんだろーぜ…付いてけねーわ…」
…と、家臣の吉田新介と一緒に浪人してしまいました。
勝頼は、藤田信吉から人質を取った上で、彼を沼田城代に据え置きました…。
…と、いうわけで、
🏯本丸には藤田…
🏯二ノ丸には海野能登守父子と下沼田豊前守…
🏯北条曲輪には金子美濃守と発知刑部太輔…
🏯三ノ丸には渡辺左近と恩田越前守…
🏯大膳曲輪には久屋左馬允…
🏯保科曲輪には西山市之丞…
…が、配置され、守護代は藤田と海野の両人とされました。
さて、藤田へ与えられた証文には次のように書いてありました。
―――――
沼田へ数年雖相働其方堅固相抱候条、年月相過候処、今度以忠節倉内之城明渡、殊に同苗彦助、吉田新介等令追放之由、委曲真田処より以真下令注進神妙之仁ニ存候、仍為忠賞利根川東郡三百貫文之処、全可被知行候、猶依戦功可被加重恩者也、仍如件
天正八年庚辰六月晦日
勝頼 御在判
藤田能登守殿
―――――
内容…
「よう藤田~!…オレら数年に渡って沼田を狙ってたんだけどよォ~…オメーの守りが固すぎてこんなに年月が過ぎちまったぜぇ?…まったく困らせやがって~
……でも今回こうやってついに倉内の城を明け渡す気になってくれたみてぇでよ~…マジでホッとしたぜ~😌
特にオメーの舎弟の彦助と…吉田新介だっけ?…反対派のヤツらを追放してくれたみてーで助かったぜ~…その辺の経緯は真田から聞いたけどさぁ…オメーの決断にはマジで感動したかんね!…だから利根川東郡300貫文を知行としてやるよ!…戦功上げたらもっと増やしてやっから…頼んだで~!!」
―――――
金子泰清にも証文が与えられました。
―――――
今度以忠節在所令退去、最前名胡桃参陣、誠以神妙之至ニ候、仍本領八拾貫文、今度之為忠賞薄根之内、廿貫文之処、都合百貫文之地、被宛行也、猶依忠信可有御恩賞之旨、被仰出者也、仍如件
年 月 日 勝頼御朱印
跡部大炊介奉之
金子美濃守殿
―――――
「年月日」の日付が空欄ですが書写の過程でなくなったのか…それとも勝頼に「跡部~…金子に渡す日から逆算して適当に日付入れとけや」とか言われたのを入れ忘れたんですかね?…まあイイや。
内容…
「おう金子!…オメーは今回の件で真っ先(まっつぁき)に名胡桃に参陣したらしいじゃね?
イイ心掛けだね~…うんうん実に立派だね~…武士の鑑だよ!……だから本領80貫文に加えて薄根から20貫文、合わせて100貫文を宛がってやるぜ~!…忠信次第じゃもっと恩賞やるからな!…頼んだで~」
渡辺左近にも…
―――――
渡辺左近允ニ本領五十貫文、御加増十貫文、都合六拾貫文被下置也、
覚
三拾貫文 藤田彦介分
七貫文 吉田新介分
以上
―――――
内容…
「渡辺左近允には本領50貫文に加えて加増10貫文…合わせて60貫文な!……バックレた藤田彦介の30貫文と吉田新介の7貫文を使えばイイや!」
―――――
西山市之丞にも…
―――――
此度渡辺左近令同心至沼田、最前参陣神妙思召候、仍為本領沼田内後閑善昌寺分之処、右如此被下置候、猶依忠信可有御重恩之旨、被仰出者也、仍如件
天正八年庚辰六月晦日
勝頼公御朱印
跡部大炊介奉之
西山市之丞殿
―――――
内容…
「西山~!…今回の件じゃあオメーも渡辺左近と一緒に沼田を出てきて、真っ先に真田ントコに参陣してくれたみたいでウレシイぜ~!…本領だった後閑の善昌寺分のところはそのままやるからな!…これからの忠信次第でもっとやるからがんばれよ!」
―――――
最後に…
―――――
追而如此雖書置先判有所持之人は以替地可被捕之、又被申構有ば重而聞届可成下知者也
―――――
内容…
「…つーコトだけどよ藤田~…元々沼田家から宛がわれた分を持ってたヤツラには、替地でウマイこと対応してくれよな……もしなんか言ってくるヤツがいたらよ~…よォく話を聞いといてくれよ~…その上でまた指示すっからよ。頼んだで~」
―――――
この部分は藤田じゃなくて真田昌幸への指示かも。まあどっちでも同じか。
こうして、発知、久屋、下沼田、鈴木、川田の発知図書、山名信濃守、山名弥惣、岡谷平内左衛門、師大助、石墨兵庫、塩野井又市、片山主膳、高野、恩田、中山、尻高、ナントカ原次右衛門以下に、本領安堵の御朱印が昌幸を奉行として与えられました。
さて、沼田の先方衆からは真田昌幸に様々なものが献上されました。
目録の前にある「番附次第不同後々改直すべし」は加沢平次左衛門が書いたのか増田家が書いたのかわかりませんが…要はココの順番がエライ順ではないということですね。
🤲藤田能登守――藤田信吉――からは…
昌幸「こ…これは!?…高木貞宗の脇差じゃねェか!!…それに銀幅輪の鞍に…黄金1枚もくれるの!?…藤田ァ~…ありがとな!」
🤲金子美濃守――平泰清――からは…
昌幸「…!!…マジで!?…兼光の刀に…沼田道安が作った鞍ってスゴクね?…金子~…イイ心掛けだね~…(ところでコイツ“平氏”名乗ってんのな…)」
🤲渡辺左近允――源綱秀――からは…
昌幸「うおッ!?…コイツはッ?…守光の脇差に…唐紙100束もくれんの!?……ちょうど紙に困ってたんだよ~…アリガトな渡辺!」
🤲中山安芸守――藤原景信――からは…
昌幸「おう中山!…え?…矢根を214根もくれんの!?…ラッキー!!…コレで撃ち放題だネ!!…鞍も一挺くれんのか!!…うれしいぜ!(ウチのお猿(唐沢玄蕃)がパクった金の馬鎧のコトは黙っとこう…)
🤲下沼田豊前守――平泰則――からは…
昌幸「…え?…これって……ウッソ?…マジかよ!……あの沼田景義も使ってたっつう“沼田打の泰重の刀”じゃねえかッ!!…しかも乗鞍まで付けてくれんの?…ありがとう~😂下沼田~…大切に使うぜ!!」
🤲久屋三河守――藤原実秀――からは…
昌幸「おう久屋!…おっ!…左文字の刀に…鞍一口か~!!……イイね~、シブいね~!!……ところで“鞍一挺”と“鞍一口”って何が違うのかね?……え!?…『知らない?』…だよね~…」
🤲西山市之丞――橘貞行――からは…
昌幸「…お披露目しまーッス!!…西山市之丞さんから~ッ…末行の御刀一腰とッ!…具足を一領ッ!……いただきましたーッ!!………あ、…いや悪いな西山…変化つけねーと飽きるからな…」
🤲山名信濃守――源義季――からは…
昌幸「おう山名~!…これからも頼んだぜ~…ってオイ!?…これは…!…青江家次の刀じゃねェか!!…マジかよ…こんな😂…ありがとな~!!」
🤲山名主水――源義胤――からは…
昌幸「…よう!…オマエはたしか山名のせがれの主水か…えっ!?…オマエまでオレにプレゼントしてくれんの?…しかも熊皮を2枚も?…参ったな…親子でそんなに気を使われるとクマっちゃうぜ~……でもアリガトよ!」
🤲発知図書――平為信――からは…
昌幸「おッ…葉茶壺か~…こういうのもイイな~…(ココだけの話みんな物騒なモノばっか持って来るからな)…ウマいお茶が飲めそうだぜ~…ありがとよ発知~!」
🤲恩田越前守――平能定――からは…
昌幸「おう恩田~!……なんとなくだけど、何故かオメーの一族にはこの先もずっと世話ンなる予感がすんな~…おッ!…月山の脇差か~!…アリガトよ!…大事にすんぜ~!」
🤲塩野井又市郎――藤原清実――からは…
昌幸「オッス塩野井…オメエは鞍を1“掛”くれんのか…藤田と下沼田と久屋の鞍は“口”で、中山の鞍は“挺”ってふーに、みんな数え方が違うよな…なんでだろうな…知らねーよな…ゴメンな…」
🤲尻高左馬介――藤原景久――からは…
昌幸「おう尻高…おッ!…長太刀を一振くれんのか~…ありがたいね~!……つーかさ…キミは恕林寺で切腹した“尻高左馬助義隆”とは別人なのかね?…よくわからないね~」
🤲高井但馬守からは…
昌幸「…!!…こ、これはまさしく…祈祷用の札紙30束…!……いやあ高井、これさー、律義に全部紹介しようと思ってたけど、飽きるよな~…ストーリーの紹介が進まねーしよ~……あ?…コッチの話だよ」
🤲町田坊からは…
昌幸「おう町田坊ンとこの…おッ!…御守札紙を20束もくれんのか~!…これは御利益がありそうだぜ~…そういえばおめえンとこの“一音坊”だっけ…筆跡マネるのがうめえらしいじゃね(´゚◞౪◟゚`)……まあいいや…また後でな…」
…このほか地衆や榛名別当、諏訪別当三光院、下沼田宮野辺、武尊神主(の?)高井但馬守、上沼田諏訪別当、三王坊、ナントカ法?山、保鷹山、三峰山?寺、ナントカ寺、金剛院?寺、ナントカ等の寺社からも残らず昌幸にあいさつがありました…。
矢野「…先ほどの男は!……し、信じられん……ま、まさかあの伝説の“町田坊”の修験者を目の当たりにしようとは!」
昌幸「知っているのか半左!?」
―――――
町田坊…
…永享の頃、万某という山伏が吉野から来て開基、幕岩山観音寺町田坊と号し利根一郡の修験者を支配したという…。
…ちなみに本坊所属の一音坊は精密な文書偽造を得意としたことで有名である…。
民明書房刊『ウズラの血で偽造ズラ!』より
―――――
今度の軍氏政被聞召、多勢を以先小川を有退治と風聞有ければ、小川可遊齋如何思けん降人に出て逆心の張本人是也としるしを指上、申分なしけれども氏邦会て承引なし、同年五月中旬小川を落て北国にぞ浪人したりける、猿ケ京の要害には栗林肥前守、田村孫右衛門尉楯籠、景勝公より多勢を以番々被籠ければ度々の軍に昌幸公失利給ゐける、爰に須川の住人森下又左衛門尉と云者あり、渠に御計あり一門悉く随身したりければ又左衛門にあん堵の証文を賜りけり、
定
須川村之内 拾貫文 新屋鋪
壱貫文 布施分
壱貫五百文 高性寺分
五貫文 今井戸垣戸
五貫文 本領
以上
此度其方以調略猿ケ京於本意ハ可遊齋へ替地任所望右如此知行可宛行者也、仍如件
庚辰五月六日 昌幸
森下又左衛門殿
同年四月上旬金子美濃守、渡辺左近允、西山市之丞甲府へ忠信せんとて沼田を引払て名胡桃の城に参、昌幸公へ御礼有ければ不斜御悦有て、此由甲府へ被成注進、金子美濃守を横尾八幡の城に富沢豊前と一所被籠ける、渡辺左近允は柏原の用害に被差置ける、其頃甲府より昌幸公奉行にて条目被遣る、
法度
一、対地衆不致狼籍様ニ被申付可加懇切事
一、従二の曲輪内へ地衆出入一切可被停止事
(此已下不見)
(此前欠文)
五百余人十八日早旦倉内城被差越ければ、無相違藤田入替り、番所を請取固の旨早速安中を以海野に注進せられければ、昌幸公黒糸綴の鎧に信玄公より賜りたる竜頭の甲を被召、三尺五寸の重代の太刀を帯、壱尺八寸の討刀、九寸五分の鎧通し十文字に横たへ、十文字の鑓引提、望月黒と申名馬に貝鞍為置金の馬せん打掛させ胴赤の御旗六文銭為書真先に為進、むりやうの御指物茗荷の御纏にて、先陣は海野中務太輔、同心被官に被附たる佐藤軍兵衛、緋綴の甲を着、三尺八寸の太刀弐尺五寸の討刀十文字に横へ八角の棒打かたげ海野が馬添に立て歩ける、関東に隠なき大兵也さも勇々鋪ぞ見へたりけり、相続て池田甚次郎、植栗河内守、鎌原宮内少輔、浦野七左衛門尉、御馬廻りは春原、上原、宮下、深井、木村、大熊、川合、矢野半左衛門尉、後陣は出浦上総介、鈴木主水、原沢大蔵、沢浦隼人、山口式部、広田弾左衛門、殿は北能登守、師大助雑兵を残しおかれ究寛の兵勝て六十余騎、御馬添には富沢豊前黒糸綴の鎧鍬形の冑を着三尺五寸の太刀を佩、大長刀を打かたげゆらりゆらりと歩行けり、小荷駄奉行は唐沢玄蕃一年中山安芸守へ管領より下し賜りたる金の馬鎧盗取しが、此度は丹下鹿毛と云馬に打かけ乗たりけり、同富沢主計も御小荷駄に附たりけり、□□□渡利常陸介は海野能登守の小荷駄に附たり。昌幸公宮の辺の武尊社頭の前に御馬を被立倉内を御遠見有つるに、恩田越前守、発知刑部太輔、下沼田豊前守、久屋左馬允は歩行立すはだにて小者一人宛召連朝夕坂迄御迎に来りけり、藤田信吉は本丸北の番所に出て団扇を以奉招ければ、昌幸公は保科曲輪より乗入給ひて本城に御入有ける、藤田も頓て御対面有て御喜悦不浅けり、懸りける処に藤田彦助は北条曲輪に在けるが、兄信吉の仕方不及了簡とて藤田を内へ不入、既に及合戦処に昌幸公色々御宥免あつて合戦はなかりけり、此旨甲府え御注進有んとて真下但馬守ニ被仰付早速注進有ければ勝頼公御悦有て藤田には利根東郡三百貫文被宛行の旨御証文被下ける、藤田彦助同家臣吉田新介浪人したり、藤田信吉より人質を取沼田城代に被居たり、本丸藤田、二丸海野能登守父子、下沼田豊前守、北条曲輪金子美濃守、発知刑部太輔、三丸渡辺左近、恩田越前守、大膳曲輪久屋左馬允、保科曲輪西山市之丞、守護代藤田海野両人也、藤田へ被下ける御証文に曰、
沼田へ数年雖相働其方堅固相抱候条、年月相過候処、今度以忠節倉内之城明渡、殊に同苗彦助、吉田新介等令追放之由、委曲真田処より以真下令注進神妙之仁ニ存候、仍為忠賞利根川東郡三百貫文之処、全可被知行候、猶依戦功可被加重恩者也、仍如件
天正八年庚辰六月晦日 勝頼 御在判
藤田能登守殿
今度以忠節在所令退去、最前名胡桃参陣、誠以神妙之至ニ候、仍本領八拾貫文、今度之為忠賞薄根之内、廿貫文之処、都合百貫文之地、被宛行也、猶依忠信可有御恩賞之旨、被仰出者也、仍如件
年 月 日 勝頼御朱印 跡部大炊介奉之
金子美濃守殿
渡辺左近允ニ本領五十貫文、御加増十貫文、都合六拾貫文被下置也、
覚
三拾貫文 藤田彦介分
七貫文 吉田新介分
以上
此度渡辺左近令同心至沼田、最前参陣神妙思召候、仍為本領沼田内後閑善昌寺分之処、右如此被下置候、猶依忠信可有御重恩之旨、被仰出者也、仍如件
天正八年庚辰六月晦日 勝頼公御朱印
跡部大炊介奉之
西山市之丞殿
追而如此雖書置先判有所持之人は以替地可被捕之、又被申構有ば重而聞届可成下知者也
発知、久屋、下沼田、鈴木、川田の発知図書、山名信濃守、山名弥惣、岡谷平内左衛門、師大助、石墨兵庫、塩野井又市、片山主膳、高野、恩田、中山、尻高、□原次右衛門以下本領安堵の御朱印昌幸公奉行にて被下ける、昌幸公へ先方衆を始として御礼有り、
進上物之覚 番附次第不同後々改直すべし
一 高木貞宗御脇差一腰、鞍銀幅輪壱口、黄金壱枚
藤田能登守 藤田信吉
一 兼光御刀一腰、沼田道安作鞍壱口
金子美濃守 平泰清
一 守光御脇差一腰、唐紙百束
渡辺左近允 源綱秀
一 矢根二百十四根、鞍一挺
中山安芸守 藤原景信
一 沼田打泰重ノ御刀一腰、乗鞍一口
下沼田豊前守 平泰則
一 左文字御刀一腰、鞍一口
久屋三河守 藤原実秀
一 末行御刀一腰、具足一領
西山市之丞 橘貞行
一 青江家次御刀一腰
山名信濃守 源義季
一 熊皮二枚
同 主水 源義胤
一 葉茶壷一個
発知図書 平為信
一 月山脇差一腰
恩田越前守 平能定
一 鞍 一掛
塩野井又市郎 藤原清実
一 長太刀一振
尻高左馬介 藤原景久
一 御祈祷御札紙三十束
高井但馬守
一 御守札紙二十束
町田坊
其外地衆不残榛名別当、諏訪別当三光院、下沼田宮野辺、武尊神主高井但馬守、上沼田諏訪別当三王坊□□□法□山保鷹山三峰山□□寺□□寺金剛院□□寺□□寺社方共御礼有けり。町田坊と申は永享の頃万□と申す山伏吉野より来り開基して幕岩山観音寺町田坊と号し利根一郡の職を持也。