加沢記 巻之三⑥ 真田安房守昌幸公沼田御帰城並藤田能登領知仕置之事

加沢記 真田安房守昌幸公沼田御帰城並藤田能登領知仕置之事
加沢記 真田安房守昌幸公沼田御帰城並藤田能登領知仕置之事

主な登場人物

真田昌幸

甲州から勝頼さまの手紙をみやげにゴキゲン…調子に乗って藤田に領知をやりすぎた~💧

藤田信吉

自分の家来にもちゃんと分け前をあてがう意外とイイ上司。

内容

 この章は利根沼田の真田と藤田体制下での人事のお話ですね。

 お手紙がいっぱいで正直イミフな部分もたくさんあるのですがお付き合いください。

 

 天正9(1581)年6月、甲州へ参府していた昌幸は沼田へ帰ってきました。

 

昌幸「オッス!…藤田~…久しぶりッ!…勝頼さまから手紙をいただいてきたぜ~」

 

…その手紙には…

―――――

安房守帰城候間一筆申候、近日関東中無珍義候哉、有相替説者注進尤二候、仍弓十張進之候、委曲可有真田口上候、恐々謹言

  六月七日 勝頼朱印

  藤田能登守殿

―――――

内容…

「よー藤田~!…せっかく安房守(昌幸)が帰ってきたからオメー宛に一筆書いた手紙を持たして送るぜ~。最近関東で変わったコトはねーきゃあ?…もしなんかあったらすぐに報告してくれいな~。あ、弓を10張プレゼントするからもらってくれな。あと詳しいことは真田に聞いてくれや。」

―――――

…と書かれていました。

 

 こうして藤田信吉は領地として片品郷内と沼須の城――沼須から平出、岩室、□□、高平、生枝、古語父、生品、発知、秋塚、奈良、原地の300貫文の地――をもらいました…。

 

 藤田は「旧功の家臣たちに恩賞を…」と、まず、奈良、秋塚の郷を家臣である我名修理介に与えました。

 

 そして、塚本舎人助、木内甚五左衛門、七五三木佐渡守の3人それぞれに…

―――――

 知行方

 弐拾貫文 古語父之内

去秋甲州江忠信之砌最前被抽諸人神妙之奉公令感悦候、就之右之地出置候、向後厳密御軍役可被走廻候、当所本意二付而者一廉可引立者也、仍如件

 天正九年辛巳六月十六日

 信吉 判

 塚本舎人助殿

―――――

内容…

「塚本~!…オメーには古語父のうちから20貫文やるよ!

…去年、甲州に寝返り…ゲフンゲフン…えーと、忠信したとき…オメーは最前線で諸人に抜きんでた働きをしてくれたよな~!…だからその褒美だぜ!…今後のいくさ働きにも期待してるぜ~…

…前みてーに元気に駆け回ってくれよなッ!!…真田のヤツらの役に立っとけば…もっと引き立ててもらえるぜ~!!…がんばれよ!」

―――――

 知行方

去秋甲府江忠信之砌神妙之奉公令感悦候、依之右之地出置候、向後御軍役可勤之候、在所本意二付而者一廉可引立者也、仍如件

 同 信吉 判

 木内甚五左衛門殿

―――――

内容

「木内~!…オメーには発知から12貫文(※ココの原文では抜けてるけど沼田根元記には書いてあります)やるよ!

去年甲府に忠信したときにはよくがんばってくれたな~…これはその褒美だぜ!…今後のいくさ働きもがんばってさ~…真田に目ェかけてもらって出世すべーや!」

―――――

 知行方

 弐貫文 原地之内

右之地出置候、向後者不及他事一図奉公尤ニ候、就而相当之御番等可致者也、仍如件

 信吉 判

 天正九年辛巳八月七日

 七五三木佐渡守殿

―――――

内容…

「七五三木~!…オメーには原から2貫文くれてやるぜ!…

今後はヨソ事には目もくれず、一途に奉公するんだぜ?…そうすればそれ相応の役職が廻ってくるってもんだぜ…がんばるべーな!」

 

…と、こんな感じで藤田はこのほかの家来たちにも知行をそれぞれにあてがいました…。

 そして、自身は倉内に在城し、妻子たちは沼須の城に住まわせました…。

 

 さて、昨年に真田昌幸が勢田郡米野辺までカチ込んで不動山城(見立城)を乗っ取った際、新たに味方に付いた侍たちにも知行が与えられました…。

 

 須田新左衛門には…

―――――

先年不動山乗捕則河西へ被退候条忠節無比類候、然而倉内本意之上望の地雖可相渡之沼田過半藤田能登守方依忠節被下置条無是非候、武上御本意之上一所申成可出置候、先為堪忍分於南雲之内信州積廿貫文之所出置候也、仍如件

 天正九年辛巳七月十日 昌幸 判

 須田新左衛門殿

―――――

内容…

「オッス須田~…去年不動山を乗っ取ったときウチらについてくれてサンキューな!…倉内の問題も無事片付いたし、オメーの望みどおりの土地をくれてやりてートコだけどよ~…沼田はほとんど藤田能登守への褒美で使っちまったからな~💧まあ武蔵と上野の国をゲットしたその日にはよォ~遠慮なく望みを申し出てくれやな!まあとりあえず今回の働き分として南雲ンなかから信州積20貫文をやっからな!」

 

 また、須田と一緒に味方に付いた宮田衆の11人――石田主計佐、同平左衛門、原沢惣左衛門、狩野玄蕃允、須田新次郎、同与右衛門、須田久次郎、同甚杢、狩野主水佐、持木藤右衛門、新木主税助――にも、屋敷相当分の褒美が与えられました。

 宮田衆への手紙…

―――――

須田新左衛門、狩野左近助忠節之砌同意川西へ被退之条忠節無比類候、然而倉内御本意之上者壱所雖可相渡候、藤田能登守方依忠節沼田過半被下之条無了簡候、如何様、武上御本意之上必壱所申成可出置候、先為屋鋪分右拾壱人信州積五拾貫文所可出置候者也、仍如件

 同 昌幸 判

―――――

内容…

「オッス!…宮田衆のみんな…元気か!…オメーら須田新左衛門、狩野左近助と一緒にコッチに付いてくれてサンキュな!!…倉内の件も思い通りに運んだしお礼にイイ場所をくれてやりてートコだけどよ~…実は藤田能登守にほとんどやっちまったんさね~💧どうすべーかってトコで相談なんだけどよ~武蔵と上野がウマいコト行ったら、ぜってーイイ場所をくれてやるからさ~とりあえずは屋敷分つーコトで、オメーら11人に信州積50貫文をやるからカンベンしてくれや!頼むで~!」

 

…このほかにも忠節の者たちに恩賞が与えられました。

 そして、武将の配置ですが…

🏯長井坂の要害恩田越前守、下沼田豊前守

🏯米野の用害須田加賀守

🏯鎌田の城加藤丹羽守

🏯阿曽の要害金子美濃守

🏯小川の城北能登守

🏯名胡桃鈴木主水

🏯上川田発知図書

🏯川田山名主水(写本した人の注意書きで「是は信濃守と云男が武田御領分たるに仍り如此」とあります。川田城主は山名信濃守で主水はせがれのほうですかね。)

 

 越後に対する押さえとして…

🏯新巻の要害塩原源太左衛門、沢浦隼人

🏯箱崎原沢大蔵、山口式部、神保大炊介、小池右馬之介、森下又左衛門

🏯湯檜曽・清水越の番安部彦次郎、内山市左衛門

🏯犬居田の要害鈴木与八郎、同主税助、石倉青柳、富士の神主である鈴木駿河太夫

 

 そして…

🏯中山中山安芸守と右衛門の父子、平形丹後守

🏯尻高尻高左馬介と源三郎の父子、村上出羽守

…と配置を行い、昌幸自身は岩櫃でその年を越しました…。

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原文

天正九年辛巳六月昌幸公沼田へ帰城に付藤田所へ勝頼公より御書を被下ける、

 安房守帰城候間一筆申候、近日関東中無珍義候哉、有相替説者注進尤二候、仍弓十張進之候、委曲可有真田口上候、恐々謹言

  六月七日 勝頼朱印

  藤田能登守殿

藤田信吉は領地片品郷之内沼須の城賜りけり、沼須より平出、岩室、□□、高平、生枝、古語父、生品、発知、秋塚、奈良、原地三百貫文の地也、旧功の家臣等に恩賞を宛行けり、奈良、秋塚の郷は家臣我名修理介に賜、

 

  知行方

  弐拾貫文  古語父之内

 去秋甲州江忠信之砌最前被抽諸人神妙之奉公令感悦候、就之右之地出置候、向後厳密御軍役可被走廻候、当所本意二付而者一廉可引立者也、仍如件

  天正九年辛巳六月十六日  信吉 判

  塚本舎人助殿

 

  知行方

 去秋甲府江忠信之砌神妙之奉公令感悦候、依之右之地出置候、向後御軍役可勤之候、在所本

 意二付而者一廉可引立者也、仍如件

  同  信吉 判

  木内甚五左衛門殿

 

  知行方

  弐貫文  原地之内

 右之地出置候、向後者不及他事一図奉公尤ニ候、就而相当之御番等可致者也、仍如件

  信吉判

  天正九年辛巳八月七日  七五三木佐渡守殿

 

此外知行それぞれに宛行其身は倉内に在城し妻子方は沼須の城に被居ける、去年勢田郡米野辺まで切随給て不動山乗捕給し時忠節の侍に知行被下ける、

 

 先年不動山乗捕則河西へ被退候条忠節無比類候、然而倉内本意之上望の地雖可相渡之沼田過半藤田能登守方依忠節被下置条無是非候、武上御本意之上一所申成可出置候、先為堪忍分於南雲之内信州積廿貫文之所出置候也、仍如件

  天正九年辛巳七月十日 昌幸 判

  須田新左衛門殿

 

宮田衆拾壱人壱所に川西へ退出に付為御褒美屋鋪分被下置人々、

 石田主計佐  同平左衛門

 原沢惣左衛門 狩野玄蕃允

 須田新次郎  同与右衛門

 須田久次郎  同  甚杢

 狩野主水佐  持木藤右衛門

 新木主税助

 

 須田新左衛門、狩野左近助忠節之砌同意川西へ被退之条忠節無比類候、然而倉内御本意之上者壱所雖可相渡候、藤田能登守方依忠節沼田過半被下之条無了簡候、如何様、武上御本意之上必壱所申成可出置候、先為屋鋪分右拾壱人信州積五拾貫文所可出置候者也、仍如件

  同  昌幸 判

 

此外忠節の族恩賞被宛行、長井坂の要害に恩田越前守、下沼田豊前守、米野の用害に須田加賀守、鎌田の城に加藤丹羽守、阿曽の要害に金子美濃守、小川の城に北能登守、名胡桃に鈴木主水、上川田に発智図書、川田に山名主水(是は信濃守と云男が武田御領分たるに仍り如此)越後の押の為め新巻の用害に塩原源太左衛門、沢浦隼人、箱崎に原沢大蔵、山口式部、神保大炊介、小池右馬之介、森下又左衛門、湯の檜曽清水越の為番安部彦次郎、内山市左衛門、犬居田の用害に鈴木与八郎、同主税助、石倉青柳、富士の神主鈴木駿河太夫、中山に中山安芸守、同右衛門父子、平形丹後守、尻高は尻高左馬介、同源三郎父子、村上出羽守段々被仰付、其年は岩櫃にて御越年也。