「巻之二」で真の主人公が登場するまでの間の仮の主人公。
弾正忠。
『加沢記』のキャラ設定だと海野信濃入道棟綱の二男。
武器は棟綱からもらった三尺五寸の巌物作りの太刀。
棟綱の嫡男。
滋野の惣領。
左京太夫。
ときどき幸象。たぶん。
ガマン強くない。けどなかなか死なない。戦闘民族。
『加沢記』のキャラ設定だと棟綱の三男。
右馬介。後の矢沢頼綱。
神器継承者。
滋野の神器。小続松とも書かれる。つーか人間じゃなくて槍。
この章の戦いで☆を13稼ぐ。
滋野御三家である祢津家の当主。
宮内太輔。
人でなし。
武器は祢津相伝の橋返りの太刀。
祢津家は作者である加沢平次左衛門の補正がかかる。
信濃の四皇。
残酷な刑罰の使い手。
遠隔自動操縦型のスタンド使い。
スタンドは本体が死んでも消えない。
『呪術廻戦』なら2級くらい。
さて、川田城跡に眠る偉大な人物、加沢平次左衛門が残した『加沢記』を冒頭から紹介していきますが…
『加沢記』の冒頭はいきなり人名がズラーッと並んでいて、読みづらいことこの上ないですね~…「さぁ『加沢記』を読もう」と思った人の約7割がここで挫折すると言われています…。(当会調べ)
まず出だしは「滋野」姓についての記述ですね。
人王(神武天皇以後の天皇)56代の清和天皇の第五皇子、貞元親王(ちなみに、この人のお母さんは二條の太政大臣正一位長良――いわゆる藤原長良――の娘です)が、正平年間(?)に関東に来ましたが、そのとき始めて「滋野」姓をもらいました。
貞元親王は四品の位を任され治部卿を号し、信濃の国司を賜って、小県郡海野庄という所に住み、出家して「開善寺殿」と名乗りました。
開善寺殿はここに真言秘密の道場を建てました。ここは「白鳥」と呼ばれ、祭典を毎年4月と8月の4日にやっているとのこと(加沢平次左衛門の時代の話)です。
貞元親王には子が1人おり、その子は「海野小太郎滋野朝臣幸恒」と名乗りました。
幸恒には3人の子どもがおり、親子で“武石”という山に猟に行きました。そして、千曲川のほとりで…
幸恒「お~い…オメーなん兄弟でさ~…ここの領地3つに分けべーじゃね~…そんでさー、オメー(長男)は“海野小太郎幸明”、オメー(次男)は“祢津小次郎真宗”、オメー(三男)は“望月三郎重俊”と名乗れや…」(原文:御領の地を分譲給べし)
「海野」「祢津」「望月」…いわゆる滋野御三家の始まりですね。
ちなみに、このとき長男の幸明が立っていた所を「三分の橋」と名付けました。
なお、この3人が亡くなったあと、幸明の法名が「前山寺殿」、真宗の法名が「長命寺殿」、重俊の法名が「安元寺殿」といい、それぞれ真言宗の寺を立てました。
さて、まだまだストーリーと関係ない人名ばかりの部分が続きます…。
海野小太郎を襲名した幸明には「幸盛」という孫がいました。
ここで幸盛の弟「下屋将監幸房」の話になりますが、この幸房は上州吾妻郡の三原という所に住んでおり、この人が鎌原氏、西窪氏、羽尾氏のご先祖になるわけですね。
そして一旦、幸盛の話に戻りますが、この幸盛の玄孫は「海野信濃守幸親」といいました。
そしてこの幸親の弟が「海野弥平四郎幸廣」です。幸廣は壽永2(1183)年に木曽義仲の幕下にいました。彼は「平家を追討せよ!」との宣旨を受けて、備中国水島で追手の大将軍を賜りますが、討死してしまいます…。
幸親と幸廣兄弟の平家追討の功により、子の左衛門尉は嫡家を継いで「海野幸氏」と称しました。
幸氏には子が1人いて、名は「信濃守幸継」、法名は「中善寺殿」といいました。
幸継には子が6人いました。長男が「海野小次郎幸春」、次男が「会田小次郎幸元」、三男が「塔原三郎氏廣」、四男が「田澤四郎氏勝」、五男が「借谷原五郎氏重」ですが…
(加沢記の分かりづらいところは、ここで六男の紹介の前に五男の子たちの話を始めるところですよね…。)
五男の借谷原には3人の子がいて長男が「氏治」、二男が「清野六郎氏陸」、三男が「大塚七郎氏截」でした。
…で、幸継の六男は「光六郎氏頼」という人ですが…
この人たちはみんな信州の地頭でした。
そして、幸春の11代目の子孫が「兵庫頭幸則」ですが…(もう既に「幸春って誰だっけ?」って世界ですよね…。)
「兵庫頭幸則」には2人の子がいました。長男が「小太郎幸義」、次男が「岩下豊後守」です。
幸義から三世あとの小太郎殿は、鎌倉公方の足利持氏公から一字賜って「持幸」と名乗りました。
さらに持幸から三代の孫を「海野信濃入道棟綱」といいました…。
海野信濃入道棟綱の時代のころには都会も田舎も戦争ばかりしていました。…棟綱は小県郡砥石と上田原に城郭を築きました。
棟綱には子供が4人おり、嫡男が「海野左京太夫幸義」、二男が「真田弾正忠幸隆」、三男が「矢澤右馬介綱隆」(後の薩摩守頼綱)、四男が「常田出羽守俊綱」(武石右京進)といいました…ようやく馴染みのある名前がでてきましたね。
棟綱は領地を子供たちに譲りましたが、特に二男の幸隆には真田、小日向、横澤、原ノ郷、荒井在家三百貫文の土地を与え、家臣として矢野、川原を付けました。幸隆には武運長久と子孫繁栄の相が出ていました。そして真田村に家舗をたて、これを「甲田」と呼びました。
真田村には鎮守の白山大権現がおりました。白山権現はイザナギノミコトがご神体で、信州浅間と吾妻屋両山の権現とは一体ということです。
真田の白山は信州の鎮守里宮で、上州の里宮は吾妻郡三原の郷にあり、両方とも幸隆の先祖の貞元親王が建てたものです。
真田弾正忠幸隆には、5人の子がいて、長男が「真田源五郎」(後の源太左衛門信綱)、二男が「兵部介信貞」、三男が「喜兵衛尉昌幸」、四男が「隠岐守昌君」といいました。…幸隆は文武両道に達していました。(あれ?5人目の紹介は?ッ…なぜかない…)
と、ここでよーうやく、人名やら役職やら、誰の子だー、何代目だー…の話が終わってストーリーが始まります。
加沢記すごく面白いのに、ここで嫌になる人が多くて切ない…やっぱり読み物って導入が大事ですよね。
さて、当時の公方は義〇公でしたが…もはやコイツの命令に従う者などいなく…諸国は乱世…弱肉強食の時代となりました…。
その頃の信濃はあまたの地頭が支配していましたが、中でも「村上義清」「木曽義政」「諏訪頼重」「小笠原長棟」の四大将が激しい領地争いをしていました…。
うーん…「四皇」みたいでカッコいいですね~マジでジャンプのマンガみたいでワクワクしますね~。
滋野の一族はすべて村上義清の配下につき、人質を差し出していました…が!
…〇〇2年の事…
村上義清「…あんだとォ!?…祢津宮内太輔覚直んトコの…大塚掃部介幸実のヤロウが…諏訪頼重のヤツに参籠したぁ!?……マジかよ?…アイツ(大塚)の先祖って確か借谷原五郎の末孫…水内郡大塚の地頭で、オレの先代の頼平の時からの無二の配下だったじゃねーか……ヤロウ…この乱世に乗じてオレを裏切るつもりか…?」
こうして義清に怪しまれた大塚は領地を没収され、小県郡に浪人してしまいました…。
義清「あ~面白くねーッ!!…こうなったらいっそのこと滋野の一族ごとをぶっ〇しちまおうか…」(原文:滋野の一族を退治せん)
…と、村上義清の動きを知った祢津宮内太輔覚直は…
覚直「ぬぅ…これは容易ならざる事態…こうなったら先手を取って葛尾(村上義清の居城)を攻めるっかねえぜ!」(原文:村上方より寄不来先に葛尾へ寄ん)
…と、惣領家である海野幸義に相談します…。
祢津覚直の話を聞いた海野幸義は…
幸義「…これぞまさしく“啐啄同時(絶好のタイミング)”…!…村上のヤツさんざ調子に乗りやがって……いつかぶっ〇してやろうと思っていたが…今こそチャンスだ!!…智謀名高い幸隆の意見を聞こうぜ!!」(原文:啐啄同時也、近年村上に押領せられ無念に思けれども次なければ企るに無力、今ぞ能幸也、御舎弟幸隆は智謀の勇士なりければ御意見を御請有ん)
…と、小草野孫右衛門を使いにやり、真田幸隆、そして矢沢右馬介(後の頼綱)を上田に呼び出します…。
こうして滋野一族により行われた“村上義清ぶっ〇す会議”の結果、天文10(1541)年、海野幸義、祢津覚直と信直を二手に分け、先陣に真田幸隆、前備に矢澤右馬介と鞠子藤八郎と鎌原美作守、後陣に小泉常田を配し、六文銭の朽葉四方にすはまの御紋、白地に日の丸の旗を先頭に、2,000余騎で葛尾へ押寄せました!
対する村上義清も…
義清「フッ…滋野ども…そう来ることはわかっていたぜ…!」
…と、石畳の紋の旗を立て、上田と榊の間にある〇〇山の麓の陣取り、義清自身は千曲川の端に備えを構えました。その数合わせて5,000騎です…。
村上勢の前備は室賀八代の一党1,500余騎、後備は大室、清野、望月、覚願寺、小笠原、西條、下條、松尾、芋川、腰備は綿内、倉品、草馬、寺尾、赤澤、はぶ、雨ノ宮、座光寺、八幡神主ら2,000余騎でした…。
さて、滋野勢の先陣である真田幸隆は丸山を介して海野幸義に…
幸隆「アニキ~(※『加沢記』では真田幸隆は海野幸義の弟という設定です)…村上のヤツら…いっちょ前に鶴翼の陣を敷いてやがる…マトモにやっても敵わねーぜ~…」(原文:村上が備を見るに鶴翼に備え、静り返て見へけるは身方より寄を待と覚たり)
幸隆「…そこで作戦だが…
①まずアニキが敵の大軍にビビって引く「フリ」をしてくれ…
②そしたら敵は陣を崩して襲ってくるだろうぜ…
③そこで山陰に隠れさせた祢津覚直に敵の跡を遮らせる…
④そしたらオレが村上義清の旗本を襲って一気に勝負を決してやるぜー!」
(原文:身方は小勢敵は多勢なりければ大軍に避易して引色を見せしめば、定て備を崩し押掛べし、其時兼而山影に回し置し祢津の一勢にて跡を遮て討捕べし、扨其時に我は森の木陰に引廻り義清が旗本へ掛入て有無勝負を決すべし)
さて、海野幸義がビビッて引くフリをすると、案の定、高梨子の軍が襲ってきます…ここまでは真田幸隆の作戦どおりだったのですが…
幸義は「こらへぬ大将」(辛抱強くない、血の気が多い人)でした…。
幸義「よーし…幸隆の作戦どおり退く“フリ”をするぜッ!!」
高梨子「へへッ…みんな見ろッ!…海野のヤツら逃げよるぜーッ!…ヒャッハー!!…追えッ!…あの腰抜けをぶっ〇すんだーッ!!」
幸義「……」
――ゴゴゴゴゴ――
幸義「…幸隆のヤツはああ言ってたけどよォ~…あの高梨子のヤロウの調子ンのったツラを見てると…とてもガマンならねーぜッ!」
…と、引き返して高梨子の軍と戦ってしまいました…。
こうして海野幸義のケンカっぱやい性格が災いして「敵の先陣をおびき寄せて分断し、村上本隊を奇襲する」という真田幸隆の作戦はパーになってしまいました…。
幸義の攻撃を受けた高梨子はたまらず山の上に逃げますが、入替りに室賀八代の新手が攻めてきます…。
室賀との戦闘中、幸義の馬は堰溝にはまり前膝を突いて倒れ、落馬した幸義は起き上がろうとしたところを敵の槍で脇の下から乳のあたりまでブスッと貫かれてしまいます!(痛そう)
…が、ここからが“戦闘民族滋野氏”の一員、海野幸義の真骨頂となります!
幸義「…ぐぶッ……チッ!…ドジったぜ…」(原文:不叶)
…と死を覚悟した海野幸義でしたが…
幸義「…ゲホッ……だがよォ~…オレは…一人では死なねぇ…室賀ァ~!…テメーらも道連れだーッ!!」
幸義は自分の上半身に槍が貫通している状態で、手槍を投げ捨て太刀を抜き、室賀の家臣である芋川を真っ二つに斬り割ります。
室賀「ひえ~ッ!!…芋川~ッ!?…てめーらッ…は、はやくソイツをトドメろッ!!」
…しかしこの光景を見た敵兵はビビッて近寄れません…。
この機に乗じて海野幸義の周りへ加勢が駆け付けますが、敵の大軍にはとても敵いません…。
そこへ…
右馬助(後の矢沢頼綱)「アニキ(※『加沢記』だと矢沢頼綱も海野幸義の弟という設定です)~ッ!?…クソッ!…目の前でアニキを〇されてたまるかッ!」(原文:眼前に兄を討せては末代迄の恥辱也)
…と、矢沢右馬助は馬から飛び降り、家臣の庄村、上原、山越、神尾と共に幸義の元に駆け付けます…!
右馬助「…貴様ら…よくもアニキを!……海野家に伝わる『小続松(小松明)』の槍の威力…思い知るがいい…!」
…と、たちまち敵13騎を討ち取ります!
しかし…
幸義「…右馬助…ありがとよ…幸隆…あとは頼んだぜ…」
――海野左京太夫幸義――死亡――
幸義の遺体は春原惣右衛門、川原惣兵衛により運ばれていきました…。
幸隆の作戦で敵を分断するため山影に隠れていた祢津覚直は…
覚直「…幸隆の作戦はハズレたか…こうなったら劣勢の味方に加勢するしかねーな…」
…と、真田幸隆と一緒に村上義清の本陣に押し寄せました…そして…そこで幸義の討死を知ります…。
覚直「…!?…そんな…た、大将が…」
幸隆「…アニキ…すまねえ……こうなったらオレたちもおめおめと生き残るワケにはいかねえ!!…義清をブッ〇すぜーッ!!」(原文:生残ては後代の名折也)
…と、覚直が「祢津相伝の橋返りの太刀」を、幸隆が「棟綱公より賜りたる三尺五寸有ける巌物作りの太刀」を、それぞれ手にして、一文字に村上義清めがけてカチコミをかけます…!
復讐に燃える祢津覚直と真田幸隆にカチコミされた村上義清はヤバイことになりますが、部下の覚願寺信清が義清を守るため立ちふさがり、綿内、大室、倉品など500余騎も駆けつけて、滋野勢と火花を散らして戦いました!
やがて戦場に夕暮れが訪れ…敵も味方も引き上げ、その日の戦闘は終わりました…。
滋野勢は1,000余騎が討たれ、生き残りも大半が傷を負い…との記述の後、一部分が欠けてしまっていますが…要するに加沢記の冒頭で描かれた滋野氏の合戦(海野平合戦)は、負け戦なんですね~。
このあと、海野平合戦の記述の後から文章が欠けていますが、たぶん信州から逃げた真田幸隆が箕輪城の長野業正に保護を受けることになったことでも書かれていたのでしょうけれど…いっきに真田幸隆と上杉憲政の面談の場面まで飛びます…。
長野業正の案内で上野国緑野郡平井(現在の藤岡市)にやってきた管領上杉憲政は、信州で武勇の誉れ高い真田幸隆と対面しようと、家来を書院に集めました。
以下参加したメンバーですが…
太刀持ちとして熊谷主殿助、
左の座に白井城主である長尾左衛門平憲景、国嶺の城主である小幡上総介、同尾張守、
右の座に長野信濃守藤原顕重、白倉三河守、児玉党倉賀野淡路守、高山遠江守、深谷左兵衛尉、
奏者は上原兵庫頭、
太刀は難波田弾正少弼、
次の間に控える須賀大膳、
大広間には由良本庄、安中越前入道、
そのほかに上州武州両国の先方衆で列座したものがおよそ千余人いました。
管領の上杉憲政にあいさつを済ませた真田幸隆は、松の間の座敷でごちそうを振舞われ、小幡の仲介により居合わせた各大名と顔見知りになりました。
さて、箕輪に帰宿した幸隆は嫡子の信綱にグチります。その内容とは…
幸隆「信州にいるころから“アホだアホだ”とは聞いてたけどさ~、アイツ(憲政)…聞きしに勝る超アホだわ…。管領とかぬかしてエバリやがって…代々の老臣どもをエラそうに引き連れてたけどよ~、実質は万事、上原と須賀の言いなりになってるじゃん。…アイツもうアカン…“ダメだこりゃ”って感じだぜ」(原文:信州にて聞及しより猶以憲政はうつけたる大将也、其故如何と云に勿論管領の高位とは云ながら事々鋪様躰也、其上代々の老臣等、列は並居けれども万端上原、須賀両人が侭成仕形也、危き御進退也と見る)
幸隆が管領の悪口を言ってたことを聞いた武田晴信(信玄)は…
晴信「おう真田!…オメー管領のことアホだと思ってるッつーじゃね?…まあ…実際その通りだよな~(笑)……でもそんな考えでそこにいたらアブねーからよ~…オレんトコ来いや」
…と原隼人正を通じて真田幸隆を甲府へ招きました。
幸隆は、信州佐久郡の小諸城に在城することになりました。
さて、真田幸隆が小諸に入ったのを聞いた村上義清は…
義清「なにィ~?…真田のガキが甲府に逃げた~?……クソッ…あのガキ…ヘタしたらまたオレのこと狙ってくるかもしれね-な…こうなったら念のため信州に残っている滋野一族から人質を取っておくべーじゃね…」
…と、祢津覚直に実子を人質として差し出すよう要求しました。
が…祢津は実子の代わりに、舎弟である長命寺の住職を差し出しました。
そして、この行為は『加沢記』でも指折りの悲劇の始まりだったです…。
そんな時、真田幸隆は信州に手を出し、程なく上田の砥石城を攻め取ってしまいます。
武田晴信はとても喜び、その時に祢津も武田に属することになりました。
さて、これに怒った村上義清は…
祢津から人質として差し出されていた長命寺の住職を千曲川の端で生きたまま「逆さはたもの」にかけ…ほかにも寝返った者たちの人質を「断罪」あるいは「さんぞくに及獄門」にかけました…。コワイですね~…。
ちなみに本文中の、
「乍生」…レ点を入れて「生きながら」と読むのでしょうね…。
「逆さはたもの」…逆さ磔のことでしょうね…。
「断罪」…ここでは打ち首のことでしょうね…。
「さんぞくに及ぶ獄門」…本人だけでなく三族に及ぶまでさらし首にしたということでしょうね…。
さて、処刑される長命寺の住持は検使に向かって…
住持「おう!…磔にするなら、祢津のほうに向けて掛けてくんねーかな…
…覚直のヤロウ!!…オレを騙してヤツの実子である元直の代わりに生贄にしやがった…。
この3、4年の間、一度でいいから寺に帰りてえと心に願っていたが…ついにこのザマだ…。
実はオレ義清公に怨みなんてねえんだ……!
文句を言う気はない……!
筋違いだと思う…!
が……!覚直…!元直…!
お前らは別ッ…!
よくぞ裏切れたな…!
このオレを……!
祟ってやる…!
祢津…!七代まで…!」(カイジ風)
(原文:はた物に掛給は祢津の方に向ひ掛給べし、其故は覚直にたばかられ実子元直の命に代り敵方へ被渡、此三四年心意をもやし一度は帰寺せんと思しに斯く浅間鋪事。義清公には努々怨なし、此上は祢津七代に祟を成ん。)
長命寺の住持は、皆水晶の念珠をサラサラと押し揉み、真言秘密の観念をして、念珠で自らの胸を打ちました。
すると、なんと恐ろしい怨念でしょうか…胸を打つごとに水晶が微塵となって雷のごとく閃き、祢津の方へ飛んでいきました…!
長命寺の住持が17日の間つぶやいた怨念は、たちまち通じて乳母に抱かれていた祢津元直の嫡子の目を潰しました…。逆さ磔の状態で17日も呪いの言葉を唱え続けたのでしょうか…。スゴイ執念ですね。
それ以後も祢津の子孫への祟りは続き、他人から見ると何が起こっているのかわかりませんが、呪われている本人は、出家した人の姿を見るだけで長命寺の住持のことを思い出し、気が狂うほどでした。
ほかにも、見張りを付けて薬の鍋蓋を弦に結んで守っていたのに、なぜかその中身が無くなるなど、奇妙な出来事が続きました…。
こんな感じで3代の間は祟られ続けましたが、後に長命寺の住持が祢津の氏神として崇められるようになり、ほこらが建てられ祀られるようになると、信心が通じたのか、後代はさして祟りも無くなり、今に至っては「若宮」と呼ばれ敬われているとのことです…。
それにしても怨みの力は恐ろしいですね…裏切りはアカンということですね。
昔時海野氏と申は、人王五十六代清和天皇第五の皇子貞元親王と申奉る。御母は二條の后贈太政大臣正一位長良公の御女也。正平年中貞元親王蒙勅関東に御下向之時、始て滋野姓を賜り、位任四品、号治部卿、信濃国司を賜り、彼国に御下向有て、小県郡海野庄に住給ふ、御法名を開善寺殿と号し、真言秘密の道場一宇建立し給ふ、御当家にて白鳥と敬ひ毎歳四月八月四日の日を祭給ふなり。御子一人御座す、始て海野小太郎滋野朝臣幸恒と号す。幸恒に三子有り、或時幸恒、御父子打連給て、武石の山中に遊猟の時、千曲川辺にして御領の地を分譲給べしとて、長男幸明は御嫡成ければ海野小太郎と号し、仲を祢津小次郎真宗と号し、季を望月三郎重俊と名付給ふ。其時幸明の立給所を三分の橋と名付たり。三子御逝去の後、幸明の法名前山寺殿と号し、小次郎真宗の法名号長命寺殿、三男三郎重俊の法名号安元寺殿、何れも真言宗の僧を招請有て御寺を立給ふ。幸明の御孫幸盛舎弟を下屋将監幸房と号し、上州吾妻郡三原と云所に住給ふ。鎌原氏、西窪氏、羽尾氏等の先組是也。太郎幸盛の玄孫海野信濃守幸親、舎弟海野弥平四郎幸廣は、壽永二年癸亥木曾左馬頭義仲の属幕下、平家御追討の蒙宣旨、備中国水島に馳向給て追手の大将軍を賜り、同年閏十月朔日に討死し給ふ、依此功御子左衛門尉、嫡家を継給ひて海野幸氏と号す、御子一人御座す、信濃守幸継と号し法名を中善寺殿と号す、御子六人誕生し給ひ、長を海野小次郎幸春と申ける。御二男會田小次郎幸元、三男塔原三郎氏廣、四男田澤四郎氏勝、五男借谷原五郎氏重。借谷原に三子有り、長を氏治と名付、二男を清野六郎氏陸、三男を大塚七郎氏截と号す。氏重の御弟を光六郎氏頼と名付、何れも信州の地頭也。幸春十一代の孫を兵庫頭幸則と号す。兵庫頭に二人の御子有り、長を小太郎幸義と名付、次を岩下豊後守と申けり、幸義三世にして小太郎殿、鎌倉の公方足利持氏公より御諱の一字を賜りて持幸と号す。持幸三代の孫を海野信濃入道棟綱と申也。此御代に至て都鄙不隠して諸国兵乱止事なければ、小県郡砥石、上田原ニヶ所の城郭を築給也。御子四人持給ふ、嫡男海野左京太夫幸義、御二男真田弾正忠幸隆、三男矢澤右馬介綱隆、後に薩摩守頼綱と名乗る、四男常田出羽守俊綱、武石右京進と号す、棟綱領地を御讓有て幸隆へ真田、小日向、横澤、原ノ郷、荒井在家三百貫文の地を御配分有り臣家には矢野、川原をぞ附られける。幸隆御武運長久、御子孫御繁栄ならせ給べき御瑞相にや、始て真田村に御屋鋪を構給ふ、甲田と云し所也。殊に彼郷の鎮守白山大権現にぞ御座す。此御神と申奉は、本朝の元祖にて伊弉諾尊を白山権現と敬奉る、信州浅間、吾妻屋両山の権現御一躰也。真田の白山は信州の鎮守里宮也。上州の里宮は吾妻郡三原の郷にぞ建給ふ。両社里宮は御先祖貞元親王の御建立とぞ聞へけり。不思議や此地を領し給ひて鎮守に崇給て御名字に名乗給事、末御繁昌の基也。御子五人有り、長男を真田源五郎、後ち源太左衛門信綱と申、二男兵部介信貞、三男喜兵衛尉昌幸、四男隠岐守昌君と申けり。幸隆文武両道に達し給けり、公方は義□公の御代なりけるが、御下知に随ふ者無くて国々兵乱の時代なりければ所々の城え取掛給て合戦し給に勝利を得給ずと云事無し。其頃信濃国の地頭数多にて知行し給といへども村上義清、木曽義政、諏訪頼重、小笠原長棟、彼国の頭領にて四大将領地を争給ひければ大身は小身を掠め、小身は表裏を以て押領せんと挑戦ける折節なれば滋野の御一族悉く村上殿の幕下に伏し給て人質を渡置給けるが□□二年の事なるに祢津宮内太輔覚直の御一族遠く先祖を尋るに、借谷原五郎の末孫水内郡大塚の地頭大塚掃部介幸実と云者有り、彼は村上頼平の時より無二の幕下なりけるが掃部諏訪に参籠して頼重へ封面したる由を奇怪に思ひ懸命の地を没収せられければ掃部も不叶して小県郡に浪人しけり。義清此由を聞て滋野の一族を退治せんと企の由聞えければ覚直不容易思はれ、村上方より寄不来先に葛尾へ寄んとて、惣領家なりければ海野幸象へ此由を斯とのたまひ遣はされければ幸象此旨聞召給て、啐啄同時也、近年村上に押領せられ無念に思けれども次なければ企るに無力、今ぞ能幸也、御舎弟幸隆は智謀の勇士なりければ御意見を御請有んとて真田へは小草野孫右衛門を御使者にて被仰越ければ幸隆公上田へ御出有り。矢澤右馬介殿も被参ければ御一族御會合有て天文十年十二月下旬の事也けるに左京太夫幸義、宮内太輔覚直、舎弟美濃守信直二手に分つて先陣は弾正忠幸隆公、本陣前備は矢澤右馬介殿鞠子藤八郎殿鎌原美作守と御定、後陣は小泉常田殿と御定有て、六文銭の朽葉四方の大旗にすはまの御紋白地に日の丸の大旗真先に進せ、都合其勢二千余騎前後に是を囲て葛尾へこそ押寄られけり。義清も兼て用意の事なりければ高梨子信濃守を先陣にて石疂の紋書たる大旗を二千余騎、義清は遙に引下て寄られけるが上田と榊の間なる□□山の麓に陣取、義清は千曲川の端に備給ふ、前備は室賀八代の一党一千五百余騎、後備は大室、清野、望月、覚願寺、小笠原、西條、下條、松尾、芋川。腰備は綿内、倉品、草馬、寺尾、赤澤はぶ、雨ノ宮、座光寺、八幡神主等は遙に引下て小丸山にぞ備へけり。其勢を計るに二千余騎、都合五千余騎轡を駢べ静り返て控ける。先陣幸隆公、丸山を以て幸義へ被仰けるは村上が備を見るに鶴翼に備え、静り返て見へけるは身方より寄を待と覚たり、身方は小勢敵は多勢なりければ大軍に避易して引色を見せしめば、定て備を崩し押掛べし、其時兼而山影に回し置し祢津の一勢にて跡を遮て討捕べし、扨其時に我は森の木陰に引廻り義清が旗本へ掛入て有無勝負を決すべしと軍法を御定有て備を拂て引給ふ、されば案の如く高梨子旗色見へければ貝を吹立ければ先陣後陣の兵、貝を合図に鯨波をどっと揚て揉にもんてぞ掛たりけり、幸義こらへぬ大将なれば間も無く引返給ければ村上は未だ本備を踏まえて有ければ幸義の軍法相違して先陣高梨子と相戦給ひ手痛く当られ高梨子は山上にぞ引上たり。後陣の室賀八代新手を入替て散々に責戦ければ御運や尽給けん召れたる御馬堰溝の中へ飛入って前膝を突て倒れければ馬の後にどうと落給けり、起上んとし給ければ大勢下重て鑓ふすまを作て御脇の下より御乳の辺へ貫きければ不叶と思召、御手鑓投捨て給て御太刀を抜き室賀の臣芋川が真向ニツに伐割たまへば此勢に避易して重て寄る敵もなし、其内に味方の勢駆付て敵追拂はんと為ければ勝に乗たる若者は大勢突て掛りければ難叶見させ給ける処に、御舎弟右馬助殿、眼前に兄を討せては末代迄の恥辱也とて馬より飛下り、海野御重代小続松と云し御手鑓を提掛給ば家臣庄村、上原、山越、神尾も続てこそ掛たりけり。綱隆御若盛武勇無類の時成ければ立所にて敵十三騎討捕給へば近付敵は無りけり。幸義公は空しく成給ば在家より板戸を取寄給ひ、春原惣右衛門、川原惣兵衛両人にて、御死躰をかひてぞ落ちたりける。宮内太輔殿は山影に控給けるが身方敗れたるを見給て幸隆公と一所に成給て義清の本陣へぞ押寄給ける、幸義公は討死と聞えければ生残ては後代の名折也とて覚直は祢津相傳の橋返りの太刀抜持、幸隆公は棟綱公より賜りたる三尺五寸有ける巌物作りの太刀真向にさしかざし一文字に義清を目掛給て駈込給ければ丶丶丶丶丶丶別府、小林、三宅丶丶丶丶丶丶続て掛たりければ村上殆く見たりけり、布下覚願寺信清は義清を討せじと駈塞て見えければ綿内大室倉品等五百余騎にて掛ければ互に火花を散して戦給けるが晩景に及ければ相引に成て其日の軍は止にけり。扨身方の勢を集給に一千余騎討れて残る兵、大半手負ひければ
此已下欠文
長野の案内にて上野国緑野郡平井へこそ参られける、管領は始て信州先方武勇の誉有ける真田幸隆へ対面有けるとて幕下の大身小身召集て書院に於て対面也。座席を見給に黒書院上段に釣簾を掛け、左右に真紅の大総を巻下たり、其内に高麗べりの厚畳を敷き其上に毛氈を鋪たり、憲政掛烏帽子をかぶり直垂を著給ふ。御太刀持は熊谷主殿助也、床の掛物を見るに牧渓和尚の墨書の観音を掛たり、卓の上に鶴亀の香爐を置て薫香を焼けり座配の大名は左の座に白井城主長尾左衛門平憲景、其次に国嶺の城主小幡上総介、同尾張守、右は長野信濃守藤原顕重、其次に白倉三河守、其次に児玉党倉賀野淡路守、高山遠江守、深谷左兵衛尉。扨奏者は上原兵庫頭、太刀は難波田弾正少弼披露なり、須賀大膳は次の間に控たり、扨大廣間に並居たる人々を有増見るに左の上座は由良本庄、安中越前入道、其外上州武州両国の先方衆列座したる凡千余人には過たり、御禮相濟、松の間の座鋪にて馳走有て小幡取合にてそれゞゝに大名へ知人に成らせ給て箕輸に歸宿有て、嫡子源五郎信綱へのたまひけるは、信州にて聞及しより猶以憲政はうつけたる大将也、其故如何と云に勿論管領の高位とは云ながら事々鋪様躰也、其上代々の老臣等、列は並居けれども萬端上原、須賀両人が儘成仕形也、危き御進退也と見ると仰られけると也。晴信此由を被聞召て原隼人正を以て甲府へ招請有て信州佐久郡小諸の城に在城し給ける、此由義清聞給しかば大敵なれば身上大事に被思けん、信州に残居給ふ滋野一族より人質を取んとて祢津宮内太夫覚直よりは実子を取んと被申けれども兎角して舎弟にて長命寺の住持にて有ける僧をぞ渡被置けり。かゝりける処に信州へ御手遣有て幸隆公、無程本領上田砥石山の城を攻取在城し給ければ晴信公御感悦不浅、其節祢津も晴信公へ属し給ければ義清無念に思はれ人質の僧を千曲川の端に乍生逆さはたものに掛られける。扨其外心替したる人々の人質或は断罪、或はさんぞくに及獄門等にも掛たりけり。中にも長命寺の住持検使に向て披申けるは、はた物に掛給は祢津の方に向ひ掛給べし、其故は覚直にたばかられ実子元直の命に代り敵方へ被渡、此三四年心意をもやし一度は帰寺せんと思しに斯く浅間鋪事、義清公には努々怨なし、此上は祢津七代に祟を成んとて皆水晶の念珠さらゝゝと押もみ真言秘密の観念して念珠にて胸を擲給ば恐鋪怨念哉胸を打給ふ度毎に水晶微塵に成て電の如に閃き祢津の方にぞ飛行ける。一七日が其間つぶやき後怨念忽通じて元直の嫡子を御乳母の侍女抱居けるに其日の内に眼をはりつぶし給けり。其以後子孫へ祟り給に他人の目には見へざりけるが其人には出家の形と見給ば片時の間も無く煩ひ給ひ、医薬を用る薬鍋の内に有ける薬袋を取給ば一門の人々奇異の思をなし給て警固の武士を数多附置、薬鍋の蓋を弦に結付守り給けるに蓋を明て見に薬は無し、三代の間は斯く祟を成給けるが後に氏神と崇め禿倉を建て祭給ければ是にて感応し給しか後代にはさして祟も無りけり、于今至て若宮と敬給なり。