息子が不良(かぶき者)と付き合ってることが発覚したり、娘が行方不明になったりで、心労がハンパない。
かぶき者や滝川一益にも一目置かれる、すでにいっぱしの漢(おとこ)。
人質に出された先でブン捕られるが…そいつがワリとイイ奴で助かった。
前回の章で安土へ人質に出されていたことが判明した真田昌幸の娘(村松殿)…
信長が弑せられ混乱する世の中で、彼女の辿る波乱の運命とはいったい…!?
さて、信長は37国をその手に入れ、その国々はすべて穏やかに治まり、人々は上下問わず安堵の思いをなすことができました……がッ!!
…そんな折、中国への討手の大将を承った明智の維任(惟任:これとう)日向守光秀は…
なんと、居城の丹州亀山から京都の本能寺へとカチコミをかけ、信長公をたやすく討ってしまいました…!
――それは天正10(1582)年6月2日――勝頼公が滅びてから83日目のことでした…。
そして信長の恐怖の“タガ”が外れた国々の領主たちは…
領主A「グフフ…信長なき今、わしらが天下!!」
領主B「ぐあっはは…なにが第六天魔王だ…いなくなりゃただのションベンよ!!」
…こうして、再び兵乱がしきりに起こりました…!
…こうした者たちをなだめるべき国々の僧侶たちでさえ…
僧侶たち「ひえ~ッ…こりゃたまらん!…こうなったらお宝持って山奥の険しいところに退散だーーッ!!」
…とトンズラし、世の中は限りなく動揺しました…。
人々は…
人々「…ああッ!!…なんという世の中に……話に聞く修羅の闘争でさえ…これには及ばないだろう…(原文:かく浅間鋪世の中、寔に修羅の闘争も是には過じ)」
…と泣き悲しみ、目も当てられぬ有様でした…。
――そして、この混乱を話で聞いた真田昌幸は…――
昌幸「なんかよ~…西の国々が荒れてるっつーじゃね?…ちょっと調べに行かねえ?」
…と、信幸と500余騎を連れて、すぐに出発しました。
そして木曽路に着いたその時…
昌幸「…!!…な、なんだアレは?(原文:不思議也)」
昌幸が見たのは7,000~8,000騎の勢が抜連れ「ヒャッハー!」と信濃路へ討入る様子でした…!
昌幸「…な、なんだあの怪しい奴らは?…特に軍を率いてるあの大男…思いきりイカレた格好してやがる…💧」
…と、昌幸たちはいったん小高い山へと引揚げました…。
高台からその軍勢を見下ろした信幸は…
信幸「…!!……あれは…!」
昌幸「…知っているのか信幸?」
信幸「…フッ…父上…心配には及びません……あの多勢を従え、抜き連れて来るあの男はッ!……間違いようもない…(原文:仔細はなし、此多勢にて抜連れ来るは、別人に非ず)」
………
信幸「あれは“前田けいじ”…気心の知れた間柄でございます…!(原文:前田けいじにてあらん、心易)※」
(※この写本には名前の横に「本のマ〃」って書いてありますね。写した人には誰のことだかわからなかったんでしょうかね。今は『花の慶次』のおかげでメッチャ有名ですが。)
昌幸「…!!…前田慶次…あの男が?…(つーかコイツ(信幸)、なんであんなのと知り合いなの?)」
―――――
前田慶次…
当時の沼田城代、滝川儀太夫の子と言われる「前田利益」の通称である。
隆慶一郎氏の『一夢庵風流記』や、それを原作とした原哲夫氏の『花の慶次』により広く知られることとなった(つーかもうあのイメージしかわかない)が、『加沢記』においては、『花の慶次』で仲良しだった真田幸村(信繁)に先んじて、兄の信幸と懇意だったという設定が興味深い。加沢平次左衛門がどのような伝聞をもとにこれを書いたのか、ぜひ知りたいところである。
余談だが、この設定をもって「一緒に○○にでも行ったんじゃね?」などの邪推をする輩が後を絶たないことは、非常に嘆かわしい。現代社会の病理であると言えよう。
――民明書房刊『教えて前田どの!拙者17歳早くいい妓楼にイキたいで候』より――
真田親子がそんなやり取りをしていると、程なく先陣の旗の紋に気付いた前田慶次が向こうからやってきました。
慶次「あれ?…奇遇だね~…真田どのじゃないか!…でもよ~…せっかくココまで来たのにワリイけど、早く帰ったほうがいいぜ…(原文:珍鋪也、真田殿か、はやゝゝ御帰り候へ)」
信幸「?」
慶次「信長さまが亡くなってな~…おかげで上方のほうはお先真っ暗…まったく見通しがつかない有様だ…(原文:信長は御生涯、上方は暗に成)」
――!!――
信幸「…な!?」
昌幸「(…やはり…!…そんなこったろうと思ったぜ…)」
さて、前田慶次に別れを告げた信幸は、大熊靱負を呼び出し…
信幸「…大熊~…姉上のことが心配だ…姉上を迎えに安土へ人を遣っておいてくれ…(原文:御姉君は如何)」
…と命じた後、上田へと帰っていきました…。
…そして…
信幸「…くッ!…こんな時だが、上州の事も放ってはおけない……(原文:上州の事無覚束)」
…信幸は吾妻へと出張っていきました…。
――さて…いっぽう、前橋へ到着した飛脚により信長の死を知った滝川一益は…!!――
一益「…!……信長さまが!?…」
一益はすぐに滝川三九郎(孫のことではない)と、家臣の笹岡平右衛門尉を呼び…
一益「…これを見てくれ…(原文:是見給)」
…と、上方から飛脚により届けられた書状を見せました…。
笹岡「…!!…こ、これはッ!?」
一益「…そういうことだ……こうなったら、この事実を国人たちにも打ち明けよう…(原文:さらば国人達に見せん)」
…一益はそう言って右筆の者を呼び出しました…
笹岡「…な!?……ちょ、ちょっと待ってくださいッ!!…そんなことをしたら我々の身は…💦」
………
笹岡「せめてッ!…ひとまずこの情報は隠し、国人たちから人質を取って我々の安全を確保しなければッ!……信長さまの死をヤツら(国人)に知らせるのなら、それからでも遅くはないですよッ!!(原文:先一応御隠密有て□□□□人質を取固め、其の後申させ給かし)」
一益「…フッ…」
………
一益「…なあ笹岡…『悪事は千里を走り、好事は門を出でず』って言葉があるだっぺゃ?――いい評判はなかなか広まんねえけど、悪い噂はあっちゅー間に広まる――まさにこの状況がそうだとは思わねえきゃあ?(原文:悪事千里を走り好事門を不出と云し、本文は此時なるべし)」
笹岡「…うッ…!💧」
一益「ヘタにこのこと(信長の死)を隠したらよ~…国人たちの恨みを買って……かえってアダになるべや……この期に及んでみっともねぇマネはよすべえじゃね……な!!✨(原文:此事隠密せば国人恨を含み、却てあだとなるべし)」
笹岡「…か、一益さま~…😭」
一益はさっそくお触れを出し、信長の訃報を国人たちに知らせました(※)。
両州(武州と上州)の城主たち――由良新五新六、倉鹿野淡路守、内藤大和、長尾左衛門、大胡、膳、深谷、本庄、小幡、安中、真田――は、それぞれ前橋へと走り集まりました…
城主たち「信長公がね~…ま、ンなコトだろうと思ったけどよ~…滝川どの…それを隠さずに知らせるとはね(これを機に反乱するかもしれないのにな)…あの大将は信頼できるぜ!(原文:頼母鋪大将哉)」
…と、城主たちは自ら一益に人質を差し出し忠節しました。
(※実際(『加沢記』内の話ですが)、真田には前田慶次を通じて信長の訃報は漏れてたワケですから、滝川一益の判断は正しかったワケですね。もし隠しごとしたら男を下げていた。)
一益「…オメーら!…ありがとな…グスッ🥲(原文:国人の情忝)…でもよ、人質なんざ受け取れねーよ……オレはな…これから信長さまの武恩に報いるため、鉢形の氏邦にひといくさ仕掛ける覚悟よ……オメーら…手伝ってくれるか?(原文:信長公への為武恩一軍頼入)」
城主たち「おうよッ!」
こうして滝川一益は、同(天正10(1582)年6月)12日、両国(上州と武州)の勢と手勢を合わせた8,000余騎で、鉢形へ向けて押し寄せました…!
――ドドドドド…――
…そして、北条氏邦と武蔵野で戦いました…が…!
…時の運なく、戦いは不利になっていきました…。
そして…
一益「…ダメだこりゃ…もうよすべえや…(原文:是迄也)」
…と、退却した後、協力してくれた国人衆に対し、丁寧な別れのあいさつを済ませ、信濃路を経て上洛していきました…。
さてその際、真田家からは(読めない)と300余騎を滝川勢の援軍に出していたのですが、一益が笛吹峠を無事に越えたころ、真田信幸の500余騎、祢津宮内太輔元直の300余騎、矢沢薩摩守頼綱の200余騎はナニやら相談して…
…都合1,000余騎で胴赤石畳の旗を真先に進ませ、佐久郡くも場の原で一益を待ち構えていました…。
一益「…!!……あ、あれは!?」
信幸たちを視認した一益は…
一益「…真田どの!?…まさかココにきて心変わりか?(北条に付く気ならオレの首はいい“みやげ”になるからな~)……フッ…返答しだいじゃ一戦交えるっきゃねぇな!(原文:あやしや真田殿、御心変か。依御返答、一軍仕らん)」
…と、手勢を速やかに三手に分けました。
先陣、後陣と備えを立てた一益…
――ざわ…ざわ…――
そこへ信幸、(根津)元直、(矢沢)頼綱の三大将から使者が遣わされ…
使者「👋いやいや…我々は心変りなんかしてませんって!…滝川さまをお見送りしようってココまで来たんですよ!(原文:全く心変りにはあらず、御見送申さん為なり)」
一益「…ほっ😮💨…まったくたまがせやがって…そしたらさ…コッチ来いって伝えてくんねぇ?(原文:さあらば人数を御入れ願はしく候)」
使者からの伝言を聞いた信幸たちは…
信幸「👍(原文:さらば)」
…と、滝川勢に合流しました。それから人質を取り交わしホニャララして木曽路まで送りました。
――その道中――
一益「…なあ真田どの…実はひとつ心残りなコトがあってよ~…『田中忠次郎』っていう侍が前橋で大病を患っちまって…連れて来れずに置いてきちまったんだが…(原文:田中忠次郎と申侍、前橋にて大病也ければ)」
信幸「………」
一益「…真田どの…アンタはオレから見ても頼もしい大将だ!(原文:真田殿は頼母鋪大将也)…どうかヤツ(田中)を引き取ってやってくんねえかい?」
信幸「…わかりました」
…こうして田中忠次郎は吾妻へ送られ、池田佐渡に預けられて嶽山の城に住むことになりました。
…さて、こうして一益はつつがなく本国に帰陣することができました…。
――いっぽう…――
…安土へ人質に送った娘の行方は未だにわからず、父親である昌幸と母親(山手殿)の嘆きは止むことがありませんでした…。
一門や家老たちは、日々会議を行いましたが、娘(村松殿)の行方については一向に分からず、不安で涙を流すほかにできることはなかったのです…。
家老A「…あ、あのさ~…信長公のご家族は日野って所にいるらしいじゃね?……なんでも蒲生忠三郎氏郷ってヤツが忠義をもって安土から救出し、保護してるんだとか……だからさ、もしかしたらその…姫さま(村松殿)も一緒に…(原文:信長公御台公達は日野と云所へ、蒲生忠三郎氏郷以忠義引取御扶育有ければ、若此御方へ御一所にもや)」
家老B「…(;゜∀゜)…イヤイヤ……ウチらが信長公にどんだけ忠節尽くしたっていうのよ?…織田の配下になってからというもの、全然たいした働きなんかしてねーべや?……なのにまさか“真田の娘”っていう理由だけで、蒲生は姫さまを日野まで連れてってはくれねーと思うぜ~…(原文:いやゝゝ、忠節も左のみましまさゞりければ、日野へもいかで伴ひ給ふべき)」
昌幸「…うう…こんなコトしてる間に…娘が悪党どもにさらわれた挙句、ココではとても書けないようなヒドイ目に遭わされていたらと思うと…😭(原文:ほうちゃく夫人(傍若無人)の手に渡り、いか成御身とも成果給らん)」
家老たち「ああ~ッ!!…それは絶対にアカン…😱😱」
………
家老たち「…ううッ…結局人数をたよりに探し出すっきゃねえ!(原文:人数を以て御尋有んより外なし)」
…と手分けして尾張、近江、遠江、三河、甲斐、駿河の六ヶ国在々所々を、草の根分けて、手の及ぶ限りを尽くして尋ね歩きましたが、娘(村松殿)は一向に見つかりませんでした…。
――そして時は流れ…――
…世は秀吉の手により、再び静謐さを取り戻しました……しかし…娘は未だ見つからず、昌幸は…
昌幸「ああッ!…愛する娘よ…束の間もオマエを思わぬ時はない…いったいドコに…」
…と嘆きは深まるばかりでした…。
昌幸が上洛した頃――すでに翌年の春になっていました――桑名の渡し守のところへ昌幸の下郎(※)たちが駆け込み休息していると…
(※登場人物の呼称が“下郎”ってヒドイですよね💧…「下がれ、下郎!」の下郎ですよ?…まあそのまま使うけど)
??「…あの、あなたたち…」
下郎「?」
…20歳くらいの女性が駆けだしてきて、彼らに声をかけました。
女性「…その…今日上洛した殿さまは、何という大将で…国はドコでしょうか?(原文:今日御上洛の殿様は、何なる大将にて、国は何処)」
下郎「あ?…信州の真田どのの御上洛だけど(原文:信州真田殿の御上洛)」
女性「…そうですか」
…すると、その女性はさめざめと泣きだしました…
下郎たち「…!?」
………
下郎「ど、どしたの?」
女性「いえ、すみません💦…信濃と聞いたらつい…懐かしくて…私も実は信濃の出なんですよ。色々あって今はココにいるんですが…国に帰れば母がひとりおります、在所は上田の城……っと!!…イヤその…えーと💧(原文:信濃と聞はなつかしや、自も信濃の者なるが、聊仔細有て此国に有つるが、本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城)※」
(※ココで女性が「…上田の城」まで言ったあと「取直し」てるんですよ!…意味がわかると加沢平次左衛門スゲエ!ってなります。もはや文豪ですね。)
女性「上田の…城町!…そう、“城町”です!」
下郎「お、おう…💧(なんだこのネエちゃん…?)」
女性「あなたたちにお願いがあるのですが…そこの…上田の城町の“喜兵衛”という者に、コレを届けてはいただけないでしょうか?(原文:上田の城町の喜兵衛と申者の所へ御届たまはり候へ)」
…そういうと女性は、紙包を下郎に渡しました。
下郎たちは特に詮索もせず…
下郎「おう、了解!」
…と言ってその紙包を懐に入れました。
………
下郎「なんか変わったネーちゃんだったなぁ…渡し屋の看板娘にしては気品があったけど…」
さて、下郎たちはその紙包について、昌幸が帰陣するまで報告も連絡も相談もせず、しまい込んで上田まで持ち帰りました。
下郎たちは上田の城下町で町人に聞き込みを始めますが…
下郎「あのさ~…この町に“喜兵衛”ってヤツいるかね?(原文:城町の喜兵衛)」
町人「イヤイヤ💦…“喜兵衛”っつったらウチの城主の名前じゃないか…おそれ多くてそんな名を名乗るヤツはいないよ(原文:何か、御城主喜兵衛様と申ければ、其名を付べき者はなし)」
下郎「そういや昌幸さまの前の名前が武藤喜兵衛だったっけ?…オレ、あのネーちゃんの言ったこと、聞き間違えたかな?」
…こんな感じで、桑名で会った女性からの紙包の受取人はいっこうに見つかりません…。
…そんな折、たまたまこの事を足軽大将が聞きつけ…
足軽大将「オメーら何をやっとる?」
…と、この紙包を見てみると…
足軽大将「…こ…これはーーッ!?」
………
足軽大将「こ…これはまさしく姫さま(村松殿)からの手紙ッ…!(原文:御姫様よりの御文也)」
足軽大将はすぐにこの手紙を山田文右衛門に渡し、さらに山田から昌幸の奥方(山手殿)へと渡されました!
下郎「ポカーン(あ、あのネエちゃん…姫さまだったのか~💧)」
奥方(山手殿)はたいそう喜び、さっそく桑名へ人を遣わし、渡し守に褒美をあげたうえで、娘を迎え取りました…。
さて、桑名の渡し守は昌幸の娘(村松殿)を保護した経緯について次のように述懐しています…。
渡し守「いや~、安土の乱の時に戦利品としてソイツ(村松殿)をブン獲ったのはイイけどよ~…どうもただならぬ気品を感じてな~…ピー(自粛)したりピー(自粛)したりするのは、さすがに気が引けたワケよ…(原文:安土の乱に奪捕ければ、大切に存じ)」
………
渡し守「それでよ~…今までずっと人目から隠して保護して来たんだが、まさかコイツが信州真田のお姫さまだったとはね~!…まあオレもマトモな職にありつけたし、褒美までいただけるとはね……親元に帰れてよかったな…達者で暮らせよ!(原文:深く隠密したりけり)」
帰ってきたときの村松殿はみすぼらしい支度で、2年間の憂き目の程が思いやられ、いたわしく、この話を聞く人はみな哀れみを感じました…。
後に彼女は小山田(茂誠)の御内室になったとか。
信長公は三拾七ヶ国へ御手を被為入ければ、国々悉く静謐に成ければ上下安堵の思ひをぞなしにける。斯りける処に明智の維任日向守光秀は中国へ討手の大将承り居城丹州亀山より京都本能寺へ押寄、信長公を輙く奉討ける、頃は天正十年六月二日の事とぞ承る。勝頼公亡び給て八十三日目の事成けりと也。兵乱頻り也ければ、国々の僧侶深山峩々たる処をば能き住居と相尋、財宝を持運び動揺する事限りなし。かく浅間鋪世の中、寔に修羅の闘争も是には過じと泣悲しむ有様、目も当られぬ事共也。昌幸公此由を聞召て為御見届信幸公に五百余騎を相添て不日に打立給て木曽路に御着有ければ、不思議也、其勢七八千騎抜連て、をめいて信濃路へ討入けり、怪しく思召小高き山へ引揚させ給て見給ひて信幸公被仰けるは、仔細はなし、此多勢にて抜連れ来るは別人に非ず、前田けいじにてあらん、心易と被仰ければ、無程先陣に立る旗の紋を見給ふより早く珍鋪也真田殿か、はやゝゝ御帰り候へ、信長は御生涯上方は暗に成と被仰けると也。御暇乞有て信幸公大熊靱負を召てのたまひけるは、御姉君は如何と被仰て御人を安土へ御迎に遣され、信幸公は上田へ御帰城有けるが、上州の事無覚束とて信幸公は吾妻へ御出張あり。斯て一益は前橋へ飛脚到来してければ瀧川三九郎殿、家臣笹岡平右衛門尉を召て、是見給とて上方よりの書状を指出し、さらば国人達に見せんとて右筆の者を被召ければ笹岡先一応御隠密有て□□□□人質を取固め、其の後申させ給かしと申ければ、一益被申けるは、悪事千里を走り好事門を不出と云し、本文は此時なるべし、此事隠密せば国人恨を含み、却てあだとなるべしとて早速触文を以て一々に被申ければ、両州の城主由良新五新六、倉賀野淡路守、内藤大和、長尾左衛門、大胡、膳、深谷、本庄、小幡、安中、真田の人々を先として各前橋に走集て、偏に頼母鋪大将哉とて人々人質を参らせ忠節をぞせられける。一益国人の情忝とて人質を返し信長公への為武恩一軍頼入とて同十二日両国の勢に手勢合て八千余騎、鉢形へ押寄、北条氏邦と武蔵野にて相戦けるが、時也ければ無利して是迄也とてこまゞゝと暇乞して信濃路を経て上洛せられける。其時真田家よりは□□□□□□□□三百余騎を被差添瀧川殿へ被合力ける。一益は笛吹峠を無恙打越給ひければ、真田信幸公五百余騎、祢津宮内太輔元直三百余騎、矢沢薩摩守頼綱二百余騎、御評定有て都合一千余騎、胴赤石畳の旗を真先に進ませ佐久郡くも場の原に控て、あやしや真田殿、御心変か、依御返答一軍仕らんとて手勢を速に三手に分、先陣後陣備を立て動揺す、信幸、元直、頼綱三大将より以使者被仰けるは、全く心変りにはあらず御見送申さん為なりと被申ければ、左あらば人数を御入れ願はしく候と被申ければ、さらばとて人々帰陣せられける。夫より人質を取かはし□□して木曽路まで御送り有けり。其時瀧川殿□云、田中忠次郎と申侍前橋にて大病也ければ、真田殿は頼母鋪大将也とて御頼有ければ、吾妻へ被差越、池田佐渡に被預て嶽山の城に被居ける。一益は無恙本国に被帰陣けるが、安土へ遣されける御娘子様の御行衛無りければ、昌幸公御母公の御嘆き更に止時なかりければ、御一門家老の人々日々に御会合有て此行衛のみ無覚束御落涙の外は無かりけり。信長公御台公達は日野と云所へ蒲生忠三郎氏郷以忠義引取御扶育有ければ、若此御方へ御一所にもやと被申方も有けり、いやゝゝ忠節も左のみましまさゞりければ、日野へもいかで伴ひ給ふべき、只傍若無人の手に渡りいか成御身とも成果給らんとて人数を以て御尋有んより外なしとて手分に成て尾江遠三甲駿六ヶ国在々所々草を分つて手の及限御尋有けるに、秀吉公の御代に移り世上静謐しけれども御行衛更になし、猶も此事忘給ふ隙もなく御なげき深りける、昌幸公上洛したまふ折節、翌年の春、桑名の渡し守が許へ下郎等走り入て休息しければ、二十斗の女房走出で、今日御上洛の殿様は何なる大将にて国は何処と申ければ下郎ども申は信州真田殿の御上洛と申、其時女房さめゞゝとないて信濃と聞はなつかしや、自も信濃の者なるが聊仔細有て此国に有つるが本国なれば母を一人持侍る、在所は上田の城と御申有けるが、取直し上田の城町の喜兵衛と申者の所へ御届たまはり候へとて紙包一つ渡されける、下郎なれば何の弁もなく心得たりとて懐して御帰陣迄沙汰なくして上田へ持来り、城町の喜兵衛と尋けれども何か御城主喜兵衛様と申ければ其名を付べき者はなし、此事寄々足軽大将聞付て此紙包を被披見けるに御姫様よりの御文也、早々山田文右衛門に渡して奥方へ差上ければ不斜悦有て早々桑名へ御人被遣、渡守に御褒美被下御迎取被遊ける。渡し守安土の乱に奪捕ければ大切に存じ深く隠密したりけり、浅間鋪御有様にて二とせのうきめの程思ひやられて御いたわしく聞人ことに哀は増りけり、後に小山田殿の御内室に成給ひけるとなり。