清野刑部左衛門と一緒に沼田を攻めちゃうぜイェイ!!
尻高城主。
藤原景久。
今回はとりあえず降参。
中山城主。
藤原景信。
今回はとりあえず降参するけど金の馬鎧は渡すもんか。
名胡桃城主。
ようやく新しい主君に巡り会えたか…。
小川城主。
北能登守と一緒に真田に付く。
上川田城主。
ウチは利根川の西側だし真田に付いとくか。
川田城主。
源義季。
ウチは利根川の西側だし真田に付いとくか。
沼田城のヤツら(上野、藤田、柴田)より良さげだし真田に付いとくか。
この章からしばらく沼田氏のいなくなった沼田を狙う武将たちの話になります。
なお、章ごとに時代が前後して非常に読みづらいけど「加沢記あるある」なんでガマンして付き合ってくださいね。
永禄年中、沼田万鬼齋父子が没落し、沼田は乱れました…。
元亀2(1571)年、信玄は岩櫃の城に着陣し、真田弾正忠幸隆、清野刑部左衛門を先陣として尻高の城を攻めました…!
信玄に城を攻められた尻高左馬介は…
尻高「…チッ…あんなヤツらと戦うなんて冗談じゃねーぜ……仕方ねえ…降参だ…!」
…と、嫡子の源次郎を人質として差し出し、真田たちの手先として中山に討ち入りました…!
これを知った中山齋藤安芸守は…
中山「ンだと!?…まぁイイや…アホらしいけどウチらも信玄に尻尾振っとくべ…」
…と、取る物も取り敢えず――しかし大事な「金の馬鎧」だけはしっかりと持ち出して――50人ほどの供回りを連れ「不添が森」に出向いて降参します。
尻高「おー中山!…オメーも来たか…ま、懸命な判断だいな…」
中山「尻高~…たまがすんじゃねーよ!…でもまぁ…信玄と戦うなんて冗談じゃねーよなw」
…と、中山も家老の平方丹波守の子を人質に出して真田たちの手先に加わり、不動峠に陣を据えます。
名胡桃城主の鈴木主水も…
鈴木「う~ん…まだ次の主君も決めてないのに…ロクな沼田城代をよこさねー上杉のために戦うのもアホらしいな~…」
…と、真田たちの陣に従います…。
小川可遊齋とその家臣である北能登守も…
可遊齋「…フン…ここはヤツら(武田)に付いておこう…今は主君にこだわることはあるまい…」
北「…アンタ(可遊齋)ってホントに士道って概念がないよね…まあオレも付き合うけど…」
…と、参陣します…。
さらに、上川田の発知図書、下川田の山名信濃守も…
発知「…おう、信玄が来るけどどーするよ?」
山名「どーするもこーするも…川のコッチ側でイキってもしょうがねーべ…」
…と同日のうちに信玄にあいさつに行きました…。
その頃沼田は景虎(謙信)のナワバリだったので、猿ケ京の要害では栗林肥前守が、沼田城では越後から派遣された柴田右衛門尉(メンタルやられて帰ったりしてましたが)が、信玄の侵攻に対して守りを固めていました…。
ところで、小川の家臣で広田弾左衛門という者がいました…。
彼は色々あって近年浪人し、沼田城で上野、藤田、柴田らに従っていましたが、何を思ったのか急に沼田を引き払い、信玄の御陣所へ参上しました…。
信玄は喜んで、翌年広田に加領を与えました…。
その時の証文が…
―――――
定
退在所御幕下二参条神妙之仁被思召候、因茲小川之内弾左衛門惣領分之内弐拾貫文所被下置候、然者沼田筋計策可為肝要者也、仍如件
元亀三年壬申閏正月廿七日
土屋奉之朱印
広田弾左衛門殿
―――――
内容…
「広田~…沼田をバックレてオレんトコに来るたー神妙じゃねーかw……いい心掛けだから小川の領内でもともとオメーの領分だったなかから20貫文をくれてやるよ……そーゆーワケでよ~…沼田スジをカタにハメてやるときは頼りにしてるぜ…」
―――――
…と、こんな具合に降参してきた人たちに加領安堵の証文を与えました。
信玄は前年に小川まで進出してきましたが…
信玄「…ンだよ…上野も柴田も藤田も栗林も籠城して出てこねーじゃねーかよ…張り合いねーな…」
…と西上州の城々に兵を置いて帰って行きました。
尻高「…オイ…信玄のヤツ帰っちまいやがったぜ…」
中山「…だな……やっぱり景虎(謙信)さまに付いとくほうがイイや…」
…と、尻高、中山を始めとした何人かの武将は再び謙信に属しました…。
(彼らが唐沢玄蕃に放火されたり鼓がヘタなのがバレたり金の馬鎧を盗まれたりしたのはこの頃でしょうか?)
さて、この状況下での謙信入道の動きは…
謙信「…お~し、今度はオレの番だな…吾妻郡を攻め取ってやるぜーッ!!」(原文:吾妻郡を可責捕)
…と、たびたび大道峠の辺まで出馬してきましたが…
謙信「…つーかさぁ…吾妻って切所(難所)多くね?…これなら岩櫃の近辺に出城でも構えてさ…そこに屈強な兵を置いとけばとりあえず持つんじゃね?…あんまりあせると却って武州や東上州のほうに支障が出るしな…」(原文:吾妻は切所多く岩櫃の近辺取廻し出城を構窟竟の勇兵を籠置ければ率爾にも取掛ば還て武州東上州之働之障りにもならん)
…と、ついに謙信が来ることはありませんでした…。
永禄年中沼田万鬼齋父子没落沼田乱れければ、元亀弐年に信玄公岩櫃の城に御着有て、先陣真田弾正忠幸隆、清野刑部左衛門を先手として尻高の城へ被掛給へば、尻高左馬介は降参して嫡子源次郎を人質に参らせ御手先に加り中山へ討入給ひいば、中山齋藤安芸守も取物も不取敢金の馬鎧を打懸け五拾人斗の供廻りにて不添が森に出向て降参したりければ、家老平方丹波守子を人質に出し御先に加へ不動峠に御陣をすへさせ給ければ、名胡桃の城主鈴木主水、小川可遊齋を始北能登守参陣したりけり、発地図書、山名信濃守も同日に御礼申たりけり、其頃沼田景虎公の持分也、猿ケ京の用害には栗林肥前守、沼田城には柴田右衛門尉越後より居置れける、爰に広田弾左衛門と云し者小川が臣にて有けるが子細有て近年浪人し沼田に居て上野、藤田、柴田に属しけるが、如何思けん沼田を引払て信玄公の御陣所へ来りければ不斜御悦有て、翌年加領をヒ下ける、
定
退在所御幕下二参条神妙之仁被思召候、因茲小川之内弾左衛門惣領分之内弐拾貫文所被下置候、然者沼田筋計策可為肝要者也、仍如件
元亀三年壬申閏正月廿七日
土屋奉之朱印
広田弾左衛門殿
最前降人之人々に加領安堵し御証文ヒ下ける、前年者小川迄御働有りけるが上野、柴田、藤田、栗林も不出馬籠城したりけり、信玄公も西上州御働に依て在々の城に兵居して御手立なく御帰陣也ければ、同年に又尻高、中山を始景虎公に属したりければ謙信入道吾妻郡を可責捕とて度々大道峠の辺備て出馬有けるが、吾妻は切所多く岩櫃の近辺取廻し出城を構窟竟の勇兵を籠置ければ率爾にも取掛ば還て武州東上州之働之障りにもならんとて終謙信入道発向なかりけり。