加沢記 巻之二⑧ 万鬼齋御父子川場落並白井路峠戸倉合戦之事

加沢記 万鬼齋御父子川場落並白井路峠戸倉合戦之事
加沢記 万鬼齋御父子川場落並白井路峠戸倉合戦之事

主な登場人物

沼田万鬼齋顕泰

 前橋や白井の介入で勢いを増した追討軍から、機転をきかせた逃亡を試みる…。

沼田平八郎景義

 かつての仲間たちを相手に懊悩しながらも、数々の名勝負を展開する…。

広田彦五郎

 小川可遊齋の配下。

 バトルものにおける“かませ犬”という演出がすでに確立していたということは興味深い。

七五三木孫五郎

 “七五三木”は“しめぎ”と読む。

 バトルものにおける“死亡フラグ”という演出がすでに確立していたということは興味深い。

柴田左衛門尉

 謙信から沼田城代として派遣されるが沼田衆からの逆パワハラに遭う…。

内容

 この章も前章の続きですね~。

 この章は雪の中での逃避行の話になりますが、とても切ないシチュエーションですね~。

 完全なフィクションだってこんなシーンはそうそう書けないと思います。改めて加沢平次左衛門の天才ぶりが伺えますね…。

 

 前章でも少し語られましたが、後曲輪の御前から報告を受けた前橋の北条(きたじょう)弥五郎は…

 

弥五郎「婿である朝憲の仇討ちだッ!…万鬼齋と景義をブッ〇せッ!!」(原文:万鬼齋御父子御退治有ベし)

 

…と大胡常陸介を沼田へ送り込みました…。

 

 この噂は近隣の国にも隠れることなく伝わり…

 

長尾一井齋「…ナニ!?…沼田家の御家騒動だと?…おもしれーじゃねーか!…ウチらも乗っかるべーじゃね!」

 

…と、白井の長尾左金吾憲景一井齋入道は、牧弾正少弼、野村靱負介、小林石見、飯塚内記に200余人を添えた兵たちを、正月9日の早朝、沼田に向けて派遣しました。

 

 真壁の城主、神庭三河入道も…

 

神庭「…へぇ~…沼田はそんなコトになってるんだ~…じゃあウチらは前橋に力を貸すかね…」(原文:さらば前橋へ合力せん)

 

…と、兄弟の三郎四郎に100余人を添えて、白井勢と同日(9日)に沼田へ派遣しました。

 そして神庭の兄弟の名前は「三郎四郎」なのか、それとも「三郎」と「四郎」なのか……これがわからない…。

 

 神庭三郎四郎たちは白井の牧たちと合流…合わせて300余人が同日の未刻(午後2時頃)に月夜野台高瀬戸に陣取りました…!

 この情報が川場に伝わると…

 

万鬼齋「クソッ!…前橋に加えて白井と真壁まで…これじゃあとても敵わね~ッ!!」(原文:叶はじ)

 

 万鬼齋は9日の酉の刻(午後6時頃)…自ら川場の館へ火を放ちます…!

 

万鬼齋「…くッ!…ココはもうダメだ!…こうなったら会津城主の芦名盛重に頼るしかねえ…」(原文:会津城主芦名盛重を御頼有ん)

 

…と、白井路峠を経て戸倉越に落ちていきました…。

 

…そこへ沼田衆の先陣である山名、発知、久屋たちが万鬼齋父子を逃がすまいと、鬨の声を上げて押し寄せてきます…!

 

景義「(山名か…小四郎と弥惣もあの中に…)」

 

………

 

 彼らの追跡から逃れる途中…万鬼齋たちは白井路峠でふと足を止めます…。

 

…立ち止まった万鬼齋は辺りの峨々たる岩々――おそらくもう二度と見ることはできないであろう風景――を眺めます…。

…とりわけ彼の目に留まったのは、岩の中から生え出ている古木の松でした…。

 万鬼齋はこの松をつくづくと見つめ…

 

万鬼齋「…ああ…なんて美しいんだろう……オレがこの世にいる限りはよぉ~……たとえ『引き換えに千貫文の領知をやる…』って言われたって…この松だけは手放さねぇぜ…」(原文:扨も宜松哉自世に有時ならば千貫文の領知にも替がたし)

 

…この松は今の世(江戸時代)まで「千貫松」と呼ばれています…。

 万鬼齋が見たのはきっとなんてことのない風景だったのでしょう……もう二度と見ることができないとわかっているからありふれた風景が美しいんですね。

 

…そうこうしているうちに、寄手合わせて2,000余人が叫び声を上げながら攻めてきました…!

 万鬼齋は峠からこの様子を見おろし…

 

万鬼齋「この大雪のなかであの大軍が相手じゃあ…とても勝ち目はねーぜッ!」(原文:此大雪の躰たらくにては叶ひ難し)

 

………

 

万鬼齋「…“カンジキ”だッ!……オメーらッ“カンジキ”を履けーッ!」(原文:去ばカンジキを履や)

 

 万鬼齋一行は雪袴にカンジキといった支度で坂を急いで登りました…!

 彼らはようやく峠の上に這い上がると……

 

万鬼齋「…ふゥ~……これでひと安心だな……前橋や白井のヤツらが何万騎で来ようが、この大雪の中を追ってこれやしねーぜッ…!」(原文:扨は心安し前橋白井の勢何万騎にて寄とも此大雪には難叶)

 

…と言って麓をほうを見ると…

 

万鬼齋「…ン?…アイツら何を始めたんだ…?」

 

――ドゴォッッ!――

 

――!?――

 

 なんと…!…追っ手の先陣の者たちは大木を伐り倒して、火を付け燃やし始めました…!

 彼らが後陣と連絡を取るため大声で叫んでいる様子を見るに、その人数は幾千、幾万とも知れない程でした…!

 焚き立てられた炎の勢いで、古くからの雪に今年の雪がさらに降り積もった山のような大雪も、熱で一気に融け始め、追っ手が安々と峠を登ってきます…!

 

万鬼齋父子「…ま、マジか?(色んな意味で)」

 

 万鬼齋一行は取るものも取り敢えず、坂を下りて栗生の民家に逃げ込みました。

 

万鬼齋「…この後だが、針山峠を越えて小中村へ向かおうと思う…」

 

 しかし、雪が深く計画どおりにはいかず、花咲村を通りかかった際に『丹花石』を目にします。

 

景義「こ…この石は!…音に聞く『丹花石』ッ!?……我々がここを通りかかったのは“偶然”――追っ手と大雪に阻まれた結果がもたらした結果――のハズ……それとも!?…『丹花石』よ…オマエがオレたちをここへ呼び寄せたというのか?」

 

万鬼齋「知っているのか平八郎!?」

 

―――――

丹花石…

…古の時代のこと、奥州の安部貞任と宗任は、康平年中(1062年頃)に厨屋川の城で源頼義、頼家との十二年の合戦に及んだが、遂に敗北した…。

…貞任は〇され、宗任は生け捕りにされて九州肥前国に遠流された…。

…その一族に安部惟任という男がいた。

…彼は陸奥国府を落ち、当国の片品の奥にある、奥州と上州の境界の山中―――そこには大きな沼と大きな川があり、その流れは奥州へと流れ出ていた―――へやってきた…。

…彼はこの谷を『尾瀬』と名付けた…。

…安部惟任はここに引き籠り、またも朝廷に対して反乱を起こした…。

…康平7(1064)年、義家朝臣は惟任を討てとの勅命により軍を率いて同年6月15日に利根郡沼田庄に着陣した…。

…すると不思議なことに(この後の文が一部欠けている)――おそらくココは『花咲石』の伝説と、安部惟任の恋人?である上臈のエピソードが書かれるハズだったのだろう――

…この上臈を慰めようと「この石に花が咲いたなら…花見でもしようじゃないか…」と、この場所に下り、この石を『丹花石』と名付け一首の歌を詠じた…。(この後も文が欠けている…)

…「惟任の悪逆を放っておくワケにはいかない」…この地に着陣した義家朝臣は、ついに安倍惟任を誅した…。

…惟任と離れて逃げた上臈は、折節満水だった片品川の水に溺れて亡くなってしまった…。

…上臈の魂は上白井のヒスルマという所で『奥の御前の明神』として顕れたという…。

――民明書房刊『尾瀬とその悲話――花咲石と丹花石――』より――

――――

 

景義「…『丹花石』……古(いにしえ)の安倍惟任と上臈もこの石に導かれ…そして消えゆく運命を迎えたという……我々がココを通りかかったのは偶然か…それとも……オマエに導かれた我々も…彼らと同じ行く末をたどるいうのか…」(原文:此所にて失給ひければ我行末も如何)

 

…その後、一行は幡谷の郷に下り、片品川を越えて大渡代の要害に向かいました。

 

万鬼齋「大渡代には味方の星野、高橋、井上が控えている……あの場所ならひとまずは追っ手を防げるだろうぜ…」(原文:大渡代の用害には味方星野、高橋、井上奉待ければ此所にて一支さゝえん)

 

…と、大渡代の要害で敵を待ち受けていた万鬼齋たちですが……

 

 追っ手の軍は多勢ならではの戦法を用いて、雪踏役を先頭にして難所を物ともせず、越本峠を経て越本に到達しました…。

 この情報を聞いた万鬼齋は……

 

万鬼齋「な…なんだと!?…バカな!…このままじゃあ敵に道を塞がれちまうッ!…そうなったらもう終わりだッ!」(原文:敵に道を被塞ては不叶)

 

 万鬼齋たちは仕方なく、9日の夜中に要害を忍び出て、小川通のルートでイカン町を密かに通り過ぎ、戸倉の山中に入りました…。

 

 夜が明けた10日…大渡代を攻めようとしていた追っ手の軍のもとに「万鬼齋たちは既に戸倉に向かった」(原文:敵は早や戸倉に越給ふ)との情報が入ります…!

 

山名「…その情報が本当なら、この山中からの追跡は難儀だな」(原文:山中にては難叶)

 

大胡「…ここは地元のアンタらの意見を聞くぜ」

 

発知「…ここは…戸倉郷の周りから押し詰めて叩くのはどうだろうか…?」(原文:戸倉の郷の辺にて押詰申ん)

 

小川「…うむ」

 

牧「…戸倉…か」

 

…こうして、万鬼齋たちに続き、追っ手の軍も戸倉へと急ぎ向かうのでした…。

 敵も味方も運命に導かれるように、結局はこの章の表題にもなっている“戸倉”へと集結してしまうんですね~。

 

 追っ手の軍は小中村の仙ノ畑に駆け寄りました…!

 万鬼齋父子も仙ノ畑に旗を立てたので、追っ手は鬨の声を上げて彼らに鉄砲を撃ちかけました…!

 

神庭「…クソッ!…こう足元が険しくては…!……太刀打ちの勝負にも持ち込めないな…」

 

 追っ手の大将たち――発知、山名、小川、久屋、大胡、牧、神庭――は、会議を行い、二手に分けた軍を向山篠ハタド越えでタヅベ山へ上げてから、川上に廻って重川屋ちの瀬という所を越え、ついに万鬼齋の陣へと攻め入ります…!

 

 平八郎(景義)は、自ら大太刀を抜いて、真向に振りかざし…

 

景義「(…ついにこのようなことになってしまったか……この刀を――身に付けた技を――かつての仲間たちに向けて振るうことになるとは…)…愚か者…!…愚か者どもめがッ!!……重代の主君に向かって弓を引き、矢を放つとは……こんなバカな話があるかッ!!(原文:悪き奴原哉重代の主君に向て弓を引き矢を発つと)

 

景義「(…そう…バカな話だ……所詮我ら父子もな……)」

 

 最初に景義を襲ったのは、小川可遊齋の配下、広田彦五郎です…!

 

景義「…南無八幡大菩薩!……我が戦いを見守り給え…」(原文:南無八幡大菩薩も御知見あれ)

 

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  ドシュッ!

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   💥

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広田「ぶぁらッ!?」

 

――広田彦五郎――小川可遊齋配下――真向二つに斬り割られて死亡――

 

 二陣として景義の前に立ちはだかったのは七五三木孫五郎です…!

 

景義「…!!…孫五郎か……」

 

七五三木「…景義さま……逃げられませんよ!」(原文:不遁)

 

 七五三木は三尺五寸の太刀を抜き、景義に撃ちかかります…!

 

景義「…残念だが孫五郎……オマエの太刀筋はすでに見切っているッ!」(原文:さ知たり)

 

…「察したり」ですね。ニュータイプか。

 

 八郎(景義)は兜の吹返しの板で七五三木の斬撃を受流すと、彼の胴を横手切に薙ぎ払いました…!

 

――💥――

 

七五三木「…!!…」

 

…瞬間ッ!…七五三木孫五郎の脳裏をよぎったのは…

 

……………

 

七五三木「…なあ」

 

七五三木の友人「…ん?…何だい?」

 

七五三木「…オレさ…今回の隠居討伐の戦いで…景義さまを討ち取ってやろうと思ってるんだ…!」

 

友人「景義さまを…?」

 

七五三木「ああ!…そしてオレは『景義を討った男』として後代に名を残すッ!……実はオレさ…うぶすな神である熊野大権現の社に、事がうまく運ぶように願書を書いて置いてきたんだよ!…へへっ!…これはまだ秘密にしておいてくれよなッ…!」

 

友人「…フフッ…孫五郎、がんばれよ!…うまくいくといいな…」

 

……………

 

――ドバァァッ――

 

七五三木「ぐぶっ…!」

 

――七五三木孫五郎――回想シーンで死亡フラグを立てる器用な男――胴を斬られて死亡――

 

(七五三木の回想~死亡シーン原文:むざんなり孫五郎、在所を出しより以来、大将を討て名を後代に残んとてうぶすな熊野大権現の社に願書を籠置たると傍輩に語りしが今大将に向ひけるは運や尽たりけん景義の大刀にて胴伐にせられし事哀れなり)

 

…戦闘シーンからの流れるような死亡フラグ描写が美しい…

 

 三陣として、前橋勢――北条(きたじょう)弥五郎の配下――の中から一人の男が現れました…!

 

男「オレの名は“齋藤加賀守”!……沼田平八郎景義…ココで貴様を〇す!!」(原文:不余)

 

 齋藤は長身の槍を引っ提げ、景義に襲いかかります…!

 

景義「…齋藤か……おもしろい…景義が太刀の威力…その身で思い知るがいい…!!」(原文:齋藤か珍しや景義が太刀の鉄(まがね)見よや)

 

…と、八郎(景義)も得物を振って応戦します…!

…が、齋藤も世に聞こえた強者……身を下手にして景義の斬撃をかわし、槍を突き掛けます…!

 

景義「ぬぅ!…なかなかやりおるな…!」

 

…と、そこへ……

 

万鬼齋「平八郎~ッ!…助太刀するぜーッ!!」

 

 万鬼齋が長身の槍を手に応援に駆け付けます…!

 70過ぎのおじいちゃんの割にはがんばりますね。

…しかし

 

神庭「おっと!…オッサン…邪魔はさせねーぞッ!!」

 

…と、神庭十郎四郎(三郎四郎?)が万鬼齋を阻みます…!

 

万鬼齋「このクソガキャアッ!…わけわかんねぇ名前しやがって……テメェこそ邪魔すんじゃあねぇッ!!」

 

 この混戦のなか、齋藤加賀守は熊笹が茂っている大雪の中へ踏み込みハマってしまいます…!

 

加賀守「うおッ!?」

 

 齋藤加賀守は動けなくなってもがいているうちに、手槍をを谷の底へ落としてしまいました…。

 

加賀守「チッ…!……オレとしたことがドジっちまったな……仕方ねえ…ここは一時退かせてもらうぜ…」

 

 こうして齋藤加賀守を追い払った景義でしたが、さらなる軍勢が彼に襲いかかります…!

 

 景義に襲いかかったのは、小川可遊齋の配下――石坂、杉木、後閑――さらに名胡桃勢から高橋、後藤が抜き連れて撃ちかかります…!

 

景義「…ほう、今度は大勢だな…!……面白いッ!……我が力を思い知るがいい…!!」(原文:此度は大勢也、手並の程を見せん)

 

 景義は大長太刀を水車の如く振り回し、敵を薙ぎ払い、斬り立てます…!

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  💥

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   💥

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――💥――

 ――💥――

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  💥

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小川勢「…うわああーーッ!?…」

 

名胡桃勢「…ヒィィ~ッ!!…」

 

 景義の勢いに、2,000余人の寄手の兵たちはビビッてたじろぎます…!

 久屋、小川、発知、山名、岡谷たち指揮官クラスの武将たちは必死で采配を振るい立て直しを図りますが…

 

久屋左馬允「ひ、ひるむなッ!…相手はたった1人だぞ?…」

 

小川可遊齋「…あれが沼田平八郎景義…!……聞きしに勝るバケモノだな…」

 

 久屋たちも、景義の力に心の底から恐怖し浮足立った多くの兵たちを立て直すことはできず……わずかな時の間に小中村の辺りまで退散しました…。

 

 ひとまず追っ手を退けた万鬼齋父子は、配下の塩野井又市郎、星野図書介、中ノ源六、関主税助、宇楚井孫八の5人を呼び出します…。

 

万鬼齋「…オマエたち…よくここまで付いてきてくれた…!……オマエらの誠意は…深淵よりもなお深いぜ!」(原文:是迄の心ざし深き淵よりも猶深し)

 

塩野井たち「…万鬼齋さま……」

 

万鬼齋「…だが……ここでお別れだ……みんな…沼田へ帰ってくれ…」(原文:各沼田に帰り給ふべし)

 

―――!?―――

 

塩野井「な、何ですって…!?」

 

星野「ば…馬鹿な……いったい何を言い出すのですッ!?」

 

万鬼齋「聞くんだ!…我ら父子はこれから会津の芦名殿を頼る!…もしも運命が開け本領に帰れることになったなら…再び会うこともあるだろうぜ…」(原文:自ら父子は会津の芦名殿を頼ん、若も運命開き本領に帰なば二度対面せん)

 

 万鬼齋父子はそれぞれに形見を与えました…。

 

塩野井たち「ああ…万鬼齋さま…景義さま…」

 

 塩野井、星野、中、関、宇楚井の5人を先頭とした万鬼齋の家臣たちは、みな感涙を流しながら古郷に帰っていきました…。

 

景義「(…皆、元気でな…)」

 

………

 

万鬼齋「…さて、オレたちにとっての本当の地獄はこれからだぜ…!」

 

 群馬県と福島県は隣り合った県ですが、令和3(2021)年の現在においてもなお県境を自動車で越えることができません…。

 万鬼齋父子は、真冬にこの険しい道を、深雪をしのぐこともできず、野七里、山七里と急ぎ会津へ向かうのでした…。

 

 万鬼齋たちが女石を通りかかったとき!…ひとりの追っ手から襲撃を受け、御供の何人かが討たれました…!

 ここの原文は「女石にて一僕走付ゝゝ御供の人々少々被討にけり」とありますが…

 

…?!…

 

 なんだこの唐突な一文は…?…以下は妄想です…

 

刺客「(…シュッ……)」

 

―――💥――

 

お供A「うッ!?」

 

――💥―――

 

お供B「グブッ…!」

 

万鬼齋「…!?…て、テメエ……な、何者だ?」

 

刺客「………」

 

――ゴゴゴゴゴ――

 

景義「…お、オマエは…!?」

 

刺客「…ご隠居ッ!!…なぜ朝憲さまを〇した?……景義さま…あなたも我々を裏切るのか…?……オ…オレは……本当のコトが知りたいッ!!」

 

――ゴゴゴゴゴ――

 

景義「…弥惣か……こんな所まで…一人で追ってきたのか…?」

 

万鬼齋「…てめー…2人も〇しやがって……おい景義ッ!…そんなガキぶっ〇して先を急ぐぜッ!!」

 

景義「!」

 

……

 

景義「…弥惣よ…父上はああ言っているが…そのまま帰れ…見逃してやる…」

 

弥惣「な?……ナメてんじゃねーぞ…!?」

 

 ――💥――

――💥――

 

景義「…弥惣……この…!……バカモノめがーーッ!!」

 

――ズドンッ!!――

 

弥惣「うおおッ!?」

 

景義「父上ッ!…今のうちに…」

 

………

 

弥惣「…う……ま…待ちやがれ…!」

 

――ドドドドド――

――ズンッ!――

 

弥惣「ドミネ・クオ・ヴァディス?……アンタを逃がすくらいなら…ココで始末してやるぜーーッ!!」(※「ドミネ・クオ・ヴァディス」は上州弁で「どこへ行かれるのですか」という意味)

 

景義「チッ!」

 

―――💥

    ―💥―――

 

――ドゴォォオッ!!――

 

………

 

弥惣「…うッ……景義さま…オレは…アンタに……(ガクッ)」

 

………

 

万鬼齋「フン!…平八郎ッ!…そのアホをしっかりトドメておけよッ…」

 

景義「…この寒さのなかです……それには及ばないでしょう…」

 

………

 

景義「(…弥惣……生きろよ…)」

 

…こうして生き延びた刺客――山名弥惣――は、10年以上もの時を費やし「景義〇し」の秘剣を編み出すのでした…。

 ちなみにこれは「行間を読む」と称して、原文にハッキリ書かれてないのをいいことに好き勝手に書いた妄想です…。いともたやすく行われるえげつない行為です

 

………

 

…その後、万鬼齋たちは7日間も険しい雪の山中をさまよい歩きました…。寒さは彼らの体力を一気に奪います…。

 

万鬼齋「…平八郎よ……オレはもうダメだぜ……オマエだけでも芦名ンところにたどり着くんだ……」

 

景義「…バカなことをおっしゃらないでください…」

 

―――――

 

景義「…父上…ご覧なさい!…会津ですよ…」

 

万鬼齋「………」

 

 正月16日…万鬼齋たちはようやく会津盛重の館へ入ることができました…。盛重は彼らを御馳走でもてなしましたが……

 

万鬼齋「…景義……お別れだ…雪山で感じたオマエの温もり……忘れないぜ……」

 

景義「ち…父上……」

 

――沼田万鬼齋顕泰――死亡――

 

――罪科の 報ひもしらず 蚕飼して

   乾ゐる蛹に なるは顕泰――

 

…狂歌の予言はこうして成就したのでした…。

…万鬼齋が死んだことにより、会津まで付き従ってきた人たちも泣く泣く古郷へ帰っていきます…。

 

景義「…お前たち…世話になった……元気でな…」

 

お供たち「…ううっ…景義さまもお元気で…」

 

景義「(…父上…母上……悼みます……悔やまれるのは――もしもオレにくれた愛情をほんのわずかでも兄上に注いでくれていたなら――いや…過ぎたことはもはやどうしようもない……)」

 

―――――

 

景義「…オレは…いつか必ず帰ってみせる…!!」

 

 本当は湯呑ちゃんの凍死の真相とか妄想を垂れ流したいけどさすがにこのペースでやると加沢記の紹介を終わる前に人生が終わりそうなのでやめておきます。

 

………

 

 さて、万鬼齋たちが会津に着く3日ほど前の正月13日のこと…彼らを追討した人々は倉内へと帰り、会議を行いました…。

 

可遊齋「さて、これからどうするね…」

 

岡谷「オメーが仕切ってんじゃねーよこのニセモノが…

…まあでも確かに城主がいない状態ってのはよくねーな……どうするよ恩田?」

 

恩田「…この状況…謙信公へ報告するしかあるまい…」

 

下沼田「…そうだな…あんまりカッコイイ話じゃねーが…

 カシラ(金子泰清)!…それでいいかね?(…コイツ今までドコにいたんだ?)」

 

泰清「あ?…う…うん…それしかねーんじゃね?(オレは弥七郎事件のほとぼりが冷めるならなんでもイイぜ~…あの真相がバレるのだけはマズイッ!)」

 

(会議意見原文:謙信公へ注進せん)

 

 こうして、小川可遊齋、発知刑部大輔、久屋三河、山名信濃、岡谷平内左衛門、下沼田豊前守、発知図書介、鈴木主水正、恩田越前守、中山右衛門尉、金子美濃守、渡辺左近丞の連判により、越後の春日山へと注進がなされました…。

 

 報告を受けた景虎(謙信)は…

 

謙信「ンだと!?…沼田そんなコトになってんのか?…」(原文:不易)

 

…と、家臣の直江山城守(ホンマか?)、長尾伊賀守、北條丹後守、栗林肥前守、萩田主馬、上野、柿崎、川田、柴田といったメンバーで会議を開きます…。

 

…会議の結果…

 

謙信「…そーゆーコトで柴田~…オメーちょっと行ってきてくれや…な?」

 

柴田「…はあ」

 

…というワケで、永禄12(1569)年3月から沼田城代として柴田右衛門尉がやってきました…

 

…が!…

 

 柴田右衛門尉に対する沼田衆の対応は…

 

柴田「…山名…川の西の治水の件だけど…オレ来たばっかでよくわかんねぇからさ…資料かなんかない?」

 

山名「あ~…(メンドくせぇな)…アレならうまいコトやっときますよ」

 

柴田「あ?…ああ…」

 

久屋「城代~…そろそろ白沢用水の普請したほうがイイと思うんスけど~」

 

柴田「お、おう…そうだな…人集めってどんな感じでやってた?」

 

久屋「あー…万鬼齋さまン時は何も言わなくても皆勝手に集まったんですけどね~…」

 

柴田「……」

 

…と、このように、沼田は永禄の始めごろから景虎(謙信)の傘下になっていたとはいえ、やっぱり現場は顕泰(万鬼齋)が大将として仕切らないとウマく仕事が回りませんでした…。

 

柴田「………」

 

………

 

柴田「…オイ!…ワリーけど城代はオレなんだからさ~…オメーらちっとは協力しろよ!…報告も相談もなけりゃあココの状況がちっともわかんねーだろうがよ…!」

 

岡谷「…ちっ(ブツブツ)うぜーな…万鬼齋さまだったら……」

 

柴田「…あ!?💢

 

下沼田「…城代…申し訳ないんだけど…その……川場の隠居(万鬼齋)も朝憲さまもいない今…ココ(沼田)のことを一番わかってるのはオレたちなワケで……謙信公に直に話をさせてもらうワケにいかねーかな?」

 

柴田「(💢ブチッ)」

 

(この辺原文:此連判の人々は顕泰公の幕下也ければ此度直参に成けるとて柴田が下知をも不用して我々にこそ成にけり)

 

…ちなみに「ブチッ」て切れるのは「血管」じゃなくて「堪忍袋の緒」ですからね(重要)つーかこの辺の柴田さんのことを想うと涙が出てきますね…人事ってホント大切ですよね。

 

…こうして永禄12年3月に越後から沼田の城代として派遣されてきた柴田でしたが…

 

柴田「景虎(謙信)さま~…オレもうアイツら(沼田衆)の上司やんのムリですよ~(泣)…完全にオレのこと見下してやがるしよ~…」(原文:先方衆山々なりければ)※「山々」じゃなくて「心々」かも…要するにナメてるってことですね。

 

柴田「…何かにつけて『万鬼齋さまのときは…万鬼齋さまのときは…』ってよォ~…テメーらが追い出したクセに…そんなに万鬼齋が良かったんなら内乱なんかしてんじゃねーよ~(泣泣)」

 

謙信「…わかった!…柴田…オレが悪かった!…もうイイから帰ってこい…」

 

…というワケで、柴田は永禄13年の春、越州頸城郡へと帰っていきました…。

 入れ替わりに上野中務大輔と川田伯耆守が沼田城代としてやってきました。

 郡中の奉行には小中、松本、金子美濃が就任しました…。

 

 

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原文

前橋より万鬼齋御父子御退治有ベしとて大胡常陸介差向られける。此事国中に無隠長尾左金吾憲景一井齋入道より為加勢牧弾正少弼、野村靱負介、小林石見、飯塚内記に二百餘人相添、正月九日の早朝に白井を打立ける、真壁の城主神庭三河入道もさらば前橋へ合力せんとて兄弟の三郎四郎に百餘人相添、是も同日に打立て牧が勢と一所に成て三百餘人同日の未刻斗に月夜野台高瀬戸に陣取、猶も此事川場に無隠れば叶はじとや被思けん、九日の酉刻斗に川場の館へ火を掛け會津城主芦名盛重を御頼有んとて白井路峠を経て戸倉越を落給ふ。かゝりける處に先陣山名発知久屋の人々遁さじとて時の聲を上て押掛たり。万鬼齋白井路峠に暫く御休有て峨々たる岩を詠め給ひ岩の中より生出たる古木の松有り此松をつくゞゝと御覧有て扨も宜松哉自世に有時ならば千貫文の領知にも替がたしと被仰ければ其時より此松を今の世迄千貫松と申也。かゝりける處、寄手都合二千餘人、喚いて掛りければ峠より此勢を見下して此大雪の躰たらくにては叶ひ難し、去ばカンジキを履やとて雪袴カンジキを召れて坂を登りに急がれけり、漸く峠の上にはい上り扨は心安し前橋白井の勢何万騎にて寄とも此大雪には難叶とて麓を見給ふに先陣の者ども大木を伐倒してたき立、後陣の勢を待合喚き叫ぶ有様を見るに其勢幾千万と云数を不知、たき立たる焔の勢にて古年の雪に今年の雪の降積たる大山の大雪一時に解て安々と峠を押上げたれば万鬼齋父子、案に相違して取物も取敢ず坂を下り栗生の在家に着給て針山越を小中村へと思はれけるに雪深くして難叶、花咲村に掛り玉て丹花石を見給ひて古へ奥州安部貞任、宗任、康平年中に厨屋川の城にて源頼義、頼家公と十二年の合戦に終に打負、貞任は被誅罸、宗任は被生捕、九州肥前国に被遠流けるが其一族に安部惟任、陸奥国府を落て当国片品の奥、奥州上州の境山中に大き成沼有り大川有り、其流は奥州へ流出る其谷を名て尾瀬と云。彼所に引籠り猶亦悪逆を振ければ康平七年義家朝臣、蒙勅軍兵を率して同年六月十五日に利根郡沼田庄に御着陣有ければ不思議也(已下闕文)

彼上臈を慰んとて其比此石に花咲ければ為花見此所へ下り給て其時丹花石と名付給て一首の歌をぞ詠じ給ひ

ける(已下闕文)

惟任悪逆難閣重而義家朝臣御下着有て御誅罸有り、彼上臈も此所より没落し給ひて折節片品川満水にて水に溺れて失給ひける。上白井ヒスルマと云所にて奥の御前の明神と顕れ給ふ云々。此所にて失給ひければ我行末も如何と心細くあやしくこそ被思ける。従夫幡谷の郷に下り片品川を打越て大渡代の用害には味方星野、高橋、井上奉待ければ此所にて一支さゝえんとて寄くる敵を待給ける。寄手の人々は多勢にて雪踏を先立て難所とも不云、越本峠を経て越本に着と聞へければ敵に道を被塞ては不叶とて九日の夜半斗に用害を忍出、小川通にイカン町を忍やかに打通り戸倉の山中に入給ふ。明れば十日の一天に寄手の兵大渡代に寄んと致しける折柄、敵は早や戸倉に越給ふと注進しければ山中にては難叶戸倉の郷の邊にて押詰申んとて急ぎける、小中村仙ノ畑に駈附る万鬼御父子も仙ノ畑に御旗を被立ければ寄手は時の聲を上て鉄砲を打掛けり、されども山中険阻なれば太刀打の勝負も不成ければ寄手の大将発知山名小川久屋大胡牧神庭の人々評定有て二手に分れ、一手は向山篠ハタドを越ヘタヅベ山へ責上り川上に廻り重川屋ちの瀬と云所を越し御陣の内へ責入ければ平八郎殿自ら大太刀を抜て真向に振かざし、悪き奴原哉重代の主君に向て弓を引き矢を発つと南無八幡大菩薩も御知見あれとて先陣に進たる小川が手の者、広田彦五郎が真向二つに伐割給へば二陣に続たる七五三木孫五郎、三尺五寸の太刀抜持て不遁とて討て掛りければ八郎殿さ知たりとの給ひて御甲の吹返しの板にて受流し横手切に薙給へばむざんなり孫五郎、在所を出しより以来、大将を討て名を後代に残んとてうぶすな熊野大権現の社に願書を籠置たると傍輩に語りしが今大将に向ひけるは運や尽たりけん景義の大刀にて胴伐にせられし事哀れなり三陣に控たる前橋勢の中より齋藤加賀守と名乗て長身の鑓引さげ不餘と掛りければ八郎殿、齋藤か珍しや景義が太刀の銕見よやとて振て掛り給ふ、齋藤も聞ゆる兵なれば下手に成て突掛たり、万鬼齋此由を見給て長身の鑓を提て掛り給へば神庭十郎四郎も討て掛りけるが齋藤熊笹茂れる大雪の中へ踏込ければ働不成して兎や角しける中に手鑓を谷の底へ落しければ不叶して引返しけり。後陣に続たる小川が手の者、石坂杉木後閑名胡桃勢の内、高橋後藤抜連れて打て掛りけり、八郎殿此度は大勢也、手並の程を見せんとて大長太刀水車に廻して払伐に切立給へば此勢に避易して二千餘人の寄手の兵、四度ろに成てければ久屋小川発知山名岡谷采配を振て下知しけれども大勢の引立たる事なれば不叶して小中村の邊を只一時に退散す、万鬼齋御父子は塩野井又市郎、星野図書介、中ノ源六、関主税助、宇楚井孫八を召て是迄の心ざし深き淵よりも猶深し各沼田に帰り給ふべし、自ら父子は會津の芦名殿を頼ん、若も運命開き本領に帰なば二度対面せんとてそれゝゝに御形見を賜りければ五人の人々を先として何れも感涙を流して古郷に立戻る。万鬼齋御父子は深雪を凌兼ね野七里山七里急玉ひけるに女石にて一僕走付ゝゝ御供の人々少々被討にけり。日数七日にて山中をまどひ出給ひて正月十六日に會津盛重公の御館へこそ入らせ給ひける。盛重公馳走し給ひてけるが万鬼齋は無程逝去し給ひければ御供に属たる人々も會津より泣々古郷へ帰けり。扨東入への寄手の勢、残党を集め正月十三日の頃倉内に立帰り各評諚あつて謙信公へ注進せんとて小川可遊齋発知刑部大輔、久屋三河、山名信濃、岡谷平内左衛門、下沼田豊前守、発知図書介、鈴木主水正、恩田越前守中山右衛門尉、金子美濃守、渡辺左近丞連判を以て越後春日山へ注進申されければ景虎公不易思はれ家臣直江山城守、長尾伊賀守、北條丹後守、栗林肥前守、萩田主馬、上野、柿崎、川田、柴田等に御評定有て沼田城代として同年三月より柴田右衛門尉を被差置ければ沼田は永禄の始より景虎公の御幕下也けれども顕泰こそ大将也。此連判の人々は顕泰公の幕下也ければ此度直参に成けるとて柴田が下知をも不用して我々にこそ成にけり。柴田は永禄十二年三月越後より沼田の城代に為られけれども先方衆山々なりければ景虎公へ訴訟し給ひて同十三年の春、越州頸城郡へぞ被帰ける。同年上野中務大輔、川田伯耆守を沼田城代に被置けり。郡中の奉行には小中松本金子美濃なり。